おやすみなさい
「あれ――??もう戻って来たのか??」
シーヴァが扉を開けて部屋に入って来た途端、ベッドの上でだらしなく寝そべっていたイアンが声を掛ける。
『今、貴女が一番優先させるべきことを疎かにしちゃ駄目、って、ミランダに叱られちゃった』
「……そうかぁ……」
『ごめんね』
「何が??」
『お客さんであるイアンをずっと放っておいて』
「俺が行ってもいいって言ったんだから、気にしなくてもいいのに」
よっこらしょっ、と声を上げて起き上がるイアンに向かって、シーヴァは『イアン、年寄りくさい』と顔を顰めて注意する。
「おっさん通り越して、今度は爺さん扱いかよ……」
声が出なくとも憎まれ口は健在なシーヴァにげんなりしつつ、苦界で生きる中でも以前と変わらない無邪気さが残っていることに、イアンは内心ホッとしていた。
イアンが週に三、四日の割合でシーヴァを買うようになってから、すでに四カ月半が過ぎていた。
最初はミランダと同じく、イアンの掌にシーヴァが指で文字を綴って意思の疎通を量っていたが、ある時からシーヴァの唇の動きを読んで会話するようになった。最も、慣れるまでに少し時間を労したので、今みたいに会話が滞りなくできるようになったのはごく最近の事だけれど。
「じゃあ戻って来たところだし。今日は、この本を一緒に読むか」
イアンがベッド脇に置かれた本を広げるとシーヴァもベッドの上に乗り、イアンの隣で一緒に頬杖をついて寝そべる。
『今日はどんな本なの??』
「救貧院を脱走した少年が様々な困難にもめげず立ち向かい、成長していくっていう話らしい」
『らしいって何よ。イアンは読んだことないの??』
「この本は知らん。貸本屋の親父に、十歳くらいの子供に読ませるにはどれがいいか聞いたら、これがお勧めだと言われたから借りてきただけだ」
『……フーン……』
シーヴァはまだ何か言いたげな顔をしていたが、イアンがページを捲り出すと文面に目を落とし、それからは本を読むことに集中し出した。
イアンは文字を何となく目で追う程度に軽く読んでいただけだが、シーヴァは真剣そのものの様子で食い入るように夢中になって本を読んでいる。時折、読めない字や意味の分からない言葉が出てくるとイアンに質問するくらいで、あとはずっと黙っている。
もしも学校に通っていたら、シーヴァは勉強が好きだったかもしれないな、と、そんなことをボーッと考えていると、シーヴァが切れ長のハシバミ色の瞳で彼の薄いブルーの目をじっと見つめてきた。
「何だよ、また分からない言葉が出てきたか??」
『イアンは意外と頭良いよね??』
「意外って……。失礼な奴だなぁ」
『これでも褒めてるのよ。だって、字の読み書きどころか、難しい言葉もたくさん知っているし。学校に行ってたの??』
「いいや??ただ、俺がガキの頃、学校の教師をしていたっていう爺さんが近所に住んでいてさ。棺桶作りの手伝いの合間に、その爺さんに字の読み書きや計算とか、色々教えてもらっていたんだ」
『そうだったの』
イアンへの質問が済むとシーヴァは再び本を読み始めたが、睡魔に襲われ始めたようで、次第に大きな欠伸をやたらと繰り返すようになった。
「シーヴァ、眠たいんだろ??この本はしばらく借りているし、次に俺がここへ来た時にまた読めるから、今夜はもう寝るぞ」
イアンは本を閉じてカンテラの灯りを消すと、お互いが向かい合う形でベッドに横たわる。シーヴァは余程眠たかったのか、横になった途端すぐに深い眠りに落ちてしまった。
(やれやれ、こうやって寝ている分には可愛いんだけどなぁ……。口を開けば、すぐに憎まれ口ばかり叩きやがる)
スゥスゥと規則正しい寝息を立てるシーヴァを起こさないよう、彼女の顔に掛かる前髪を指先で払いのける。そして、柔らかい黒髪を優しく何度も撫でる。自分の前では安心しきって眠っているが、そうじゃない時はこんな風に眠れているのだろうか。彼女の寝顔を目にする度、いつもそんな不安に駆られる。
本当ならば毎晩シーヴァを買いたいと思っているが、正直な話、シーヴァは他の娼婦と比べると値が高いので、週三、四回でも少々無理をしているくらいだった。
もしも自分がもっと裕福であったのならーー、すぐにでも彼女を身請けしたい。実際、娼館のマダムに直談判したこともあったが、啓示された身請け金が自分の稼ぎでは到底及ばない程のとんでもない額だった。
こうなったら、何年かかってでも金を溜めるしかないとも考えたが、それまでにシーヴァの身に何か起こらないとは限らない。万が一、梅毒にでも掛かってしまったら最後、娼館にはもういられなくなるし、最悪、死に至ってしまう。
悩んだ末にイアンが出した答えは、毎晩は無理でも週の大半を自分がシーヴァを買うことで、彼女が安心して眠れる時間を少しでも与えてあげることだった。
ふいに、シーヴァがイアンのシャツの襟をキュッと掴んできた.
寝ぼけてんのか、こいつ。可愛らしい行動に思わず目を細めていると、シーヴァがゆっくりと目を開く。
「おっ、悪ぃ。起こしたか……」
次の瞬間、イアンの眠気が一気に吹き飛ぶことになった。
シーヴァが顔を近づけてきたかと思ったら、イアンの唇に自身の唇を重ねてきたのだ.
それはほんの一瞬で、触れるか触れないか程度の軽いものだったが、彼を驚かせるには充分だった。
「おい、シーヴァ。これは一体、何の真似だ??他の客はともかく、俺に対してこういうことは無理してしなくてもいいんだぞ??」
努めて冷静にイアンは諭したが、シーヴァは目をとろんとさせて(おそらく半分寝ぼけているのかもしれない)こう言った。
『おやすみなさいのキスだよ』
「は??」
『小さい頃に、死んだお父さんとよくしていたの』
「…………」
どうやら、ただの挨拶代わりーー、親子間のスキンシップの意味合いでキスをしてきただけのようで、イアンは拍子抜けする。
「まぁ、そういうことなら別に良いけど……って、すでに寝落ちかよ」
イアンのシャツを掴んだまま、さっきよりも幾分幸せそうな顔をしてシーヴァは再び眠っていたのだった。