チャプター26
〜竜の紅玉亭 朝〜
鳥が鳴き始めるよりも少し早く、目を覚ましてベッドから起き上がる。ここしばらくは普通の人と同じような時間に寝起きしていたが、いざ「普通の日」が帰ってくると、思いの外あっさりと起きることができた。
「よし!」
おそらくいつもの時間に起きられたのだろうが、空がうっすら明るい。そうだ、フォルクローレの手伝いをしている間に、季節が進んでいるのだ。この後ももう少しだけ、朝は早くなる。
いつものように着替えて、いつものように階下に降り、真っ暗な店内を進んで、裏口から外に出る。井戸水を汲み、顔を洗う。
「冷たい!」
初夏でも冷たい井戸水は、洗浄ということ以上に、その日1日を始める儀式のような意味合いを感じさせてくれる。台車を引いて、さあ、出発だ。
いつものように仕込みを行い、朝ごはんを食べながら、お昼時になるのを待つ。
いつものように昼の昼の営業を終えると、片付けを行い、世間より少し遅い昼食を食べ、少し休むと夜のための仕込みを行う。
そして、いつものように、夜の営業を終える。
繰り返されるこの日常が、本当に大切で、愛おしい。
「はぁ〜、なんとかなった〜」
久しぶりの営業、お客さんは来てくれるだろうか、味は落ちていないだろうか、手際は大丈夫だろうか、心配は尽きなかった。それを払拭してくれたのは、いつも通りに来てくれた顔なじみのお客さんと、自分自身の体だった。まるで待ってくれていたかのようにやってきたみんなと、意識することもなく動いてくれる体、一口味見しただけで、出来栄えにも安心した。こんなにいつも通りでいいのだろうかと思いつつも、それが一番の幸福だった。
ここしばらくのことについては当然尋ねられたが、フォルクローレの作るアイテムやアトリエの爆発は、さすがに職人通りの外にも多少は知られているらしく、これはこれでいい話のネタになった。
「またお店を開けるときのためにも、いっぱい印象付けておかないとならないし……」
頭の中に、隣のおばさんにかけてもらった言葉がよぎる。
『これこれ、この味だよ! エルちゃんの作ってくれたお料理が食べられなくて寂しかったんだよ!』
おばさんは休業の事情を知ってくれている。それでも、こんなことを言われたら、嬉しくてサービスしちゃうじゃないか。もちろん、普段から喜んでもらえるよう、味わってもらえるよう、精一杯尽くしてはいるのだが、それ以上に何かをしたくなる。
必死に考えて、何かを返していこう。
「ふふ、何ができるかな」
まだ何のアイディアも出ていないのに、ついつい楽しくなる。そして、それとは別に、もう一つ考えていることが頭の中でのこのこと浮かんできた。
それは、ここしばらくずっと考えていたことだ。
「−–里帰り、か」
ここから遥か北、峻厳なる大地にそれはある。もう、300年以上も帰っていない。何を今更と思う一方で、たまには、とも思う。行くとなったら、きっとまた何ヶ月も店を開けてしまう。だからこその、みんなに喜んでもらえる「何か」なのだ。
一通り片付けを終えると、寝巻きに着替えて寝支度を整える。そんな、いつもの日常を終え、床に着く。心地よい疲労感が頭から思考する力を奪っていく。
人ならざる者として、この程度のこと、なんでもないはずなのに、しっかりと疲れている。体が人の体力に変化してきているのかと思うが、あのフライパンは人では到底振るえない重量だ。やはり、この身が内面まで人になっているわけではないと実感させられる。
つまりこれは、”人としての生の実感”のようなものなのだろう。そう考えると、一層”人になれた”気がしてなんだか嬉しい。そこまで考えたところで、意識が途切れた。
〜???〜
薄暗い洞窟。壁に自生するコケが放つ淡い光と、燭台の上で燃える炎だけが周囲を照らしている。
『私はここを出て行きます。人として生きます』
桜色の竜は一際大きい銀色の竜に言い放った。言葉は丁寧だが、そこに込められた決意は決して柔らかなものでも品の良いものでもなく、むき出しの欲望にも似たシンプルでストレートなものだった。
『……正気か?』
