ミランダという女
⑴
ある日の夕刻――、店が開く少し前の出来事だった。
ちょっとした野暮用で外へ出掛けていたミランダが二階の自室兼仕事部屋へ戻ってくると、何者かが部屋の中を勝手に物色している。背中をこちら側に向けてしゃがんでいるので誰かまでは特定できないが、どう見ても店の娼婦仲間のようだ。
女は部屋の隅に置いてあった、大きな黒いトランクの鍵を無理矢理こじ開けようとしているが上手くいかず、目に見えて焦っている。早くしないとミランダに見つかってしまうと思っているのだろう。(すでに見つかっているけれど)
「そのトランクはダイヤルロック式なの。暗証番号の数字をダイヤルで回さない限り、何をしたって無駄よ」
背後から突然ミランダに声を掛けられ、女は飛び上がらんばかりの勢いで全身をビクッとさせ、素早く後ろを振り返る。そこには、冷ややかな表情で女を見下ろしているミランダが立っていた。
「えっと……、今月、私、部屋代の支払いがヤバくてさ……。ほんのちょっとでいいんだ、ちゃんと来月返すしさ、ね??」
「何で、事後報告な訳??普通は、私に事前に話して許可を得なきゃならない話でしょ??」
「だって、あんた、部屋にいなかったし……」
「で、勝手に私の部屋から金を持ち出そうとした訳。それって、泥棒よね??」
「あんたが戻ってきたら言うつもりだったし!後で金も返すよ!!」
女は謝りもしないどころか、何処までも自分の行為を正当化しようと食い下がる。ミランダは余りにも情けなくなってきて、まともに相手をするのがだんだん馬鹿馬鹿しく思えてきた。そんなミランダの気持ちを知ってか知らずか、女は尚もまくし立てる。
「いいじゃないか、ちょっとくらい!どうせ、このトランクの中身は男爵様からの手切れ金なんだろ??四年も前に貰った金をいつまでも後生大事に取って置くことに何の意味があるのさ??墓場まで持っていくつもり??」
「えぇ、そうよ。悪い??」
はっきりと肯定するミランダに、女は信じられないと言わんばかりに眉間に皺を寄せて、口をあんぐりと開ける。
「何それ?!信じられない!!未練がましいにも程があるんじゃないの?!あんた、意外と重たい女だね。そんなんだから、男爵様に捨てられたんでしょ……」
女が言葉を言い終わらない内に、ミランダはベッド脇の丸テーブルに大量に置かれた酒瓶の中から、空瓶を一本掴み取ると女のすぐ横の、壁に向けて思い切り投げつけた。
壁に当たった瓶は派手な音を立てて真っ二つに割れ、その二つの破片は更に床に落ちた衝撃で粉々に砕け散った。
「それ以上男爵の話を持ち出したら、今度は貴女に向けて瓶を投げるわよ」
「……なっ!……」
ミランダは、琥珀色の大きな猫目を吊り上げて、女を睨み付ける。以前、イアンに向けたものとは比べ物にならない程の獰猛さに加え、とてつもない狂気を滲ませている。
「ちょっと!今の音は何なのよ!!……って、あんた達、一体何やってんだよ!!」
騒ぎを聞きつけた数名の娼婦達が、ミランダの部屋にこぞって押しかけてくる。
「聞いておくれよ!ミランダってば、酷いんだ!!ちょっと話があって部屋に入っただけなのに。ろくに話も聞いてくれずにいきなり酒瓶を投げつけてきたんだ!!」
「貴女、何を言って……」
「この女、アル中だろ??もしかして、すでに酒が入っていたのかもしれないけど、それにしたって……」
女はわざとらしく身震いする振りをして、これでもかと嘘を並べ立てる。
「さっきから黙って聞いていれば、嘘ばっかり……。元はと言えば、貴女が……!!」
「嘘つきなのはどっちだか」
「えっ……」
気付くと、その場にいる娼婦全員がミランダを白い目で見下しながら、彼女の一斉に取り囲んでいた。
