本質
この世は一冊の美しい書物である。しかしそれを読めない人間にとっては何の役にも立たない。
ルドーニュ
第一章 【 本質 】
『結論 人間とは、実に滑稽である。』
20XX年 10月28日 発表論文より一部抜粋―
世界はどこまで進化・進歩を続けてきたのか。それは、今を生きているだけでは想像も出来ないだろう。だが、いつの時代も変わらないことがある。
人によっては“愛”という。人によっては“夢”という。人によっては空や海などの不変的なものを答える人もいることだろう。どれも正解であって、どれも正解ではない。
何年前のことか。いや、何十年、何百年も前のことかもしれない。
動物が進化を続ける中、進化しない生き物が此処に存在する。
「ねぇ~!どこまで行くの?もう十時だよ~??」
「待ってろって!ナビ通りに来たのに着かねぇんだよ」
「安いからって古っっっるいナビ買うからでしょ」
「お前だって『それでいいじゃーん』って言っただろ!」
黒の軽を走らせている少年と、その隣で爪の手入れをしている少女。どう見てもまだ未成年で、少年は免許を取ったばかりなのか、車のフロントガラスと後ろの二か所、丁寧に初心者マークが貼ってある。
少女とどこかへ行く予定だったのか、二人ともお洒落をしている。
目的地まで辿りつけずにいるため、先程からナビを操作しているが、どうにもならない。スマートフォンを点けて時間を見れば、すでに未成年は家にいるべき刻を示している。
「もう帰ろうよ~。伊織お腹空いちゃったし~」
「帰るって言ったって・・・。無事に帰れるかもわからねぇぞ」
「は!?ふざけんなよ!」
苛立った少女が、足で強く前方を蹴った。
「おい!新車なんだから傷付けんなよ!!」
自分でお金を貯めて購入したわけではないのだろうが、ライトを点けて、少女が蹴ったあたりを心配そうに眺める。
その少年の行動に更に不機嫌になった少女は、舌打ちをして窓の外を見た。
「あれ?」
近くの街の灯りがちらほら点いているとは思っていたが、周りと比べて一段と賑やかそうな灯りが視界に入った。
「ねぇ!あそこ行ってみようよ!一日くらい、なんとかなるかもよ!寝泊まりくらいさせてくれんじゃない?」
「おお、そうだな。行ってみるか!」
車内のライトを消し、少年は再び車を走らせた。
途中、橋を通った。その端は今まで通ったことのあるどんな橋よりも長く、幅も狭かった。下に川があるわけでもなく、しばらくは信号が一つもなかった。
制限速度が何キロかも分からないため、ここぞとばかりに八〇キロオーバーした。
車の中で流していたCDも何周したことだろうか。二人の車は無事にその街へと着いた。
「どっかに店とかねぇかな?」
「ん~。遠くからみたら賑わってたんだけどな~。そうでもないね。てか、人っこ一人いないんだけど」
灯りが沢山点いていたように見えた街だが、実際に来てみると、灯りは一つも見当たらなかった。
しかし、店や民家が見つかれば、と思いつつ車を走らせていたのだが、建っているのは会社のビルと思われる高い建物ばかり。その建物でさえ灯りはない。
一〇時と言っても、東京では人がわんさかいる時間帯である。
その街には通行人が一人も見当たらず、店でさえ見つからなかった。街人が皆寝静まってしまったのだろうか、と諦めかけたとき、ふと人影が見えた気がした。
「今、誰かいなかった!?」
「え?まじ?どこどこ?」
「わかんないよー。どっか行っちゃったし」
街に来てから三〇分。二人は街から出ようかと話し合い、車をUターンさせようとした。
「ちょっ・・・!前!」
「え?!!わっ!あぶねぇ!」
突然、二人の前に一人の老人が現れた。パっと見たところ、年齢は七〇から八〇の間だろうか。頭には毛糸の帽子を被り、色とりどりのちゃんちゃんこを身につけている。良く見てみると、足下は五本指の靴下を履き、下駄である。
少年が指でボタンを押し窓を開けると、その老人に話しかけた。
「すいません。この辺にホテルとかってありませんか?道に迷っちゃって」
「・・・・・・。ないねぇ。すまないけど」
「そっか。ねぇのか。どうする?伊織?」
そんな会話をしていると、老人のうしろから別の男が現れた。
「爺さん、どうかしたのか?」
