純化
【1】
ノックの後、千波が部屋に入ってきた。
「ただいま」
おかえり、と返しつつ時計に目をやる。二時を回っている。加賀谷家から電車で一時間の私立高校に通っている彼女が、土曜に半ドンの授業を終えて帰宅するとだいたいこのくらいの時間になる。千波は制服姿のままでベッドに腰掛けた。パソコンと向かい合う僕はそれに背中を向ける形になっている。
「兄さん、仕事?」
「ああ」
高校を卒業し、フリーターとなって数年。現在は資格試験に向けて勉強しつつ在宅でアルバイトをしている。まあまあ労力を必要とするわりに小銭しか稼げないが、やっていて退屈にはならないところがいい。単純な反復作業は苦手だ。
「でもちょうど休憩しようと思ってたとこだから」
イスごと向き直る。
「じゃ、将棋やろう将棋。久しぶりに」
さらに頭脳労働を強いるのかよと思いながらも二つ返事で了承した。まず制服を着替えてこいと言って、千波が部屋に引っ込んでいるあいだに盤と駒を用意した。
戻ってきた妹とテーブルを挟んで座り、よろしくお願いしますとお互い畏まって対局開始の挨拶をする。
家にいることが多かった妹に将棋を教えたのは僕だ。僕はこういう人生に必要のない事柄についてのみ人並み以上の学習能力を発揮できたためそれなりの強さを自負していた。千波もどんどんと実力をつけていったがまだ僕には及ばない。
何度か危うい局面を経たものの、最終的にはこちらの勝ちに終わった。
「また負けた……」
しょんぼりしている。
「どういうこと」
怒っている。どうもこうもない。
感想戦を軽くやったあと、「あれで再戦しよう」と言い出す。今までにも何回かあった流れなので何を指しているのかは分かった。あれとはガイスター、いわゆるドイツ製オバケ将棋のことだ。
一定数以上取ると負けになる『取ってはいけない駒』である赤いオバケをうまく使って陽動しつつ、『取られてはいけない駒』の青いオバケを相手の陣地の端まで通り抜けさせれば勝ちになる。。通常の将棋とは全く別物でそのセオリーが通用しないことは言うまでもない。
で、あっさり勝ってしまった。
「なんで?」
「おまえは素直すぎるんだよ。考えてることが分かりやすい」
ルールだけ見ると運の要素が大きいように思えるが、実際は読み合いの強い弱いが結構はっきりと出るゲームだ。
「も、もう一戦……の前に、飲み物取ってくる」
「今日はなんか元気だな」
思ったことをそのまま口にすると、千波は腰を上げながら「ちょっとだけ、体の調子がいいからね」と笑った。そのわりに、顔色はあまり良いように見えなかった。
「元気なら友達とでも遊んでくりゃいいのに」
なるべく冗談っぽい口調になるよう気をつけて言う。
今の僕にとってほとんど唯一の話し相手である妹がこうして遊びに付き合ってくれることは嬉しいが、心配にもなる。実際に千波もそんな僕に気を遣っている部分はあるだろう。
「だって兄さん。わたしがいなくなったら一人になっちゃうでしょ」
それにわたしは、服とか買いに行くより家で遊んでる方が楽しいし。千波はドアノブに手をかけたまま振り返らずにそう言った。同じく冗談めいた口調。そう取り繕っているようにも聞こえた。
やがて妹は二人分のグラスを持って戻ってきた。それからもう一戦すると、向こうの青いオバケがこちらの陣地を突破してきた。手加減したわけではなく、普通に不覚を取ってしまった。
「やったっ」
大喜びしている。
よく考えると僕も、高校生のとき休日に友人と出かけた思い出なんてほとんどない。けれど当時は学校へ行けば話す相手はいたし、それなりに楽しくやっていた。ドラマのように華々しい青春ライフとは無縁だったが、特に暗黒の時代だとか最低な思い出とかいうわけでもなかった。
千波はよく学校での出来事を話して聞かせてくれた。やはりそれなりに楽しそうだった。一般的に想像される女子高生らしい日々というものには大して価値を見いだしていないのかもしれない。妹は死んだ。
【2】
今日の日付で更新が来ている。
すかさずリンク先に飛んで確認すると、カテゴリーは『自殺者』。
やった、と思わず口角がつり上がる。画像ファイルをクリックして表示されたのは白い紙で、几帳面な折り目から封筒に入れられていたことが分かる。
いわゆる遺書だ。
そこに整然と並べられた文字を、やさしく愛撫するかのようにゆっくりと目を走らせていく。それは点滴のごとく体をめぐりだし、鬱々とした気持ちもだんだんに晴れていくようであった。
「ああ」
数枚に渡っているその書簡には紋切り型のフレーズもいくつか登場する。だが、そこに込められた想いはそれぞれで違う。生きた人間が綴った手書きの文章である以上、言葉から感情や意図を排除することはできない。
先立つことへの謝罪。相手は両親だったり、兄弟だったり、恋人だったりする。死を決意した理由だって千差万別だ。どこか共感できるようなものから、まるでこちらの理解を越えたものまで。そういう機微は形式ばった前口上にも滲み出るものだと、僕はそう思っている。
画像をいったん閉じると、背景が灰色のウェブページが表示された。コンテンツの内容に反してそのデザインは全く凝ったものではなく、基本的な知識だけで再現できる程度だ。文字も基本的にはデフォルトの黒で一部が赤かったり太かったりするフォントで強調され、あとはリンク部分が青か紫になっているだけ。見栄えを工夫する作業は面倒で必要性も感じない、と管理人がサイト内のどこかで書いていたのを覚えている。
マウスの真ん中ホイールを回しぐりぐりと下へスクロールしていく。殺風景なページの下部には『データ』の項があり、遺書の書き手が十代前半の女性であるとの情報が確認できる。背徳感に背中がぞくぞくした。氏名はイニシャルのみ、学校名などまでは記載されていない。
人里から離れた場所で命を絶ったわけで、遺書まで残した自殺者が発見された際に身元の分かるものを何も身につけていないだなんてことは考えにくいし、投稿者つまり撮影者はもう少し詳細なプロフィールを把握しているものと思われる。それに関しては管理人が掲載するにあたり『人権の尊重』として情報を削っているとのことだった。
ページには画像がいくつか載っている。クリックで拡大。様々な角度からの死体そのものやその他のこまごまとした遺品だ。遺書もその中の一つだが、これだけは明らかにカメラで撮った写真ではなく直接スキャンしてある。つまり現場から持ち帰ったのだ。尊重も何もあったものではない。
写真の存在それ自体もさることながら、それぞれに添えられた投稿者のコメントがなかなか死者への冒涜としか言いようがない内容なのだった。たとえば、木にぶら下がっている少女の足から落ちたらしき赤い靴をうつした一枚が、ちっちゃな靴がかわいいです、という一文とともに掲載されていたりする。
以前にもサイト内で何度か名前を見かけた常連の投稿者である。彼はごく普通の会社員として日常生活を送っているらしい。平日には何食わぬ顔でデスクワークをこなし、休日を利用して自殺スポットへと出かけていくのであろう。朝の電車で隣に座ってうつらうつらしているスーツの男が、もしかしたら死んだ中学生女子の靴に精液をかける夢を見ているかもしれないのである。
擬態してでも社会生活を送ろうと努力するのと、身の程をわきまえて誰も傷つけないよう家から出ずにいるのとでは、果たしてどちらが異常性欲者としてのあるべき姿なのだろうか。とりとめもなくそんなことを考えた。
ふたたび遺書の画像を開き、続く文章に目を走らせた。
丸みを帯びた文字で両親や友人への謝罪が綴られている。それを見るに彼女は、決して不幸な環境下で生かされていたわけではない。むしろ充分すぎるほど恵まれており、そのことへの自覚も見て取れる。
ではこのあまりに幼い少女を死へと向かわせたものは何なのか。
現実感、という言葉が登場している。彼女は自分自身の心が体から乖離してしまったような感覚に悩まされていたのだという。
世界を正常に認識することができない。自分を動かすことがテレビゲームのキャラクターを操作しているように感じられる。マリオが穴に落ちても残機が一つ減るだけでその死にいちいち涙を流す者がいないように、生活の中で出会う何もかもに一切の感情を抱かなくなってしまった。そんなふうな内容が書かれている。
飽きたゲームでいつまでも遊んでいる必要があるだろうか。何の快感も感動も期待できない日々。終わらせてしまうのは簡単だ。電源を切ればいい。少女にとって、すべては画面の中の出来事でしかない。