「言っておくけど、この店であんたの味方する女は誰もいないよ」
「別に、クララの言っていることが本当か嘘かなんてどうでもいいのさ、あんたを痛い目に合わせることが出来ればいい」
「娼婦同士の諍いは、罰としてマダムに鞭で打たれる。今回の場合、傍から見たら完全にあんたに非があるから、あんた一人で罰を受けることになるわね」
娼婦達は厭らしい笑みを浮かべて目配せし合うと、全員でミランダを取り押さえる。
ミランダは必死で抵抗を試みるも多勢に無勢では到底敵うはずもなく、引きずられるようにして一階のマダムの部屋へと連れていかれてしまったのだった。
⑵
『僕はリカルド。君は?』
『ミランダかぁ……。綺麗な君にぴったりの名前だね』
違う。私はちっとも綺麗な女なんかじゃない――
綺麗だったのは、貴方の真っ直ぐな心だったわ――
『……違うよ。君は傷つきやすい綺麗な心を守ってるだけさ』
彼に会いたい。
でも、私にはもうそんな資格すらないの。
意識を取り戻したミランダが最初に目にしたものは、見慣れた薄灰色の天井壁、つまり、彼女は自室のベッドに寝かされていたのだった。
ミランダは目線のみを動かして、ベッドの周りを見渡す。
枕元にはカンテラと水を張った洗面器が置いてあり、ベッド脇に座るシーヴァが濡らした布でミランダの額に浮かぶ汗を拭おうとしていた。
「……シーヴァ??」
ミランダは掛布団を捲り上げて身を起こそうとしたが、皮膚が引き攣るような、激しい痛みが背中を襲ったため、顔を歪めて小さな声で呻く。そんな彼女を、シーヴァは無理をするなとでも言うように、両手でミランダの肩を軽く押さえながらそっとベッドに寝かし直す。
あの後――、娼婦仲間達に強制的にマダムの部屋へと連れていかれたあげく、「酔った勢いで、何の罪もないクララに暴力を振るった」と言う嘘をまんまと信じ込んだマダムにより、罰として二十回も鞭で打たれたのだった。
確かに、ミランダは稼ぎの大半をつぎ込むくらい酒に依存していたし、クララに酒瓶を投げつけたのは事実なので言い逃れの余地などない。しかし、元を質せば、クララがミランダの隠し財産を盗もうとしたことが原因なのに、元凶である当のクララは何のお咎めなしなのだ。
それだけ自分は周りから嫌われているのだろう。ミランダは自嘲気味に鼻を鳴らした。
「シーヴァ、私はもう大丈夫だから。貴女は自分の仕事をしに行きな」
シーヴァは首を横に振ると、ミランダの掌に文字を綴る
「今日の客はイアンさんなの??」
シーヴァはこっくりと頷き、再び文字を綴る。
「そう……。自分のことはいいから、私の介抱をしていろと、彼が言っていたのね……」
シーヴァは再び、頷く。
「だけど、いくらイアンさんが許可したからと言っても、彼は決して安くない金を払ってわざわざ貴女に会いに来ているのよ。それなのに長時間放っておくなんて、彼に対して余りに失礼だわ。私を気遣ってくれるのは嬉しい限りだけど、仕事は仕事。そこはちゃんとしなさい」
ミランダの厳しい言葉に、シーヴァは見るからにシュンと落ち込んでしまった。
「そんな顔しないで。貴女の事が憎くて言っている訳じゃないの。ただ、今、貴女が一番優先させるべきことを疎かにしちゃ駄目、ってことが言いたかっただけ。シーヴァは賢い子だから、分かってくれるわよね??」
シーヴァは、コクコクと小刻みに首を何度も揺らして頷く。先程までの落ち込んだ様子はすでに消えている。
「その顔つきからすると、分かってくれたみたいね。じゃあ、早くイアンさんの所へ戻りなさい」
大袈裟なまでに大きく頷くと、ベッドの上のミランダを気に掛けるように何度も何度も振り返りつつ、シーヴァはミランダの部屋から出て行ったのだった。
(続く)