「秀平か。この若い子たちが迷ってしまったようでな。きっと寝る場所にも困っているのだろう。秀平のとこで、一日くらい面倒見てやれ」
「俺んとこ?いいけど」
「まじっすか!?助かります!!」
「よかったー。お風呂入れるー!」
「俺ん家すぐそこだから。車この辺に置いちゃっていいよ」
「ありがとうございます!」
少年は車のエンジンを切り、二人は車からおりた。老人に挨拶をし、 “秀平”という名の男の家へと向かった。
結婚はしていないのか薬指に指輪はなく、秀平は鍵を開けてそのまま玄関をあがる。
「散らかってるけど。入って」
「お邪魔しまーす」
部屋に入ると、思っていたよりは散らかっておらず、ある程度整理整頓されていた。キョロキョロ見渡していると、座布団が用意された。
「今夕飯出すから。とは言っても、インスタントだけどね」
そう言いながらハニカム秀平に、伊織はフフ、と笑った。
袋麺をどんぶりに入れお湯を注ぎ、カットしたソーセージと一〇〇円くらいで売っている野菜セットの中身を入れる。二人の待つ部屋にも、良い匂いが漂ってきた。
「どうぞ」
「わー!おいしそー!!」
「いただきます!」
秀平の作ったラーメンをペロッと平らげた二人に、秀平はお風呂もすすめた。二人がもくもくと食べている間に、お風呂を沸かしてくれたようだ。
少女がゆったりと一時間ほども入っていた一方、少年は一〇分ほどで出てきた。
二人のために布団も敷いておくと、少年は布団に寝転がってあっという間に寝入ってしまった。
「もー。寝るの早いよー」
「まあまあ。運転したての時って、疲れるんだよ。伊織ちゃん、だっけ?君も早く寝るといい。今日は疲れただろ?俺達の部屋とは別にしておいたから、心配しないで」
「・・・・・・」
少女は秀平の顔をじーっと見てから、自分の唇を舐めた。
まだ濡れている髪の毛を見て、秀平が「ドライヤ―はない」と伝えると、少女は秀平の腰にくっついた。
「秀平さんって、大人~。やっぱり同級生の男子よりも体格いいですね~」
少年といるときよりも甘ったるい猫撫で声を出し、上目遣いを狙って秀平を見上げる。
そんな少女の行動にも特に驚くこと無く、秀平は口元をゆっくりと曲げて笑った。効果音を付けるのなら『ニッコリ』がベストだろう。
自然に少女の腰に手を回し、耳元に口を近づけた。
「伊織ちゃん・・・」
息を吹きかけながら囁くように名前を呼ぶと、少女は頬を赤くして秀平の服をギュッと握りしめた。
二人は少年の寝ている隣の部屋に行くと、唇を合わせた。
「彼氏はいいの?隣で伊織ちゃんのこと想いながら寝てるよ?」
「いいの。伊織、大人の男の人がいいから。もともとあいつはタイプじゃないの」
「あらら」
そう言ってまた唇を合わせると、少女はさらに強く秀平を抱きしめた。だが、秀平はリップ音を出して唇を離すと、少女の頭を撫でた。
次第に深まっていく口づけによって、少女の頬は赤く染まりゆく。
秀平は伊織と口づけを何度も交わしながら徐々に場所を移動させると、自分が寝る為に準備してあった布団に押し倒した。
「・・・秀平さん・・・」
「伊織ちゃん、可愛いよ」
「んっ・・・」
角度を変えて繰り返す熱に、伊織からは切なく甘い吐息が漏れる。
そして、二人は身体を重ねたーーー
「伊織ちゃん」
「なあに?秀平さん」
「俺ともっと愛し合いたくない?」
産まれた姿で横になっていた二人だが、秀平がぐいっと顔を伊織に近づけると、伊織はすぐさま顔を赤くする。
大人びた秀平の妖艶な笑みに、思わず胸が高なる。
「伊織、秀平さんが好き」
子猫のように秀平に縋り、甘える伊織。
そんな伊織を見てニヤリと笑い、「じゃあさ」、と意味ありげに続けた秀平は、地獄へと誘う一言を告げた。
「彼氏、殺しちゃいなよ」
一瞬、目を見開いてみせた伊織だったが、自分を見つめてくる秀平の笑顔に酔わされ、答える。
「うん。伊織、秀平さんと一緒にいたいから。ずっと・・・・・・」
伊織の答えに表情を変えずに「嬉しいなぁ」とだけ返すと、秀平はまた伊織の唇に自分の唇を重ねた。
翌日になって、少年はすぐに伊織のところに来た。
「おい、さっさと帰るぞ」
「嫌。伊織まだここにいる」
「なんでだよ!もともと一日だけって話だっただろ!?」
「嫌。帰るなら、一人で帰ってよ」
「はあ!?お前、意味分かんねえよ!!」