溜め息が漏れる。
内容も勿論だが、まず目を奪われるのはその整った筆致だ。
もし誤って読まれてしまえば訂正することがかなわない。わざわざ残す以上は誰にでも読める字で、なるべく平易な言葉で書くよう努力するものだ。それでなくとも遺書は人生最後の作品、つまり文字通りの遺作でもある。
そして整然とした文字列の中に宿る抑えきれない情動。
一切の感情がなくなるとは一体どんな感覚なのだろうか。死にゆく者の心は複雑怪奇で理解不能で、どうしようもなく美しい。
核とでも言うのか、ビー玉のごとく透き通った小さな球体が人の中には埋まっていて、それが物理的な概念を超越して人間の本質をあらわす魂と呼ばれるものなんだろうと昔はよく考えた。遺書にはビー玉の欠片が埋まって鈍く光っている。その人物の最も繊細な部分だ。
だからこそこうして綴られた文章を読んでいくと、男と女がお互いの性器を結合させることにも似たいかがわしさや甘美さを感じてしまうのだた。
僕はあれをあれした。
「…………」
呼吸を整え、画像を閉じて一旦トップに戻る。あれ行為のクールダウンついでに、サイト内の掲示板への書き込みをチェックしておこうと思った。
訪問者の交流用として設置されているものがある。チャットのように投稿者名の横に発言が表示される、一行掲示板とでも言うのだろうか。
話題は投稿された写真への感想の他に、自殺や事故死のシーンがある作品についての紹介や雑談などが主だ。コンテンツの内容に反し、和やかな雰囲気の中でコミュニケーションが為されている。
『いつもありがとうございます! 靴カワイイ!』
感想はさかんに書き込まれ、盛り上がっていた。名無しが数人。ハンドルネームを名乗っているのは基本的に管理人かサイトに投稿したことのある者だけだ。
『久々に良い収穫です。撮ってて楽しかったよー』
休日だからか投稿者も即座に返信している。
『遺書これスキャンしてるよね? 機材持ちこんだ?』
『いや持ち帰りました。暗いし写真じゃ文字読みにくかったんだもん』
『おい倫理』
と管理人。
『ワロタ。倫理の話するならサイト閉じろ』
『正論ありがとう』
『ま、遺書なんてもの傍らに放置しとく方が悪いわ。無防備すぎだな。痴女じゃないか』
『同意』
『それにしても小さい子ですよね』
『身長低い女は自分が世界で一番かわいいと思ってる。全員』
『わあ偏見だ』
会話の多くはハンドルネーム付きの人物によるものだ。やはり何もせず感想を言うだけの名無しと実際に動いている投稿者の間には暗黙のうちに壁がある。投稿者同士はやり取りも妙に息が合っていて、どうやらこの掲示板を介さず個人的に交流のある者もいるようだ。
僕は今まで一度も書き込んだことがなかったが、いつからか彼らの会話に混ざりたいと考えるようになってきていた。もちろん、名無しではなく投稿者の一人として、対等な存在としてだ。
【--】
(前略)お父さん、お母さん、今まで育ててくれてありがとう。ごめんね、こんなことになっちゃって。ユウキさん、この手紙読んでくれてる? あなたに読んでもらう必要はあんまりないんだけど、わたし自身の気持ちを整理するために頑張って書くね。ユウキさんは自分に嘘をつくのがうまいよね。だから何だかんだでずっと器用にやっていけるのかもしれない。ただこれだけは言わせてね。そのやり方で救えるのはユウキさん自身だけだから。それともう一つ。わたしはあなたを絶対に許さないと思う。
【3】
ある時期から、我慢が利かなくなってきた。
アップされた写真を通してではなく、この目で直接遺書を見たい。いや、できれば書くところも。そんな状態の人間に色々と訊いてみたいこともある。それは前代未聞だ。これから死ぬ人間が遺書をしたためている動画などこのサイトには上がったことがない。
抑えられないマニアとしての欲求が強烈にある。そして、ああいった場に参加してみたい、自分と同じ心を持つ者たちに還元したい、もっと言えば一歩先に踏み込んだものを提供して目立ちたい、認められたいという気持ちが、激しく暴れて僕の中へと流れ込んでくる。背中を押す。
そしてまともな堤防もない。
わずかな良心だけだ。それでは脆すぎた。
今は、失うものがない。もはや守るべきものもなくなった。つまり躊躇う必要がない。
決断はすぐだった。
自殺サークルのオフ会を見つけた。参加者の年齢に上限を設けている。おっさんと一緒に死ぬのは嫌だということだろうか。ともかく、二十代前半の僕は余裕で参加できる。ここなら潜入は容易いと思った。
翌々日、連絡が来る。僕の参加申請によって規定人数に達したようだ。まずはチャットで会議を行うことになった。僕を含めて六人いた。お互いの事情などはこの段階では踏み込まない。年齢と性別だけ訊いて、あとは当日の打ち合わせだ。死に場所は主催の男性が用意しているらしく、彼が集合場所と時間まで指定した。
その後、具体的な死に方についての話し合いに移行する。車で海に突っ込もうなどと言われれば問答無用で全滅だ。定番は練炭なわけだがそれをされても面倒だった。
なので薬で逝こうと提案してみたところ、意外なほどあっさりと皆の合意が得られた。眠るように死ねるというので人気があるみたいだ。主催が立場上、比較的簡単に毒の錠剤を入手できるので用意していくという。ここで「余計なものは持ち込むな」と念を押された。
薬で自殺することにできたのは非常に都合がいい。たとえば同時に飲むふりをして直前でサプリメントにでもすり替えればいい。他の参加者たちが死んでいく中で一人生き残れる。なんならちょっと健康にもなれる。冗談だが。
メンバーには高校生女子を自称する人物もいた。普通ならネカマを疑うところだが、今回の場合では素直に信じていいだろう。ゾクゾクしてきた。思い通りに事が運んでいる。遺書を現地で書こうと提案することはできなかったが。
会議は滞りなく進んだ。怪しまれないよう多弁になるとかえってボロが出そうなので目的のために必要な箇所でしか口を挟まないようにした。他の四人も口数は少なく、ほとんど主催だけが喋り続ける形になっていた。
そうして話し合いはだいたい終わり、連絡事項を各自で控えておけとの指示が出る。その後チャットが閉じるとまもなくログが消去された。実行日までに何かのきっかけで部外者の目に触れると面倒なので念のためそうしておくらしい。
あとは荷物を検分される可能性を考えて、カメラの持ち込み方を工夫することくらいだろうか。甘い計画にも思える。ひょっとしたら重大な見落としがあるかもしれない。そもそも自殺オフ会に参加した経験などない。実際にどういう流れになるかはその時になってみなければ分からない。
いざとなれば他の誰かを殺す必要だって出てくるかもしれない。だが今は気が大きくなっているせいもあってか、そうだ殺せればどうとでもなるじゃん、と安心してしまえるくらい簡単なことのように思えた。人の首を絞める勇気が僕の中にあるかはその時になってみなければ分からないが、最初から死ぬつもりでいる人間が相手だと思えば心もあまり痛まない気がした。
むしろ他殺体の方が物珍しいはずだ。僕は遺書にしか興味がないが、たった今殺しましたと言って死にたての女子高生の写真をアップすればサイトの皆をなかなか驚かせられるんじゃないかと、そういうことまで考え始めてしまうのだった。
そしてオフ会当日。
駅前の指定された待ち合わせ場所に着いたが、服装からいってそれらしき人物は見あたらない。人が多すぎて遠くを見通すこともできない。特に人混みが嫌いというわけではないが、全く初対面の人間同士が目印を頼りに会うのにここはおよそ適当ではないと思った。
見れば集合時刻までまだ少しある。とはいえ一人くらいは来ていてもよさそうなものだ。不安になってきて一応確認したが、僕が場所や時間を勘違いしているわけではないようだった。
とりあえず約束の時刻を過ぎるまではこの場で大人しく待つとしよう。
建物の壁にもたれかかって何の気なしに行き交う人々を眺めていると、すぐ目の前で青年がコーラの空き缶を投げ捨てた。
その行為自体にさほど腹を立てたりはしなかったものの、僕の足下まで転がってきて止まったことに少し苛ついた。捨てた本人は缶がどこへ落下したかも確認しないまま歩いていってしまう。
ヤクザの足にでも着弾してしまったらどうするつもりなんだろうと思った。別に心配してやっているわけではないが。
