おまけ 【 命の誕生 】
とある心理学者がいた。
彼は人間を憂いていたし、哀れんでいた。
そんな彼にも、愛しい人がいた。
「体調はどうだい?」
「陣痛が酷くて。でも痛いだけよ。あとは平気」
「そうか。それは良かった」
「またどこかへ行く心算なの?」
「ああ」
「そう・・・・・・。この子が産まれてくるの、見れないかもしれないわね」
「産まれたら、写真を送ってくれ」
「どこに送れっていうのよ」
「大学宛てに送ってくれればいいよ」
「わかったわ」
彼にも、人生で一度だけ、恋をした。
そして、良いのか悪いのか、彼のDNAは途切れることなく、彼女のお腹に宿った命によって受け継がれることになった。
彼女のどこに惹かれたのかと問われれば、きっと、自分と同じように“他人に無関心なところ”だろうか。
無関心故に、陰口を言う事もなく、言われても気にすることがない性格だ。
時折動くお腹を摩っていると、彼女がフフフ、と笑う。
「なんだ?」
「いえ、ね。あなた、お腹摩ってるときは、とても人間らしい顔になるから、つい」
「人間らしい?俺がか?」
「ええ」
ちょっと納得がいかなかったが、彼女の月のような落ち着いた微笑みに、まあいいかと思ってしまう。
腕時計を見ると、そろそろ行かないと飛行機に間に合わなくなってしまう。
「じゃあ、俺はそろそろ行くから。身体には気をつけてな」
「ええ、あなたも」
それからすぐだっただろうか。
大学を伝って、自分のもとに赤ちゃんの写真が送られてきたのは。
まだ目もちゃんと開かないその動くものは、三000グラムほどの健康体で産まれたようだ。
母子ともに健康そのものだと、同封されていた手紙に書いてあった。
「あれ?もしかして、先生のお子さんですか?」
「ああ」
確かこの男は、秀平とか言っただろうか。
「可愛いですねー。男の子ですか?女の子ですか?」
「女の子みたいです」
「良かったですね!おめでとうございます!」
彼がこれからするであろう、悲惨で残酷な実験の舞台になっているとも知らず、彼は幸せそうに笑った。
名前は、書いていなかった。
そういえば、普通は産まれる前から決めておくらしいが、産まれたからじゃないと決められないと、彼女と話したことがある。
『あのね、赤ちゃんができたの』
そう告げてきた彼女が、とても愛おしく思えた。
女性の身体とはとても不可思議で神秘的なもので、お腹の中でも動き、育っていく命というものは、尊いのだと感じる。
出来る事なら、彼女が命懸けで産んだその瞬間に立ち会いたかった。
出来る事なら、産声が上がったその瞬間を見ていたかった。
出来る事なら、もっと人間を愛せる人間に産まれたかった。
「俺はどうして、こんなにも人間が嫌なんだろう」
まだ付き合って間もないころ、彼女に話した事がある。
学生時代の友人も、就職してからというものも、周りの人間はみな一様に不気味なものを見る様な目で見てきた。
しかし、彼女だけは違った。
「あなたは、人間のマイナスな面をいっぱい見てるからよ」
「マイナスな面、か」
彼女はココアを飲みながら、そう言った。
よくそんな甘いものが飲めるな、と思いながら彼女の言葉に耳を傾けていれば、彼女は幸せそうに息を吐く。
「動物たちは、仲間を想って生きている。自分のことしか考えていないのは、人間だけ。私も、嫌になるわ。でもね、たまに、思うの」
「?」
「きっと、どの動物よりも、寂しがりなのよ。人間は」
「寂しがり・・・・・・」
彼女の言葉は、ハープのようだった。
「本当は、誰かに理解してほしい。誰かと一緒にいたい。理解したいし、一緒にいてあげたい。でも欲深いから、もっともっと、ってね。一が手に入れば十が欲しくなるのよ。そんな我儘になるのも、寂しいから。私もそうよ?」
「・・・・・・」
「あなたを理解したいし、あなたと一緒にいたい。あなたといると、幸せな気持ちになるの。だから、あなたをもっともっと知りたいし、一緒にいたい」
自分でいうのもなんだが、彼女には敵わないと思った。
素直というか、綺麗というか、真っ直ぐな彼女の言葉のひとつひとつが、自分の中に響くのが分かる。
馬鹿らしいかもしれないが、彼女だけは特別だった。
それから何度か“愛”というものを確かめあえば、お腹に宿った小さな命。
大声で叫ぶとか、周りの同僚や職場の人に教えるという事はなかったが、自分なりにはとても嬉しかったし、うん、嬉しかった。
自分の子供を見ることは、なかった。
「先生、お便りがきています」
「ありがとう」
また子供の写真か何かがきたのか、それとも大学からのレポートを出せという手紙かと思いながら、封を開けた。
そこには、彼女と子供の死亡を報せる手紙が入っていただけだった。
家で二人、子供の世話をしていたところ、見知らぬ男が入ってきて、お金を奪う為に二人を殺したらしい。
男たちは捕まったが、二人は即死。
―ああ、そうか。人間とは、こういうものか。
「先生、どうかしましたか?」
「ああ、君に、教えておかねばならぬことがあってね。その、君の奥さんのことで・・・・・・」
根拠のない他人の嘘で。
「え!?そんな・・・まさか!」
「私も、噂で聞いただけなんだ。あまり、気にしないでくれ」
人間は罪を犯す。
「何かあったら、連絡してくれ」
その親切は、仮面を被っているというのに。