「伊織、秀平さんの事、好きになったの!ここに残るの!」
「てめえ、ふざけんなよ!!!!」
朝起きてすぐに喧嘩になってしまった二人だが、今日はどちらも引くことはなかった。
その二人の声は、明らかに外まで聞こえているにも関わらず、止めに入る者は誰一人としていなかった。
伊織は少年の言葉など聞く耳もたずにいると、少年は強引に伊織の腕を掴んだ。
「帰るんだよ!このくそ女!!!」
「離してよ!!!」
「―――!!」
少年は、痛みを感じた。
どこが痛いとか、どういうふうに痛いとか、どういった説明は出来ないのだが、自分の中から何かが溢れ出した。
その痛みが発生している個所に手をあてるため、伊織を掴んでいた腕を離して自分の身体に触れる。
過呼吸のように、はっ・・・はっ・・・、と短い息を繰り返す伊織の手には、包丁が光っていた。
そこには赤い液体がびっちょりと付着しており、それが自分の血であることを、少年はなかなか理解出来なかった。
「おまっ・・・。なん、で・・・」
「あ・・・あ・・・」
床に倒れて動かなくなってきた少年に駆け寄ろうとした伊織だが、そこに秀平が現れた。
初めての感覚に恐怖を覚えた伊織の耳元で、秀平は悪魔の囁きの如く、甘い声色でこう言った。
「止め、刺さないと」
倒れた少年の背後に回り、伊織も膝を床につけると、包丁の持ち方を少し変えて、重力に逆らわず手を下ろした。
少年に包丁が刺さったまま、伊織は手を離してその手が震えていることを知る。
すると、ゆっくりと伊織に近寄ってきた秀平が、震えるその小さな伊織の手を包み込むように握りしめる。
「大丈夫だよ。これで、俺達は一緒にいられるんだ」
それから、少年の存在の痕跡は跡かたもなく消えてしまった。
何処に行ったのか、どうしたのか、それは伊織にも分からないが、秀平はいつもニコリと笑い「心配ないよ」と言う。
しばらくして、秀平は伊織が寝静まった頃、別の民家に向かっていた。
「美鈴、起きてる?」
「秀平?どしたの、こんな時間に」
「わかってるだろ。俺はいつだって美鈴に会いたいんだよ」
美鈴と呼ばれた女性は、ストレートの長く黒い髪の毛を身につけ、白い肌は男性を魅了させる。
いつもと変わらない綺麗な女性を目にし、秀平も至極満足そうだ。
美鈴に近寄って肩を抱き寄せると、ぷっくりと熟れた唇に、自分のを重ねる。
「美鈴、綺麗だ」
「・・・もう、嘘ばっかり」
「嘘じゃないよ。顔も心も、それに、身体もね」
そう言って、美鈴が着ていたワンピースの後ろのチャックを下ろすと、隙間から手を入れて膨らみに触れる。
「ん・・・」
「どうしたの?顔が赤いよ?」
「いじわる」
クスッと笑う秀平に、美鈴は自ら唇を差し出す。
二人の身体が重なり、汗ばむ手を絡め、愛か欲か、何かを確かめる。
「美鈴、美鈴」
「なあに?秀平さん」
「・・・・・・もっと、みせてよ。綺麗な美鈴。全部教えて?」
「えっち」
二人でクスクスと笑いながら行われるその行為は、熱を帯びていた。
そのころ、何も無くなった部屋で1人、伊織は秀平を想って1人行為に及んでいた。
「んん、秀平、さん・・・あ、もっと」
虚しくも悲しくも、そこにあるのは空虚な空間だけ。
作業が終わると、秀平は美鈴の家から出て行く。
帰ろうとした秀平の裾を掴み、唇を突き出せば、何も言わずとも、秀平は優しく唇を合わせた。
「え?」
その姿を見ていた伊織は、美鈴の家の近くに落ちていた大きめの石を手にすると、秀平が出てきたその扉をノックした。
―赦さない。赦さない。赦さない。
何も疑うことなく扉を開けた美鈴の額に、その石を思いっきり、殺す勢いで振り下ろした。
―秀平さんを奪うなんて、赦さない。
―秀平さんを愛するなんて、赦さない。
―秀平さんを独り占めするなんて、赦さない。
―秀平さんと一緒にいるなんて、赦さない。
理性を失った伊織の瞳には、絶望。
「キャーッッッ!!!!」
振り下ろされた石を額に受けたものの、なんとか掠っただけだった。
伊織から逃げる為に、美鈴は懸命に家の中へと足を動かすが、恐怖からか足には力が入らない。
暗闇に浮かぶ伊織の表情は読み取れないが、魂など入っていない、抜け殻のような動きをしていた。
「しゅ・・・秀平さ・・・」
「・・ばないで」
「え?」