なんとなく拾い上げてみたところで、見える範囲にゴミ箱がないことに気づく。ああ失敗したなと考えつつ、今さら知らん顔して落ちていた場所に戻すというのも気が引ける。
仕方ない。歩いて探す。テロ対策なのか駅であまりゴミ箱を見かけなくなったが、ビン缶ペットを捨てられるところはあるはずだ。
ため息が漏れた。
……中学生の頃、ゴミのポイ捨てを減らすにはどうすればいいかについて授業で討論させられたことがある。
そこで僕は子供なりに考えて意見した。「ポイ捨ての現場を目撃したから腹が立って殺した」と語る殺人犯が現れ、それに影響されて全国各地で同様の犯罪が流行しはじめている、なんてシナリオをでっち上げて報道してしまえばどうだろう、と。
たかがゴミ問題のためにマスメディアを使って虚偽の情報を流させるなんてことが可能なのか、それでもし本当に模倣犯罪が起こってしまったら責任の取りようがない、など他の生徒からの否定意見は色々出された。いや手段を工夫すればやりようはあるはずだ、と議論が白熱していたところに、担任の若い男性教師が笑いながら口を挟んだ。
曰く「そんなことをしても効果がない」と。
首にナイフをあてがわれたならまだしも、このままではいつか自分に被害が及ぶかもしれないからとルールに従う程度の想像力を持っていれば、最初からゴミを路上に投げ捨てたりしない。軽犯罪とは致命的な想像力の欠如によって引き起こされるものだから。
そんなような感じで「バカは死ななきゃ治らない」という、教師の存在意義を根本から否定するような口癖を持つ本当にとんでもない奴だったと記憶している。もちろん彼は僕のことも嫌っていた。バカだったからだ。
作戦は確かに馬鹿らしいが、本当に彼の言うように「死ぬかもしれない」という恐怖によって人を矯正させることは不可能なのか、そのことについては今でも少し考える。
「あれ」
数分で空き缶を処分して戻ってくると、先ほどまで僕がいた場所に長い髪の少女が立っていた。
いかにも普通の女子高生といった出で立ちで駅前の風景に溶け込んでいるが、その服装から判断して間違いない。
自殺オフ会の参加者だ。
近づいて「長田さん、だよね」と呼びかける。参加者たちはハンドルネームなど特に設定せずそのまま名乗っていた。もっとも偽名の可能性もあるが。
少女がこちらを見た。
間近で見るとなかなかに整った顔立ちだが、どうにも白すぎる。血色がよくない。他にも色々と、具体的に何がそう感じさせるのかまでは判断できなかったが、なるほど精神的に健康でないことは風貌から十分に見て取れた。
「はい。長田です」
「よかった。ええと、僕は」
「加賀谷さん、ですよね」
少し面食らう。よく即座に名前が出てきたなという驚きだ。こちらが彼女を分かったのは、唯一の女性ということで目印となる格好の特徴を覚えていたからなのだが。
「今日はよろしくお願いします」
深々と頭を下げられ、僕も反射的に礼を返した。
死に向かう列車へと一緒に乗り込む相手、これから運命をともにするメンバーの一人、少なくともこの子はそのように考えているわけだ。こちらこそよろしく、と口にしておく。
標的としてはなかなかの人間に思えた。これから起こることを想像して気持ちが高ぶった。僕のそんな邪念が顔に表れているのではないか、目の前の悟られてしまうのではないかという気がしてうつむきがちになる。
すると彼女の靴が視界に入った。とても小さい靴だ。何かがさらに込み上げる。危ない。あわてて横に視線をそらした。
「…………」
挨拶もそこそこにお互い黙り込んでしまう。
見ると少女は携帯電話をいじっていた。手持ち無沙汰な女子高生の暇つぶしとして見れば自然だが、数時間後には死のうという人間が今さらそんな端末で何をする必要があるのか。まさか同じアイコンを三つ並べて消すような遊びをしているわけでもあるまい。友人たちに別れでも告げているのだろうか。
まあ、いい。この子の観察はこの子が死んでから好きなだけ出来る。とりあえずは人混みに目を向けて、これからのシミュレートをしながら待つことにした。
しかし。
「来ないね」
すぐに予定の時刻は過ぎた。だが、一向に他の参加者たちが姿を現さないのだ。
会の性質からして直前のキャンセルもあるということで、待ち合わせ時刻までに表れなければ不参加の扱いにすると主催は言っていた。その主催も来ない。六人中四人が怖じ気づいて逃げるなんてことが、絶対にないとは言い切れないのかもしれないが、どうにも腑に落ちない。
「……おかしいですね」
彼女もどうやら困惑しているようだった。
場所を間違えているということは考えにくい。すでに来ているのに会えていないだけなのではないかと周囲を今一度見渡してみるものの、目印とされた帽子や上着を見つけることはできない。
「問い合わせてみますか」
「連絡先知ってるの?」
思わず聞き返してしまう。あのチャット内でアドレスや電話番号などの交換は行われていないはずだ。明らかに不自然なのだが、それについて説明する気はないらしく、
「とりあえず主催にメール送りますね」
と言ったきり口をつぐみ、再び携帯電話を操作しだした。
疑問はあるが、まあ目的とは関係がない。どうだっていいことだ。とりあえずは黙って主催からの返事を待つことにする。
問題は、このまま本当に四人とも表れなかった場合どうするかだ。たった二人であの世へ旅立つ流れになれば作戦実行の難易度が大幅に下がり、こちらとしては非常に好都合である。
とはいえ、長田さんが借金苦に喘いでいて一刻も早く逃げてしまいたいというのでないかぎりは延期ということになるだろう。僕と君だけでも今日死んでおくべきだと上手く言いくるめられればそれに越したことはないのだが、そのようにさせる方法も思い浮かばない。
それ以前に毒薬を用意するのも死に場所へ案内するのも主催の役目なのだから、そもそも彼が来ないことには全く話にならなかった。
「あ」
少女が手元の画面に目を落としたまま声を上げた。
「連絡きた?」
「ええ。事情があって遅れる、現地へ先に行っていてくれ、と神林から。まあ考えてみれば六人で連れ立って動くと目立ってしまいますし、もとから時間をずらして移動した方がよかったのかもしれません」
と言って彼女は苦笑いした。神林というのが主催の男の名前だ。
「先に行けったって、場所は?」
「知ってます」
「は? なんで」
「実を言うと、神林とはオフ会以前から個人的に交流がありまして」
案の定そういうことらしかった。
「彼は主催という形であのチャット内でもメインで話をしてもらいましたけど、本当のところを言うと企画を起こしたのはわたしと彼の二人でなんですよ」
「ふーん」
「特に必要がないと思って言わなかったんです。すみません」
「いや。別に僕はいいけど」
内容は本当にどうでもよかったが、少女がいきなりたくさん喋ったのに少し驚く。会議では彼女も無口だった。やはり文字のやり取りと実際では違うか。顔色のわりに柔らかな声で滑舌も明瞭だ。手で口を隠すような仕草をする彼女を見て、たぶん育ちがいいんだろうな、と関係のないことを思った。
集合時刻は大幅に過ぎている。六人で、と彼女は言ったがすでに三人ドタキャン確定だ。死ぬのが怖くなって逃げたというなら微笑ましいが、あのチャットでの感じからして、今日を待ちきれずに皆さっさと自分だけで死んでしまったのだと考えた方が納得がいく。
それより、三人いて僕以外の二人に繋がりがある場というのはなんだか気まずそうで、そちらの方が気がかりになっていた。
【4】
それから僕たち二人は、ほとんど会話もなく電車に乗り、歩き、一時間ほど移動して目的地に着いた。
アパートの一室や車の中ではないということは打ち合わせの段階で聞いていた。自分の所有している建物があるから、と神林は指定した。その煉瓦造りの小屋は、森の奥にひっそりと佇んでいた。
途中、どうしてわざわざこんな場所に分け入って行くのかと質問してみた。彼女からは「ふさわしいところを用意したんです」という答えが返ってきた。
確かに最果ての雰囲気はある。鬱蒼とした木々をくぐり抜けた先にぽつんと建っているそれは不気味に静謐で、いかにもその沈黙を破って何事かが起こりそうな空気をまとっている。森の外の世界から切り離されてそこに置かれているようで、見てすぐに童話の魔女の住む家を連想した。
「こんなところで死んだら誰にも発見されないんじゃない?」
「発見されないと不都合な事情がおありですか」
