チャプター8
〜アーレンの森 二日目 午後〜
「ちょっと、フォルちゃん? 離して?」
少しして、相変わらずエルリッヒにしがみついたままのフォルクローレ。いかに力を込めてしがみついたところでエルリッヒにとってはどうということはないのだが、このままでは身動きが取れない。かといって力ずくで引き離してしまえば、そのまま溺れてしまうかもしれない。人間、驚いている時には普段泳げるのに溺れてしまうことがある。まずは落ち着いてもらわなければならない。
現に、今もいつの間にか立ち漕ぎをしていない。こうして浮かんでいられるのは、しがみついた先のエルリッヒが必死に足を動かしているからだ。せめて、足のつく浅いところまで移動できればいいのだが、暴れられても困る。
「フォルちゃん、驚くのはわかるけど、少し落ち着こう。私何か見てくるから」
おそらく、フォルクローレは鳴子を鳴らした何者かの影に怯えているのではない。何しろ、お得意の爆弾はそれこそ一糸まとわぬ今の姿でも使用でき、安定した性能を発揮できる。それに、そんな姿を見られたところで、獣や亜人族には何の価値もない。であればこそ、安心仕切っているところに突如鳴り響いた音に驚いたのだ。だから、落ち着かせるのは簡単だと踏んだ。
とはいえ、よほど驚いたのか、耳元から聞こえてくる呼吸は荒く、胸に伝わってくる鼓動は速い。
「……本当?」
「本当。そりゃあ、いきなり何かいたら私だって驚くけど、フォルちゃんよりは冷静でいられる自信はあるよ。だから、そのためにもね? 離して」
力づくで引き剝がしたいのをぐっと堪えて優しく話しかけ、ゆっくりと落ち着くのを待つ。本当なら、この間にも闖入者は襲ってくるかもしれないし、逃げてしまうかもしれないのだが、何かが現れたら対処すればいいし、いなくなるのならそれはそれでいい。それよりは、フォルクローレの動揺を鎮めることが最優先だった。
「……フォルちゃん、落ち着いた?」
耳元に優しく囁きかけると、静かな頷きが返ってきた。鼓動も、徐々にだがゆっくりになってきている。これなら大丈夫だろう。あとはフォルクローレの自主性に任せても大丈夫だろう。そう思ったのだが、
「……フォルちゃん? 落ち着いたんじゃないの? そろそろ離れて欲しいんだけど」
フォルクローレはなかなか離れようとしなかった。
「いやー、なんか、エルちゃん抱きしめてたらなんかやわらかいし、落ち着くなーって……」
「えぇ? なにそれ。喜んでいいのかな。あとでいくらでも抱きつかせてあげるから、今は離して? 見てくるからさ」
そう言ってゆっくりと引き剝がすと、肩を組むように繋がったまま、浅い岸まで泳いでいく。ここなら、もう大丈夫だ。そして、フォルクローレと離れて服を隠してある茂みまで泳いで行った。
さすがにこのまま服を着るのは嫌なので、体を拭くためのタオルを簡単に巻きつける。そうして、先ほど鳴子の鳴った場所に向かう。もう今は静けさを取り戻しているが、大体の位置は覚えている。
「エルちゃーん、気をつけてね〜。いざとなったら爆弾もフライパンも用意しておくからねー」
「んー、ありがとー」
警戒のためか未だ水面にいるフォルクローレから、緩やかな声援が届く。それを背中に浴び、こちらもそろりそろりと近づいていく。先ほどから「何者か」の気配は感じていない。だから、さほど警戒する必要はないのだが、少なくともフォルクローレはそれを感じ取れるほど研ぎ澄まされてはいない。
やはり、自分が動いて正解だったと実感する。
「えーと、この辺だったはず……」
フォルクローレの仕掛けた鳴子はなるほどよくできている。しかし、予想通り獣の姿も亜人種の姿もない。もちろん、このシチュエーションで一番危険な、人間の男性の姿も。
しかし、ふと足元に目を向けると、
「おや、これは……」
「何か見つけたの〜?」
遠巻きに見ているフォルクローレも、エルリッヒが何かを見つけた様子に気づいたらしく、声をかけてきた。それに応えるように、泉のほとりに戻る。その表情は穏やかだった。
「何かっていうかね、リスがいたよー」