「秀平なんて呼ばないでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッッッッ!!!!!」
狂ったように、美鈴に何度も何度も石を振り下ろすが、美鈴も必死に逃げているため、なかなか致命傷にはならなかった。
それどころか、台所に辿りついた美鈴は包丁を取り出し、伊織に突きつける。
「こ、こっちに来ないで!!!刺すわよ!!!!」
額から血を流しながらも、美鈴は抵抗を示す。
「・・・・・・ねえ、秀平さんは私のものよ?なんであんたなんかと・・・。ねえ、死んでよ。お願い。今すぐ死んで!!!!」
「しゅ、秀平さんは私が一番だって言ってるわ!!!あんたとは遊びだったのよ!諦めなさいよ!!!」
美鈴が勢いよく伊織に向かって走っていくが、伊織も横に身体を動かす。
しかし、美鈴が包丁の持つ手を代えてすぐに腕を振り回せば、簡単に伊織の腕には傷が出来た。
女性二人の狂気に満ちた空気を壊すかのように、男が一人、現れた。
「ねえ、お二人さん」
「なによ!」
「・・・誰?」
物陰から聞こえる声の主を確認しようとしたが、隠れているのか、ただ暗くて確認で来ないのか、とにかく、見えなかった。
「ケント、と申します。お二人さんが殺し合いをしているのは、秀平くんのせいでしょ?なら、二人を誑かしたその男を殺すのが、筋ってもんじゃありませんか?」
「・・・秀平さんを、殺す?有り得ないわ」
「そうよ。この女が死ねばいいのよ」
「何ですって?!」
また始まってしまいそうな二人に、ケントは続ける。
「残念ですね。もしも秀平くんを殺してくれるのなら、二人にそれぞれ二千万を渡そうかと思っていたんですが・・・」
「に、二千万!?」
「どうして?」
ケントは舌で自分の唇を舐めると、お金が入ったケースを二つ、放り投げた。
「理由は、俺が秀平くんを嫌っているからです。しかし、お金よりも愛が勝ってしまうのであれば、仕方ありません。もしもお一人でも殺してくだされば、その二千万、つまりは四千万を差し上げようと思っていたんですが」
「・・・四千万」
「それだけあれば、ここで暮らすには充分でしょう。なにせここは、政府も立ちよらないような場所。税金も何もありませんから」
恐る恐る、伊織と美鈴はそのケースを開けてみると、そこには、今までの人生では見たことのない札束が入っていた。
それを見た瞬間、二人の中で何かが変化した。
人間の思考回路とは非常に興味深いもので、愛が一番大事だと言いながらも、いともたやすく裏切ることが出来る。
この二人も例外ではないようだ。
見たことのある顔が描かれた紙切れが、これでもかというほどにケースに敷き詰められている。
窮屈そうにも見えるそれらが、さらに本能を呼び起こす。
「そうよね。秀平さんが悪いのよ。この女とも関係を持つから」
「秀平さんが私の人生を壊したのよ」
「おやおや、お二人とも、ご協力してくださるので?」
闇夜に光る月は、妖しく揺れた。
ゆっくりと、しかし確実に二人が足を向けたのは、秀平の家から少し離れた、秀平の両親が住んでいた家だ。
そこから漏れる灯りに吸い寄せられる蛾のように、もう何も考えられなくなっていた。
コンコン、と小さく戸を叩き、可愛らしげに声を出す。
「秀平さん、いらっしゃる?」
返事はすぐに返ってきた。
「美鈴か?どうした?」
がらりと扉をあける。それも、とびきりの作り笑顔を見せながら。
しかし、そこにいたのは美鈴だけではなかった。
「え?伊織、ちゃん?二人して、どうして?」
平然と並んでいる二つの影に、秀平は思わず唾を飲み込む。
「ごめんなさい、秀平さん」
美鈴がにこりと笑うと、持っていた包丁で秀平の腹を刺した。
「え?」
続いて、伊織も、美鈴の家から持ってきた金槌で秀平の顔を殴った。
最初は痛みを訴えていた秀平だったが、逃げようと後ろを向けば背中を刺され、跪けば後頭部を殴られる。
痛みは徐々に恐怖へと変わり、二人に命乞いの謝罪を繰り返した。
「違うんだ!!!俺は本当に、二人のこと・・・!!ごめん!!悪かった!!!だから、やめ・・・やめてくれ!!!」
「秀平さんにとって、愛より大事なものって、何?」
「え?な、なんだって?」
怯える秀平を前に、二人はにっこりと満面の笑みを浮かべて、こう答えた。