言われてみれば死後誰かに見つかることを特に望んでいない人間もいるだろう。ただこの子がそうだった場合、遺書を残そうとしない可能性がある。その点が気がかりだった。彼女は黙っている僕に向かって「大丈夫ですよ。ここは管理人のかたが定期的に訪れますから」と言いながら家の前へ進んでいく。
扉を開いた少女に続いて足を踏み入れると、中は空っぽだった。
部屋は一つだけで、視界を遮るがものないので入り口から全体が見渡せる。キッチンも水道もなく、生活空間として想定されていないことが誰の目にも明らかで、別荘というよりは使用されていない大きな物置のような印象だった。そのせいかかなり広く感じる。
窓もなく電灯の明かりだけに照らされ、扉が閉じられてしまうと昼か夜かも分からない。
適当に腰を下ろすと、少女が「一応掛けておきましょうか」と鍵を取り出し、施錠した。性行為というものに興味を抱けない僕は彼女を強姦する気など全くないが、もし襲われれば逃げられないような状況を都合よく作り出してしまうのは無警戒すぎないだろうか。
にしても、内側から鍵を使って閉めるというのは珍しい気がする。僕のそんな視線に気づいてか、鍵をポケットにしまいながら「必要だと思って、新しく取り付けたんです」と説明してくれた。
必要、という言葉の意味は訊き直すまでもない。この場において裏切ることは許されないのだ。
周りを見てみる。壁を破壊して出て行くようなことは到底できそうになかった。鍵がなんらかの手段で使用不能にされれば内からの脱出は不可能になるだろう。携帯電話も圏外で、およそ救助など望めない。
焦りが出てきた。
今、殺してしまおうか。
もう一人が来たら厄介だ。今のうちにこの女を殺して、なんなら殺す前に脅して遺書も書かせて、撮影して、さっさとこの場から逃げてしまうという手もある。
「あの」
はっと我に返る。少女がこちらの顔を見つめていた。
「遺書ってもう作りました?」
「ああ、遺書……」
そういえば、と思う。死のうと思って来たわけではないから、僕自身は遺書を用意しなかった。遺書を残さず自殺すること自体は不自然でもない。
「まだでしたら、今書いてしまいませんか」
「えっ?」
「紙とペンはありますので」
そう言って少女は鞄の中から便箋と筆箱を取り出した。七夕のシーズンに商店街を歩いていると、せっかくなので短冊に願い事を書いて吊していきませんか、と声をかけられることがあった。それを思い出させるような調子だった。
「きみは?」
「わたしは家で書いて、持ってきました」
やや拍子抜けした。書いているところを見るという目的が未遂に終わっただけでなく、なんだかとても軽い感じで言うのでその遺書には大したことが書かれていないような気がしたからだ。
しかし殺意はひとまず消えていた。考えてみれば、少なくとも神林がここへ到着するまでは扉を閉ざして出入りできなくするはずがないのだ。急がなくていい、今はまだ。
「見せてもらうことってできない? 失礼かもしれないけど。参考にしたい」
思い切って切り出してみた。
「へ?」
怪訝そうな顔。
「いえ、遺書なんて人に見せるものでは」
「人に見せるものだよね」
すかさず食い下がる。
「そうなんですけど、そうじゃなくて、ええと……」
しばらく思案するような様子を見せていたが、やがて名案が浮かんだというふうな口調で「じゃあ加賀谷さんが今から書いて、それを見せてくれたらわたしのも見せます」と言った。
「見せっこか」
「見せっこですね」
少女は幼い子供のような笑みを浮かべた。ここにはあまりにも場違いな、平和な響き。
結局その条件を呑むことにした。案外すんなり上手く行って肩すかしを食った気分だ。
「…………」
さて、どうしよう。
僕はペンを握り、便箋と向かい合っている。
もちろんこんなことは初めてだ。今までたくさんの遺書を見てきたはずなのに、実際に自分が書くとなるとどう始めたらいいかさえ分からない。プライドのようなものも邪魔をした。いくら拵えるのが偽物とはいえ他でもないマニアのこの僕が書く以上、自分の思い描く理想にかぎりなく近く完璧な遺書を仕上げなければならないという気持ちになっていた。
まず死ぬ理由を記した。手痛い失恋。もちろんデタラメだ。質問された際スムーズに嘘がつけるようあらかじめ用意していたもの。
とはいえ交際していた女性はいて、その彼女に拒絶されたところまでは本当だから、まるっきりの偽りというわけでもない。妹の死を引きずったまま、僕は彼女を真剣に愛していた。当時のことを思い出すと食ったものを戻しそうになるくらいだ。当然深く落ち込んだが、積極的に自殺しようとまで考えたことはない。恋に破れて死のうとする人間の気持ちが、たぶん僕には理解できない。
手が止まった。
「どうしたんですか?」
横で様子をのぞき込んでいた少女が不思議そうに声をかけてくる。
僕は固まっていた。失恋話に続けて、死後に残される人々へのメッセージを書き出そうとしたところだ。
それなのに、手が動き出せない。
【-】
千波は生まれつき体が弱かった。学校も休みがちで、登校しても体育の授業などは基本的に見学していたらしい。そのぶん賢い子だった。伏し目がちだが暗いわけではなく、内気なところもありながら積極的に人と関わろうとしていた。そう見えた。
対照的に僕は、元気だけはあったものの頭が悪かった。医学的には軽度の知的障害に分類されるのかもしれない。今でこそある程度は改善されたが幼少期は酷く、他の子供が当然のようにできることが何一つこなせなかった。どうしてこんな簡単なことができないの、と両親は怒るというより困惑していた。
聡明だが身体的な庇護を必要としていた妹と、愚鈍で体だけは丈夫な兄。両親がどちらを寵愛したかは考えるまでもない。接し方に明らかな差があった。父も母も僕を疎んじているのは明白だった。
あからさまにそういった態度を見せては情緒に悪影響を及ぼすと考えたのか千波の前では両親にもあまり冷たくされることはなく、まっすぐに育つべき可愛い妹のため表面的には円満な家庭が形作られていた。
そんな中、当の妹だけは僕に優しかった。千波は頭が良い。機微に敏い、鋭い、とも言える。両親の雑な演技を見破れないはずがなかった。お父さんもお母さんも酷いよね、兄さんは何も悪くないのに、と僕を憐れんだ。妹に気を遣わせる自分を惨めに思うと同時に、僕の家庭内での居場所はそこにしかなかった。
学校での出来事を語って聞かせてくれるとき、彼女は楽しそうだった。少なくとも僕にはそう見えた。
愚かだった。
部屋で首を吊っている妹を見つけたのは僕だった。どうして、と僕だけでなく両親もそう思っていたに違いない。苦しむ素振りなど全く見せずにいた妹が本当はどんな状況に置かれていたのか、僕は遺された手紙を読んで初めて知ることになった。
どこまでも正しくいたわるように育てられた千波は、あまりにも間違いに敏感すぎたんだろう。たとえば両親が自分の子供を苛めること。教室という空間において誰かを弱者と設定し、全体としての調和を保とうとすること。自分に向けられた悪意だけが摩擦を生むわけではない。どこへ行っても狭量な世界から逃れることは出来ない。声をあげたところでどうしようもない。
死ぬまで誰にも助けを求めなかった。
妹が死んだ後、母が机の中から遺書を発見した。現在も母が保管しているが、僕は頻繁にそれをこっそり取り出して読んでいる。そらで全文を唱えられるほどに何度も何度も読み返した。そのたび怒りと悲しみがないまぜになった感情が湧く。
「当たり前だと思っていた優しさが薄れて、世界から酸素がなくなったみたいで、息をすることが苦しくなりました」
生前の姿からはおよそ想像できないような言葉を使って、彼女はそう書き残している。大して真に迫るような表現ではないし、ワープロの文字だったけれど、そこには苦しみの残滓が痛々しくこびりついているようにも思えた。
何もかも手遅れになって初めて、僕に対してずっと偽りの顔を見せていた彼女の生身の部分に触れられたということが悔しかった。
「兄さん、今までありがとう。大好きでした」
手紙の結びには、そんな言葉。
やがて僕の頭はおかしくなっていった。
決して妹に欲情していたわけではないが、彼女の死による心への衝撃は大きすぎた。他者との接続の手段というものは人ごとに違う。それが通常あるべき形から大きく歪んだ。僕の周波数は壊れてしまったのだ。
【5】
結局、家族のことは書かなかった。それを綴るとこの紙切れが何か恐ろしい力を持ったものになってしまいそうな気がした。
こんなところか?