「え、リス?」
水面にいるため位置の低いフォルクローレに合わせ、思い切り屈み込んで話をする。あまりにもあっけない回答に、拍子抜けの様子だったが、一点表情からは緊張が抜ける。何かがいる、と思うだけでもドキドキするものだ。
「可愛かったよー。もう森の中に戻っちゃったけどね」
「なんだー、リスかー。それなのに驚きすぎだったよね、あたし。いや〜、情けない情けない」
本当は「別の何か」がいた可能性も十分にあるのだが、無用にフォルクローレを脅す理由もないし、気配が残っていないことからも、大した相手ではあるまい。そう判断して、ここは黙っていることにした。
「さてと、安全も確かめられたことだし、どうしようかなー」
「まだ時間あるんだし、戻ってきなよ〜。水の中は気持ちいいよ〜?」
にこやかに手招きをする姿は、とても怪しい。先ほどの様子からは、エルリッヒの体に抱きついて来かねない。服を着ている状態ならまだしも、水中でそのようなことを狙われてはたまったものではない。ここは、誘いに乗るのはよしておこう。そう結論づけた。
「や、十分汗は流せたし、今日のところはこのまま上がるよ。それに、暗くなる前に晩ご飯の支度も始めちゃいたいしね。フォルちゃんはのんびりしてて。ご飯ができそうになったら呼ぶから。あ、いや、冷えるからそんなに長時間はいないで欲しいけど」
「ちぇー。またさっきみたいに抱きつかせてもらおうと思ったのに」
やはり。わかりやすく舌打ちをする様子を見て、エルリッヒは内心でほくそ笑んでいた。作戦成功である。どこでボロが出るかわからないのだから、用心せねばならない。
「だから、さっき言ったでしょ? 後でいくらでも抱きつかせてあげるって。ただし、それは服を着た後だけどね」
「え〜? 何それ〜。それじゃあ心地良さ半減なんだよ〜。わかってないな〜。エルちゃんは、もっと自分の魅力を理解するべきだね!」
何を言っているんだと思うが、一方では未だに人間の娘としての自分を正しく評価できていないのでは、という気持ちも確かにあった。こういうことは、フォルクローレに任せた方が良いのかもしれない。だが、それは今回の一件が片付いてからでも遅くはない。
フォルクローレのことは放ったまま、夕食の支度にとりかかる。街から持ってきた干し肉をはじめとした保存食や香辛料に、今日摘んだ野草を組み合わせれば、美味しい夕食が作れるだろう。
再び茂みに身を潜め、体に巻いているタオルを解いて体をしっかりと拭く。タオルは多少湿っているが、このまま服を着るよりはよほどいいし、こんなところで不必要に体を冷やすのも馬鹿らしい。
「んしょ、んしょ」
フォルクローレの視線を遮れればそれでいいので、あまりこそこそとはしない。そうして着替えを済ませてしまうと、いよいよ夕食の支度だ。まずは火起こしから。
簡易キッチンの前でとても楽しそうに火起こしを行うその姿は、まさしく料理人のそれであるとも言えるし、日常を楽しむことを大切にしている、とも言えた。そんな様子を見ながら、フォルクローレはうっすらと微笑むのだった。
(やっぱり、連れてきて正解だったなぁ……)
性格は明るいし、料理は上手だし、なんだかいてくれるだけで心強いし、気を使わなくていいし、ぎゅっと抱きしめるとなぜか安心するし、メリットも感謝の言葉も、挙げればきりがなかった。とはいえ、それを表立って口に出すほど、素直な性格ではないのだが。
「あたしも冷えないうちに上がろうかな」
エルリッヒの後を追うわけではないが、フォルクローレも泉から上がった。水面に、緩やかな波紋が広がる。
「あ、しまった。水を汲まなきゃだったのに」
濡れたままの姿でテントに向かう姿を見てそう呟いたエルリッヒの声は、フォルクローレには届いていなかった。まあ、所詮は自分たちが入っていた水だし、沸かして消毒するし、と自分に言い聞かせ、誰も人のいない泉に水を汲みに行くのだった。もちろん、用途は料理用や、飲料用である。
知らぬが仏、テントの中からは、夕食を待ちわびるフォルクローレの楽しげな鼻歌が聞こえていた。
〜つづく〜