「お金」
秀平の意識は暗闇に溺れ、二度と光を見ることはなかった。
お金を手にした伊織と美鈴は、これからの自分の幸せな生活を思い浮かべながら、家路を辿っていた。
つい数十分前までは、互いを殺す勢いのあった二人だが、今は互いを見て笑っていた。
それは、通りすがりの人が見れば、可愛らしい女性が二人で仲よさそうにしている風景だ。
そこにある、そこに溢れている狂気の乱舞などには気付かないことだろう。
「秀平さんを愛していたの。だからこそ、秀平さんには、私といたころの想いを持ったまま、死んでほしかった。ただそれだけよ」
「私だって、秀平さんを愛していたの。自分を殺した女のことなんて、死んだって忘れやしないでしょう?その目にも脳裏にも焼き付いて、一生秀平さんから離れないの。いつでも私を思い出してくれるのよ」
自分の家に戻った美鈴は、洋服についてしまった血を流す為にシャワーを浴びる。
自分の身体に沁みついた秀平の分身をいとおしみながらも、筋肉質な秀平の身体を刺したその手を眺め、微笑んだ。
―秀平さんの身体、とても硬かったわ・・・。
ドキドキと高鳴る鼓動に揺られながら自分の身体を撫でまわすと、秀平に触れられている時を思い出し、また頬を赤らめる。
その時、誰かが背後にいた気がして振り向くが、誰もいない。
気のせいかとまた身体を洗っていると、今度は、身体に何かを感じた。
ゆっくりと顔を下げてお腹あたりを見てみると、背中から刃物のようなものを刺されたようだ。
「・・っ!!!」
それは、ほんの一瞬のことだった。
口から出る、先程見たばかりの赤い液体は、今度は自分のものだ。
ごふっと溢れてくる血は止まらず、美鈴は浴室で倒れてしまうが、誰もそれに気付かない。
排水溝へと流れ出る血は、自分のものなのかそれとも秀平のものなのかは分からないが、美鈴は嬉しく思った。
嘘偽りの無い、交じり合い。
「秀平さんと、ひとつになれた・・・・・・」
伊織は秀平の部屋で、秀平の洋服の匂いを嗅いでいた。
「ああ、秀平さん。これからもずっと一緒よ・・・・・・」
1人身体を横にしてクンクン嗅いでいた伊織だったが、ふと、何かの気配を感じた。
身体を起こしてあたりを見て、立ちあがり部屋の隅々まで見て見るが、どこにも誰もいなかった。
また秀平の服の匂いを嗅ごうとした伊織だったが、部屋に戻ると、そこは黒猫だらけだった。
「え?猫?」
みゃーみゃー鳴く猫に近寄って、可愛がるように背中を撫でたり顎を摩ってみた。
「可愛いねー。どこから来たのかな?」
「地獄から」
「え?」
口を聞くはずのない猫の答えに、伊織は思わず身体を後ろに退けようとする。
しかし、周りには黒猫が群がっていたため、何処にも足を動かす場所さえ見つからなかった。
「ちょ、ちょっと待ってね。いま、餌を持ってきてあげるから・・・・・・」
「餌なら、あるじゃないか」
「え?」
一匹の猫が、伊織の足を齧りだした。
「痛ッ!!!!」
抓られるのとも違う、切られるのとも違う、刺されるのとも違う。
自分の身体の一部が削ぎ落とされるという、まるで生きたまま鳥の餌になるミミズのようで、まるで息があるのに身体を真っ二つにされる魚のようで。
「待って待って!!!」
伊織は必死になって叫んだ。
そう、きっと、この街の誰かが自分の声に気付いてくれることだろうと願い、祈り、信じ、叫んだ。
食いちぎられていく身体を眺めながら、伊織の身体は横たわった。
黒猫たちが、嗤った気がした。
「クソ不味い」と。
―お母さん・・・・・・助けて・・・・・・
「いやあ、昨日は天気が良かったのに、今日は雨かー」
「そういや、ニュース見た?可愛い仔犬特集やってて・・・」
「おい、じいさん!またご飯がこぼれてるよ!」
「まあ、可愛い坊や。いくつ?」
「今朝のニュースをお伝えします。ここ数年、迷子の数が増加傾向にあり・・・」
また、いつものように朝がやってくる。
それは残酷に。昨日など無かったかのように。
今日を作りあげたのは、昨日だ。
今日は明日をつくるためだけにある。
何も変わらない日々が送れることを、幸せだと思おう。
ならば彼女達の声は、きっと、今日を作るためには不必要だったのだろう。
とある心理学者は、思った。
「人間とは、何か」