内容はたった二枚にまとまった。文書としての体裁はそれなりに整えたはずだが、どうにも物足りない感じがする。必要な情報しかなく、完成度が低いというか。凡庸だ。今までたくさんのそれを見てきた僕ならもっと斬新で、衝撃的で、人の心を揺さぶるような書簡が作れるはずだ。今回は偽物だからこそ余計に作品としての出来にこだわらなければならない、と思う。
傍らに置いてある少女の筆箱に目をやる。学校で使っていた物をそのまま持ってきたのか、まず遺書の作成には使わないような色とりどりのマーカーやペンが入っている。
待てよ。普通は使わない道具を使ってみたらどうなるか。個性の出し方としては非常に安易だが、思ったよりも面白い効果が得られるかもしれない。
横から不思議そうな顔で見守られる中、黄色のマーカーを取り出した。これで文章にアンダーラインを引いてみよう。もちろん、重要で強調したい部分に引くべきだろう。
冒頭の挨拶は大事だ。それに最初の一文に色をつけておくと見映えがいいから引いておく。死を選んだ理由。メイントピックだから当然ここにも引く。次は自分を捨てた彼女へのメッセージ。デタラメでだいぶ恥ずかしいことが書いてある。遺書の目的を考えればここは要だ。引く。結びの一文は、冒頭と同じくデザイン的な理由で色をつけることが望ましいだろう。
気づけば僕の遺書はほとんど全文にわたってアンダーラインが引かれていた。これでは逆にどの部分が重要かがまるで分からない。
「勉強できない人のノートみたいですね」
言わずにはいられなかったという感じでそんなことを口にし、少女が愉快そうにクスクスと笑う。初対面時は堅く大人びた印象を受けたものだが、だんだん態度が軟化してきたせいか年相応に見える。リラックスしているんだろうか、こんな状況下で。
僕は半ば自棄のような状態で、今度はピンクのマーカーで便箋のふちを囲うようになぞってみた。だいぶ華やかになった。
華やかにしてどうする。
「ひ、必死な懸賞ハガキみたいですね。あっ、か、神様に選ばれる確率を上げるために……?」
筋が通っているようで全く意味の分からないことを言いながら、その声は笑いをこらえている。僕が迷走している様を見て死の緊張がほぐれたのか。なんだかこちらも気が抜けてしまった。
慎みがなく下品で、カラフルと言うにも色の足りない便箋を眺める。
以前、現代アートの展覧会へ行ったことを思い出した。順路に沿って歩いていくと、無加工の板が壁に立てかけてあるのが目に留まった。ギャラリー内で作業が行われているのかと思ってよく見たところ、それは作者によって立派なタイトルがつけられたれっきとした作品の一つだった。正直言って理解不能だったが、芸術というものは仕掛けが剥き出しでも安易でも、そこに意図を吹き込まれてさえいれば何だって許されてしまうのかもしれない。
ペンを置いた。
「完成ですか」
「一応は、これで。あとで気に食わなければ書き直すし」
扉の方に目をやる。神林は一向に姿を現さない。ここは圏外なので連絡することもできない。彼も逃げたんじゃないか、という気がしてくる。だが今はそれも、とりあえずはどうだっていい。
約束通りに交換する形で、とうとう少女は自らの遺書を僕に手渡してくれた。向こうはさっそく僕の処女作に目を通し始める。何だか気恥ずかしくなって、座ったまま彼女に背中を向けた。
いよいよだ。
焦って乱暴にすると、そこに構築された世界が簡単に壊れてしまう気がした。だから、そうっと便箋を開いていく。
「……っ」
言葉を失った。
感動のあまりにだ。
ついに、この手で生の遺書に触れることが出来た。
紙の上には女性らしい繊細な筆致の文字が踊っている。死を目の前にした人間の、強烈な生の主張が軌跡として残されている。画面越しでは伝わらない圧倒的な迫力がそこにはあるはずだ。
ラーメンはいきなり麺に箸をつけることはせずスープの味から見るのが食通の作法だという。遺書も同じだ。本物を手にした今、経るべき段階を経て正しい手順をしっかり踏まなくては。
というわけで、まずは書いてあることの意味は拾わず、一枚の絵画を鑑賞するような気持ちで見つめる。純粋に線として文字の太さの強弱や震え、掠れなどを味わう。歌にも通じるところがある。感情は歌詞だけでなく旋律にも込められているんだと喩えれば分かりやすい。
十分に楽しんだところで次へ移る。いよいよ意味を咀嚼していく。裸の心に接するわけだ。虚飾のない素直な感情の発露、彼女の魂の動きをなるべく近くで感じ取るために、そっと愛撫するように息づかいや微妙な揺れを追っていこうとした。
だが、紙の上をなぞっていた指はすぐに止まった。
わずかに思考が停止し、やがて恍惚から現実世界へ引き戻された。遺書の内容が想像だにしていないものだったからだ。
「これは……」
思わず目を剥いた。
便箋には、一人の少女がある男と出会い、恋に落ち、あの世で一緒になるため共に死を選ぶ、という物語が便箋三枚に渡って記されていた。いわゆる心中というものだろう。
まず失望の念が浮かんだ。心中は内省とは真逆の、他者に完全に仮託された行動だ。あまり美しくない。むしろ自ら命を絶つ動機としては最もくだらない部類に入るとさえ思っていた。気に入らない。
続いて疑問が湧く。恋人と一緒に死ぬつもりだというのであれば、肝心のその相手の男はどこにいるのか。直前でキャンセルした四人のうちの誰かならば少女だけがこの場にやってくる意味が分からない。
順当に行けば思い当たるのは主催の神林だ。彼は彼女と交流があるようだし、つじつまが合わないこともない。
だがそれ以前に、そもそも心中するのに何故このような自殺オフ会など企画したのか。最初からパートナーがいるならお互いだけであの世へ旅立てばいい。どちらかといえば関係のない人間に同席されることは迷惑なのではないか。それとも、誰かに二人の門出を祝ってもらいたいとでも考えたんだろうか。
もしそうならば、目的は達成しやすい。しかしながら僕の熱はすでに冷めつつあった。彼女の遺書への興味が薄れてきている。
何にしろ問い正さなければと思い、少女の方に向き直った。
少女が僕の遺書を燃やしていた。
ライターで。
「は?」
ユニークの粋を尽くした現代アートの紙切れが、煙と共にどんどん失われていっている。紙の焦げる匂いもあるのになぜ今まで気づかなかったのか。
これは、どういうことだろう。
理解が追いつかない。目の前の光景に脈絡がなさすぎる。思考が寸断され、どう行動すべきなのかさえ分からない。
「あなたを信用します。すみません」
硬直している僕に対して意味不明な通告と詫び言が口にされた。見間違いでもなんでもなく二枚とも燃えカスになった遺書に気を取られていると、続けて少女は自らのポケットから小さな鍵を取り出した。この部屋の入り口の鍵だ。
まずい、と心のどこかで思った。動かなくてはいけなかった。
だが次の瞬間には彼女はそれを舌に乗せ、あっさりと飲み込んでしまっていた。
【-】
千波は焼かれた。燃えカスになった。
失われた。何が?
失われていないはずだった。
遺骨を見たときには何の感慨も抱かなかった。
「骨以外に何か出てきた?」
葬儀のあと、何となく母にそう尋ねてみた覚えがある。
母はこちらの言葉に反応して一瞥したものの、眉間にしわを寄せたまま何も答えずにその場を去っていってしまった。
変なことを口走ったという自覚はあった。
それより、妹にもう会えないと思うと悲しかった。
【6】
「実は、加賀谷さんに協力していただきたいんです」
少女はぬけぬけとそう口にした。
彼女が何かしらの意図によって僕を罠にかけたことは明白なのだ。
油断していた。悟られぬよう自分の目的を果たすことで頭がいっぱいで、他にも同じように奸計を抱いている人間がいる可能性にまで考えが回らなかった。
「試すようなことをしてしまってすみません。自殺オフ会にはジャーナリストが紛れ込むことがあるという話をご存じですか」
聞いたことがある。自殺者のふりをして居合わせ、他の参加者に死を思いとどまるよう説得し、会の実態を記事にして世間に発表しようとする人間がいるらしい。それを知っていたからこそ自分がこうして潜入することも容易であると踏んだのだ。
「もしかしたら加賀谷さんがそれなのではないかと、予感がありました」
「どうして?」
「何か違う気がしたからです」
ナニカチガウという響きはアホっぽく、ふざけているのかと思ったが少女の顔は真剣そのものだ。自殺志願者として同族の雰囲気を感じなかったと言いたいのか。何にせよその読みは当たっている。勘がいい。
「それで、即興で遺書を書いていただこうと思いつきました。そのときあなたが妙にわたしの遺書を見たがったので、これはいよいよ怪しいと思いました。でも結局、加賀谷さんは立派な自殺志願者であると判断したんです。あの文章はとても嘘をついているようには見えません」
なるほど。遺書を書かせたのは僕が本物かどうかテストするため。そして僕は悪運強くも見破られずに済んだわけだ。日頃の鍛錬の成果とでも言うべきだろうか、表面的にとはいえ死者の筆致というものを学習していたおかげで。僕自身、初めてとは思えないほどそれらしい文章が書けてしまって驚いたくらいだ。
「協力っていうのは?」
話を本筋に持って行く。
「単刀直入に言えば、わたしの恋人になってほしいんです。短い間ですが」
「僕が?」
少女は黙って首肯した。
「この遺書に書かれてる心中の相手って、これから来る神林さんのことだと思ったんだけど」
「神林さんは来ません。というか、存在しません」
「は?」
唖然とした。言っている意味がよく分からない。
少女は薄く笑いを浮かべている。その笑みはどこか得意げだ。