銀色の竜は桜色の竜よりも一回り低い唸り声をあげた。人の耳には唸り声にしか聞こえないこれは、竜言語ではれっきとした言葉である。それはとても静かで、手短な問いかけだった。
『もちろんです。酔狂でこんなことを言うほどユーモアのセンスは持っていません』
『人と違う生を歩む我らが人とともに行くということがどういう意味を持つか、理解しているのだな?』
どんな言葉も、引き留めるどころか考え直させる効果すら持ち合わせてはいなかった。考えるよりも、はるかに強い意志を持っていたのだ。
しばし鋭い視線を向け、相手の返答を待った。
『何度、何を言われようと、私の意志は変わりません、お父様』
『……前代未聞だ』
呆れたように言い放つと、銀色の竜は洞窟の奥へと消えた。低い足音が、次第に遠のいていく。少し寂しくはあったが、これは事実上の敗北宣言だった。これ以上の説得をすることは無駄だと悟ったのだろう。納得してもらったわけでも理解してくれたわけでもないが、邪魔をされなかっただけでもうけものだった。
相手は父親である以上に、強大にして偉大な竜族の王なのだから。もし不毛な親子喧嘩でも始まろうものなら、とてもではないが桜色の竜に勝ち目はなかった。
(……今が私の旅立ちの時か)
いよいよ、洞窟の入り口へと向か歩き始める。すると、背後から別の竜の気配が近づいてきた。まるで晴れ渡る空のような、蒼い竜だった。体躯は桜色の竜に負けておらず、力の強さを伺わせる。
『よもや本当にここから出て行くとは。愚かな選択だな』
『お父様にも言いましたが、何を言われても私の意志は変わりません。お元気で、お兄様』
この兄となら、喧嘩になったとしても一方的に負けることはないだろう。それだけの計算ができていればこそ、無駄な会話をしようとすらしなかった。止められても、なんとかなる。
『この先、絶対後悔するぞ!』
『後悔しないかもしれないでしょう? 少なくとも、今は一切後悔していません』
どういうわけか、一族の中で一人だけ違う価値観を持って育ってしまった。決して悪いことだとも間違っているとも思わないのだが、違っていることは事実であり、この社会では生き辛い少数派であることもまた、事実だった。
『私の気持ちが理解できないのなら、これ以上介入しないでください。それじゃあ、お元気で』
最後の別れになるかもしれないというのに、非常にあっさりとした様子で兄に別れを告げる。そもそも家族の情などというものは薄いのだが、それ以上に「分かり合えない」ということが大きく立ちはだかっていた。人間社会でも同じような理由で断絶する家族がいるということを、後年知ることになる。
何も言い返せない兄竜をよそに、再び外へ向い歩いていく。すると……
『アンタ、ばっかじゃないの?』
予想通り、声をかけられた。今度は、一回り小さい緑色の竜だ。その瞳がとても冷たく見つめている。
『お兄様といい、最後のお別れがそれですか? お姉様』
『小さい頃から変な子だとは思ってたけど、ここまでとはね。ま、アンタが苦労しようが死のうが知ったこっちゃないけど、最後にその間抜け面を拝んでおきたくてね』
顔なんてほとんど同じなのに、という言葉をぐっと飲み込んで、無視するか返事をするかを考える。喧嘩になれば絶対勝てるが、あの高圧的な物言いには、その前に口喧嘩になってしまう。記念すべき旅立ちの日に、そんな下らないことは避けなければならない。
『そうですか』
この姉は前々から疎ましく思っていたはずだ。私がいなくなったらせいせいするのではないか。やはり、長く語ろうとは思えない。一瞬姉を見やるだけにとどめた。
『さようなら、お姉様』
そうして家族と短い別れを済ませると、翼を大きく広げ、灰色の空に飛び立った。
〜朝〜
「……夢か」
懐かしい、夢を見た。何百年も前のことだというのに、こんなに鮮明に覚えているだなんて。こうして思い出す限りは、一切いい思い出がない。
「本当に、ウマの合わない家族だったなぁ。けど、一切後悔してないんだけどな」
こうして過ごしている時間の全てが愛おしいのだ、後悔などあるはずもない。見返してやるのにちょうどいい。しかし、今はまだその時ではない。今日も今日とていつもの日常を繰り返すだけだ。
大切な、日常を−−
〜お・わ・り〜