「付け加えると他の三人もいません」
「何を言って」
「騙してすみません。このオフ会は最初からわたしと加賀谷さんの二人しか参加してないんです」
「じゃあ、あのチャットは?」
「五人一役です。技術的にも大したことじゃないですよ」
「何のために?」
「わたしは生まれてこの方、恋愛をしたことがないんです。自己欺瞞でもなんでも最期くらいは満たされた状態で逝きたいじゃないですか。けどそのためにわざわざ人と関係を築いている余裕はなかったので、こうして即席でということです。恋人ごっこ、心中ごっこです」
そんな空虚なお遊びに付き合えというのか。
最初から全て仕組まれ、欺かれていたということらしい。こんな場まで用意して、自分勝手な張りぼての演劇に無理やり僕を巻き込んだ。ジャーナリストを警戒していたのも、取材目的で自殺オフ会に乗り込んだことを知っている者がいると偽装が上手くいかなくなる可能性があるからだろう。書いたとおり僕に恋人や家族がいないのも好都合というわけだ。
もはや少女に対する当初の期待は完全に消え去っていた。遺書は偽物だったのだ。おまけに何を考えているのか理解できない。どういう思考回路をしていれば死の際に至ってまでこんなに無意味なことをしようと思うんだろうか。
ただ一つだけ分かるのは、このままでは僕は死ぬということ。どうでもいいと思っていた自分の命だが、こんな女の独善に巻き込まれて失われるのは癪だ。
部屋は閉鎖された。練炭など焚かれたら絶対に助からない。それともこのまま閉じこめて餓死でもさせるつもりか。自殺の手段としてスマートさの欠片もないが。
気になるのは、彼女が目の前で鍵を飲んだことだ。遺書を燃やしたようにさっさと処分すれば良かったものを、わざわざ僕に見せつけるように飲み込んだ。思うにあれはパフォーマンスなのではないか。つまり、まるで唯一の出入り口が閉ざされたかのようにこちらに見せかけておいて、実は他に万が一の際の脱出経路を用意している。
そうだとすれば方法はある。
たとえば、彼女がこの部屋から逃げ出したくなるよう仕向ける、なんていうのはどうだろう。
「どうしたんですか、加賀谷さん?」
僕は確かに油断していたが、それはお互い様だ。こいつは僕がジャーナリストかもしれないという可能性にまでは思い至ったものの、所詮それまで。
彼女からは他者を見下すような態度を感じる。世間知らずで世の中をなめきったお嬢様か。色々とこちらの動きにまで考えを巡らせて策を練り、用心深いつもりなのだろうが、結局どこかに人は自分の思い通りに動くはずだといった高慢さが透けて見えている。
「わざわざ話してくれてありがとう」
隠し持っていたナイフを取り出し、少女に向けた。彼女が小さく悲鳴を上げる。
「お返しに僕の目的も教えてあげるよ」
少女は驚愕に目を見開いて固まったままだ。やはり甘い。インターネットで知り合った男と二人きりでオフ会をしようというのに、警戒心が足りなさすぎる。
どうやれば生理的な嫌悪感や恐怖心を煽ることができるのか考えた。たぶん最も効果的なのは、話の通じない狂人を演じることだと思う。それなら楽勝じゃあないか。演技する必要さえない。僕は自分の異常性欲を満たすためにここへ来た、モノホンのキチガイの変態野郎だからだ。僕は遺書が大好きなんだ。
「僕は遺書が大好きなんだ」
思ったことをそのまま口にした。
「見たくてたまらないんだ、死を悟った人間の綴る文字が。今日はそのためにここへ来た」
頭の中の台本をなぞりつつ、僕自身も興奮してくる。
左手に収まったままだった少女の書簡をくしゃっと握りつぶし、だけど、と呟きながら床に放った。
「きみの遺書は偽物だった。虚飾にまみれた本当にくだらないものさ。恥ずかしいと思わないの? 死を目の前にしてまで自分を偽ったりして。死ぬ前は心が素直になるってこと、科学的に証明されてるんだけどなあ」
「あ、あなたに何が」
「だから」
ここは無視。無視は大事だ。
「せめて最期に、本物が見たい。きみの体に刃を入れるよ。きみはその状態で遺書を書く。用紙五枚でも六枚でも絶対に書かせてやる。死の恐怖に寄り添って書かれる迫真のお手紙だ。僕を満足させるものを書いてくれたら、きみの望み通り恋人のふりして死んでやるよ」
何度も妄想していた内容だけあってするすると出てくる。
昔読んだ小説にこんな話があったんだ。
探偵が、列車に監禁されているらしい人間からの手紙を受け取る。助けようにも列車の詳細が本人にも分からないらしく書かれていない。しかし探偵は文字の揺れのタイミングから、彼がどの時間のどの列車の中で手紙を書いたのかすぐに特定してしまう。
そんなことが可能なのかと疑問だったがもし実際に行えるとすれば、女を犯して殺しながら書かせた遺書の文字列に、書き手がどんな体位で犯されてどんな殺され方をしていたのかという情報まで残せるんじゃないかと思ってぞくぞくしていたものだなあ。
と言った。
少女が後ずさる。顔は青ざめ、怯えているように見えた。
ああ。
そんな顔をされると、また恋人のことを思い出してしまうじゃないか。
なんだったんだろう。もっと上手くやれると思っていた。人のしょうもない失恋話を目にするたび、自分ならそんな愚かな失敗はしないだろうと心の中で見下していた。実際、最初の方は順調に見えていた。特別美しくはなかったが誰よりも優しい女性で、信じがたいことだが僕を好きだと言う。僕が喜ぶことなら何でもしてくれた。
しかし、何を言っても嫌な顔をしない彼女と共に過ごしていると、だんだんと多くのことが当たり前になっていく。いけなかった。相手に許されているという思いが、卑屈だった僕の心を増長させた。
自分の醜い部分を人にぶつけたいという欲が誰しもにあると思う。隠しながら一緒にいるのは辛い。それは試験、試練だ。受け入れてくれたとき関係を次の段階に進めることができるはずだ。身勝手な言い分かもしれないが、そのとき僕の頭の中はそんなことでいっぱいだった。
ある日、切り出してみた。
『あのさ』
『うん。なあに?』
『遺書を書いてみてほしいんだけど』
即行で逃げられ、連絡手段を絶たれ、縁が切れた。どころか、警察沙汰になりかけた。
過ぎた話だ。
意識を目の前の少女に戻す。一向に逃げ出そうとする気配はない。足がすくんで動けないのか。もしくは、別に脱出の手段があるという読み自体が外れていたか。
彼女は乾いた咳を一つした。
「いいですよ」
何かを許可した。
「殺していただいても。あなたの思い通りになんてなりませんけど」
表情に屈辱や強い敵意が滲み出しており、その目はこちらをきつく睨んでいる。
思わず僕の方がたじろぐ。暴力をちらつかせる程度で屈させられると考えたのは甘かったようだ。なかなか強烈な自尊心を抱いているらしい。無理やり殴り倒そうものならその場で舌を噛んで死にかねない雰囲気だ。
「でも僕がこのナイフできみを刺し殺してしまったら、きみの目的である心中ごっこは果たせなくなるよ」
「かまわないですよ」
引きつらせたような微笑みを浮かべている。
「嘘なので」
嘘? と訊き返すと、彼女はわざとらしく媚びるように首を傾げた。
「わたしの恋人になってください、と言っておいた方が、角が立たないかと思いまして」
先ほどまで確かにあったはずの刃物への恐怖を克服してしまったかのように、少女の声は平静を取り戻していた。
「けど、一緒にあの世へ旅立つ相手なんですから、真摯に本当のことをお話しするのが礼儀ですよね。失礼しました」
なんか、頭を下げられた。
【7】
人と人とが相互に理解し合うことはできません。
なぜならそれぞれが別の生き物だからです。人間という大きな括りで捉えること自体が間違っています。全く違う生物たちを並べてみると、偶然にも体の構造や見た目に共通点がある、だからそれらをまとめて人間と呼んでいるだけの話なんです。
人でなしという言葉があります。人は人に人であることを期待しているんですよ。おかしな話です。そう言うと次は社会というペンキが持ち出されてきます。それでべたべた塗るんですね、人を。そしたら猿も人も分からなくなります。
意味が分かりませんか? 何が言いたいんだ、って顔ですね。
わたしに言わせれば、この世に人間はわたしだけなんです。他はみんな偽物。人間未満の存在。ロボットですね、わたしを壊すために作られたロボット、そんなふうにさえ思います。
だから、わたしはわたしだけのわたしとして死にたい。
わたしが生前どんなことを考えて生きていたか、どうして死を選んだか、そんなことを人に知られたくない。くだらない専門家気取りの心理分析も大きなお世話です。わたし自身の中だけに抱え込んで、この世に何も残さずに消えていきたい。
ですから日記に嘘を書き続けました。一年くらいですね。あくまで自然に、恋人との蜜月の日々を、その崩壊を、死ぬことを選ぶまでの過程を。日記は家族が読むと思います。この先なんらかの経緯によってわたしの死に触れるすべての人々は、一時の色恋に流されて愛する男性とあの世で結ばれんとした愚かで悲劇的な女として記憶するはずです。そうなったら作戦は成功。
死人に口なしをいいことに、死後にわたしを蹂躙しようとする人間がきっといます。たとえばインターネット上で、死者がどんな扱いを受けるかご存じですか。コンテンツの一つとして弄ばれて消費されていくんですよ。聞くところによれば死体や遺品の画像をオモチャにして共有しようとする下劣な奴らまでいるとか。というか、あなたがそういう人種なんでしょうね。
そんなことは許さない。わたしの頭の中はわたしだけのもの。誰にも詮索も考察も共感も同情もされたくない。踏み荒らされたくない!
わたしの世界にわたし以外は要りません。人間の尊厳を人間じゃないものの餌にするわけにはいかない。だからわたしは一人きりで、わたしの中にわたしという人間を閉じこめて完結させる。わたしに似たわたしじゃない誰かの抜け殻だけ残して、完全にこの世から消えます。
全部言っちゃいましたね、結局。
【8】
わたしわたしってうるせえなこの女、と思いながら聞いていたが、ようやく満足して話し終えてくれたようだ。
恋人になってほしいという最初の話と大して変わっていないように思える。もちろん彼女にとっては大きな違いなんだろうが。確かに僕がこのままこいつを殺したところで、僕がここから出られず並んで死体として発見される以上、完全でないとはいえ目的はおおかた達成されることになる。むしろ、彼女が僕のストーカーで無理心中を企てたものの反撃され殺された……なんて物語が作られれば大成功とすら言えてしまうのか。
どうするか。
当初の目的は忘れつつあった。目の前にいる女子高生にもう失望の気持ちもなくなっていた。どころか、自分が憧憬を抱いていた自殺者の孤高というものさえ、すべてが幻想だったのかもしれないと思い始めてきている。
「…………」
彼女は孤独だったようだ。当然だろう。世の人々は暇ではない。誰がこんなしょうもない女の吐く妄言にいちいち取り合ってくれるというのか。
僕はそんな女と一緒にあの世へ行くことになるかもしれないらしい。少なくともこいつを殺さなければ脱出はできないから、どちらにしたって彼女は死ぬ。だったら、最期くらいは話したがり屋で可愛らしいこの少女の戯れ言に付き合ってやってもいいと思った。僕はこいつの彼氏らしいからな。
隠し持っていたビデオカメラを取り出す。
「あっ」
短い悲鳴があがった。
カメラの持ち込みに驚いたわけではない。僕が彼女を突き飛ばし、覆い被さり、その首にナイフをあてがったのだ。なんだか妙にスムーズに体が動いてくれた。女を組み敷いた経験などないはずなのに。
少女は浅く呼吸をしながらこちらを見上げている。さすがにクールな顔を保っているのは無理だったようで、すぐに敵意むき出しの眼差しが僕を貫いた。
録画開始。
さあ、楽しいおしゃべりの始まりだ。
「長田さんはなんで、心中なんてしようとしたの」
「は? 聞いてなかったんですか、今までの話」
呆れたような声。こちらがちょっと力を込めれば喉を切り裂ける状態で、こいつは本当にすごい度胸だ。素直に感嘆する。
「他の人は必要ないって言ったよね」
「言いました」
「でも、僕を必要としてるじゃん」
「……それは、目的のために仕方なく、ですから」
不自然なのだ、そもそも。なぜこんなに面倒な手順を踏んでまで心中にこだわったのか。自殺の理由をでっち上げるなら他にいくらでもやりようがあったはずだ。第一、物語のオチを心中で締めるにしたってもっと簡単な方法がある。
「そんなわけないじゃん。きみは刺し殺されてもいいと思ってるくらいなんだから」
「どういう意味ですか?」
演技に付き合ってくれる人間を探す必要はないということだ。
「一人で毒を飲むなり身投げするなりして死んだらよかった。その遺書と、日記もあるんだよね? そんできみが一人きりで死んでたって、誰が見ても心中相手は怖じ気づいて逃げたんだと思うだろ」
「でも、相手が見つからなかったら疑いの余地を残してしまいます。万が一にでも嘘がばれてしまったら」
「自殺の動機を推測されたくないからカモフラージュ? それだけのために一年もデタラメな日記を書いた? 誰がそんな馬鹿げた推理するんだよ」
だいたい万が一まで想定する人間の立てる計画にしては杜撰すぎるだろう。彼女の性格からすれば、自分の考えにたどり着ける者が他にいることなど絶対に想像もしていないはずだ。
計画の上では必要がなかった、だったら残りは一つしかない。彼女自身が必要としたのだ。
つまり。
「一人きりで死ぬのが怖かったんだろ?」
そう言った瞬間、少女の目が見開かれ、
「違う!」
と悲鳴に近い声が飛んできた。
同時に体がびくりと跳ねる。衝動的に何かしようとしたらしいが、首元のナイフの存在を思い出したようでそのまま動きを止めてしまった。
こうして話しているのが嫌ならさっさと僕への頭突きついでに自殺してしまえばいいのに。さすが積極的な死の手段を用意してこなかっただけあって臆病な女だ。
「自分の内側だけ見つめながら孤独に死んでいくって、とんでもなく難しいことだと思うよ。普通は嫌になる。誰か誰かって叫びそうになる」
「でも、わたしは!」
「出来なかったよね?」
「わたしはこれから」
これからもクソもない。
それに関してはもう失敗している。
「長田さん、考えてること全部喋ったよね」
話を聞きながら馬鹿じゃないのかと思った。こっちが何かの拍子に生き残ったりでもしたら計画が完全に破綻する。最も守りたいはずの秘密をここでカミングアウトするメリットなんてまるでないのに。
何でもよかったんだと思う。何でもいいから、自分じゃ抱えきれない自分の肥大した心をどこかになすりつけたかった。けれど彼女は書簡の形でそれを残すわけにはいかない。だから死への恐怖を覚え始めたとき、目の前にいた僕を都合よく利用した。
「自分自身に閉じこもって孤高にこの世から消えるなんて、きみには土台無理だったんだと思うよ」
何もかも自覚もなく無意識にやってしまったんだとしたら、それこそその程度の器なんだ。
「勝手なことばかり言わないで!」
顔を真っ赤にしている。僕が蛍光ペンで遊んでいたとき見せてくれた笑顔とはまた別の意味で年相応に感じる。非常に不謹慎で彼女には申し訳ないが、その表情が今までで一番可愛らしく思えた。
話を続ける。
「いいことを教えてあげる」
自分を守るため自分に嘘をつかなければならないなんてのはおかしな話だ。彼女は自分の無価値さに気づいてしまって、最も安易な方法で自らを騙そうとした。他者を見下し、個になったつもりでいることによって。
「誰もきみの中身に興味なんてないんだよ」
ビー玉のイメージが浮かんだ。本来は形のない、魂とか尊厳とかいうもの。この女のそれは濁りきっている。救いようがないほどに腐ってしまっている。
「きみが大事そうに体に隠しているのは、うんこみたいに汚いヘドロの塊だ。そんなものを愛でようとする人間なんて、変態でナルシスティックなきみ自身以外にいるはずがない」
根拠はないが確信があった。僕は少女に理屈を説いているわけではなかった。ただの暴力、力任せにぶん殴っている。死ね、と思いながら。
最初から守る必要なんてないだろう。こいつの頭の中はこいつにとってしか価値のないガラクタなんだから。死んだら消えてなくなる、それでおしまい。彼女自身そのことは心のどこかで理解しているはずだ。だからこそ死ぬにあたって今回のくだらない小細工を用意した。
「きみは虚飾を塗り重ね、必死に守り固めることで、あたかも中心にあるそれが尊いもののように思い込もうとしたんだ」
飾ってあるのが単なる幼稚園児の落書きだったとしても、周りに警備員が何人も立って厳重にその絵を警護していれば、実はとんでもなく価値のある名画なんじゃないかと思わせられるかもしれない。
「で、実際は。きみが死んだらどうなると思う?」
「やめて……」
「なんせ、きみ自身が自分の痕跡を消しちゃったんだから。何の価値もないゴミを全部その体に抱えたまま、この世から消え去るわけだ」
なるべく早口にならないよう興奮を抑えつけ、やさしく愛を囁くかのように、目の前の少女にゆっくりと言葉を降らせていった。そして、そっと彼女の耳元に唇を寄せる。
「つまり、さあ」
とどめを刺してあげようと思う。
「きみの十数年間の人生自体、最初から何にもなかったのと同じなんだよね」
言い終えると同時にナイフで喉を切り裂いてやった。
血がぱっと滲み、少女が聞いたことのない音声を発した。
開いた穴から空気が漏れ、かすかに笛のような音を立てている。滑稽だ。まるで、人を殺すくらいでそんなに緊張しなくていいんだよ、と応援してくれているようだった。
しかしやり方が分からない。たぶん機能を停止するよう分解していけばいいんだと思う。でもどこから手をつければいいんだろう。
じっと観察する。
そして、死ぬまで何も言えなくなってしまった彼女の服をまくりあげ、上下する腹部にナイフを突き立てた。
なぜそんなことをしたのか自分でも分からなかったが、とにかく刃を動かして適当にかっさばいていく。思うとおりに裂けない。勢い余って僕自身の手にも傷をつけたりしつつ、夢中でぐちゃぐちゃにかき回す。ゴボッと気色の悪い音を立てて少女が血を吐いた。
少女の体はどんどん醜くなる。今開けているのはなんだ、胃袋か、肝臓か、子宮か、血まみれすぎて目で見たところで分からない。いきなり強烈な悪臭が噴き出して、それでようやく消化器を傷つけてしまったことがわかった。まあ何だっていい。医者と違って後で直すつもりがないんだからちょろいもんじゃないか。
まさに蹂躙だ。彼女が残りの人生を捨ててまで隠したかったものも、体の中身も、何もかも僕がビデオに収めてやっている。なるほどこれは立派なポルノだ。死体愛好家の気持ちが今なら少し分からなくもない。
さて。
こんなふうに自殺志願者の、いやもう死んでいるな、自殺者の、って違うか、僕が殺したんだ。かわいそうな被害者、の女の子の死体を弄んで、僕はいったい何を探しているのだろう? いくら中身をほじくりかえしたって何も見つかるはずなんかないのに。
たぶん、少女が体の真ん中に隠していたものを見てみたいと思ったんだろう。千波の死体からは何も出てこなかったようだが。それでも僕は、その人の中の最も純粋な部分を凝縮した小さい玉が誰でも体に埋まっているんだ、と未だに心のどこかで信じていた。
僕がずっと見たかったのはそれだ。遺書を通して触れようとしてきたそれに、今なら直接さわれるかもしれないと思った。
やがて、明らかに人体の部品ではない何かを少女の体から発掘した。
血を拭き取ってやると、その何かは鈍い光を放っている。
もちろんビー玉なんかではない。
鍵だ。
「…………」
立ち上がってドアの錠に差し込んでみた。回らなかった。やはりフェイクかと思ってよく見ると、ナイフで散々突っついたせいか鍵は破損していた。
死体いじりはやめて部屋を探し回ってみることにする。しかし物を収納できそうなところ自体がほとんどないためすぐに捜索は終わった。何も見つからなかった。鍵は本物だったようだ。その本物が壊れている。
脱出できないんじゃないか。
どうするんだ。
確かここには定期的に人が訪れると言っていたな。彼女の計画は死体が発見されなければ無意味だから、これは嘘とは思えない。だが同じく計画の内容からして訪問はずっと先のことになりそうだ。
第一、なんとか生き延びて救出されたところで、こんな惨殺死体を見られてしまえば僕は間違いなくキチガイ殺人者として残りの人生を過ごすことになる。
もう何もかもどうでもよかった。
だからこうやって整理して考えてみると、本当にすぐ結論が出た。
「自殺しよう」
なるほど結局こうなるのか、と妙に納得しながら、首をつる道具もピストルもないので、少女のどれかしらの内臓に立てておいたナイフを抜き取り、自分の心臓のあたりに向けた。
さすがにちょっと緊張する。だが少しでもためらったら一突きで死ねない。介錯してくれる立会人もいないから死ぬまで相当苦しむことになるな、と思いながら少女の死体に目をやった。腹部はグチャグチャだが全体として人間の形は保っていて、次の瞬間には起きあがって僕を殺しに来るんじゃないかという気がしてきた。
自殺の邪魔はされたくない。こんなナイフ一本で解体などできなくても、切り刻めるだけ切り刻んでおいた方がいいかもしれない。背後で人の気配がした。
振り返ると、そこには真っ黒な人間が立っていた。
人相がないにも関わらずなぜか理解できた。そいつは、僕と同じ顔をしていた。薄気味悪い笑みを浮かべている、と分かった。
「誰だ?」
「俺は、おまえ自身。加賀谷ユウキだよ」
目の前にいるにも関わらず、自分の内側から響いてくるような声。そいつは紛れもなく僕本人の姿をし、僕の名前を名乗った。
「別れの挨拶をしに出てきてやったんだ」
意味が分からない。
「おまえは自分を騙すために記憶を封印、改竄、都合の悪い現実をなかったことにしてきた。こいつと似たようなものなんだよ」
転がった死体は当然何も言わなかった。
「俺はおまえの中にいて要らない過去を無理やり押し込まれてきたゴミ箱みたいなもんさ。その記憶領域を切り離しているからこそおまえは何も自覚することなく生きてこれた」
不意に視界が歪んだ。脳の一部が損壊し、何かが流れ出してきている。自分が自分じゃなくなるというよりは、失われていた本来の形へと戻っていこうとする感覚なのか。無性に気分が悪くなった。吐いてしまいそうだった。
「別れ?」
「俺はもう消える」
「どうして」
「だっておまえ、もう終わりじゃないか」
まるで人から抽出した人以外の部分だけを固めて作ったように真っ黒な僕が、こちらを指さしながら悪意を隠そうともせず笑った。
「死ぬ前は素直になるもんなんだろ」
【9】
「過去を美化する、という言い方だと聞こえがいいな。
おまえは不都合な事実をすぐ葬り去ろうとする。だが自分の記憶に嘘をついて欺くというのは難しい。意思や工夫でどうにかなるもんじゃない。だからおまえの無意識は、心が壊れないよう自分の中に自分の形をした他人を作り、そいつに表の自分を騙す役割を押しつけた。
いいか?
おまえは変態性癖と聡明な妹への嫉妬を暴走させて、遺書を書かせようと自殺に追い込んだんだ。それをごまかすため記憶をめちゃくちゃにした。
救いがたい変態だ。妹の死がきっかけで狂った? 大嘘だ。そんな大層なもんじゃない。おまえの遺書フェチの原因は中学のとき偶然見つけた死体サイトだ。最初から最後まで勝手に一人でこじらせたんだよ。
自分の同級生と同じくらいの歳の女の子の死体で手淫にふけるようなクソ野郎だ。恋人なんてのも嘘だった。実際の元恋人をモデルにして偽の自殺理由をでっち上げたわけじゃなく、偽の自殺理由から架空の元恋人の記憶が作られていったんだ。
そして、操作しようとしたのは自分の記憶だけじゃない。
妹の死体を発見したおまえは傍に置いてあった遺書も見つけた。襲って以降、兄さんとも呼んでくれなくなった妹の他人行儀な手紙。許さないと書かれていた。目的は果たせたとはいえ、おまえはこんな呪いを背負って生きていけるほど強くない。
恋人や変態性欲の嘘は他人に暴かれる心配がほとんどないから、真実だと思い込むだけで簡単にその通りにしてしまえた。だが妹の自殺はそうは行かない。強姦未遂のことを知らない両親への告発文でもあるし、何より内容について記憶をねじ曲げたところで遺書大好きなおまえは何度でもそれを読もうとする。そのたびに魔法が解け、呪いをかけられていたら心が持たない。
だから、すぐに自室で焼却処分した。さらにワープロで自分に都合のいい内容の遺書を作成し、あとで発見されるよう何食わぬ顔で妹の机の中に入れておく。いかにも世間に破れて悩んだ末に死を選んだかのような文章を書き連ね、お兄ちゃんありがとう大好きという言葉で締める。本当の意味で現実を歪めてしまったんだな。
あとは俺に丸投げ。つまり元々の遺書を燃やしたことを忘れさせてもらい、自分が偽造したそれが最初からあった本物のように思い込んだわけだ。
ま、どうせこのあと全部思い出すんだけどな。
おまえは自分自身の記憶から逃れることはできない。俺がいなくなるからな。せいぜい業を噛みしめてな。本来どうしようもなく弱いおまえはすぐに気が狂う。死ぬのとどっちが先かな」
黒い僕はけたたましく笑い声を上げながら、いきなりバラバラに弾けてガラスの破片となり、部屋の床に溶けるみたいに消えていこうとする。
特に引き留める気にもなれなかった。そいつが完全にいなくなるのを見届け終えた途端、音もなくただスイッチが切り替わるように全てがあるべき形に戻った。
「…………」
その後、僕は部屋の中を歩き回った。何周も何周もした。
何もかも忘れたい気分だがもちろんそうは出来なかった。
何時間くらい経っただろう。疲れてきたので死体の傍らに座り込んだ。髪を手櫛で梳いてやる。なぜそうしたのかは分からない。
こいつは自分を欺き通せなかった。僕は鏡を見せただけで、そもそも彼女の嘘を許さなかったのはたぶん、それこそ彼女自身の中にある純粋で不可侵な何かしらだったんだろう。価値なんてないし、綺麗なものでもないのは間違いないけど。
にしても人の死に顔は全然死んでいるという感じがしない。少女のそこは傷つけてもいないから、血で汚れていても本当にただ眠っているみたいだった。
隣に寝転がる。
自殺はやめだ。かと言って脱出方法を検討し直そうとも思わない。先ほど録画した映像を再生してみたが、自分の声が入っているのが気恥ずかしくてすぐに止めてしまった。やがて少女のこの死体にも無数の虫がわき始めるだろう。死後どのくらいで腐るんだったか、考え始めるとあくびが出た。
気が狂うまで寝てよう。