涙
⑴
シーヴァは肉屋の前で、鶏肉か羊肉を買うかで頭を悩ませていた。
「いらっしゃい、シーヴァ。今日も可愛いねぇ」
肉屋の主人がニコニコとは言い難い、曖昧な笑顔を作りながら、シーヴァに話し掛ける。
ここの主人は女好き、しかも若い娘が大好きだとシーヴァは踏んでいる。その証拠に、若い娘以外の客には余り笑顔を見せたりしないのだ。何て分かり易いんだろう。
それに比べて、イアンは時々、何を考えているのか分からない時がある。
あの夜だってそうだ。
単純に、自分からキスをしたことで欲望に火が付いてしまっただけかもしれないが、それだけじゃない何かがあるような気もする。しかし、今まで、あんな頑ななまでに触れようとしなかったのに、一体何故――??
密かに気になりつつも、シーヴァはあえて聞かずにいた。正確に言うと、聞くのが怖かったし、何より、あの時の確かな幸福感を台無しにしたくなかったからだ。
イアンの指と唇が身体に触れる度、シーヴァの肌は熱を帯び、このまま溶けてなくなってしまうのではないかと思ったくらいだった。
もう死んでしまっても構わないーー、口に出せばイアンが怒るか悲しむかするだろうから言わなかったが、それ程までに彼に抱かれたことがシーヴァにとって、この上なく幸せだった。
彼女を抱いている間、痛くないか、辛くないか、少しでも嫌だと思ったらすぐに言うんだ、と、終始イアンは気に掛け続けてくれた。どこまで優しい人なのだろう。彼の気遣いは、更にシーヴァの胸を熱くしたものだった。
これは二人だけの一生の秘密だ。この思い出があれば、私はそれだけで充分生きていける。
「一度でも、惚れた男に抱かれたことのある女は幸せ者ね」
昔、ミランダが言っていた台詞の意味をシーヴァはようやく理解出来たのだったーー。
⑵
迷った末にシーヴァは鶏肉を買い、案の定、主人は例によって値段をまけてくれた。
(暑さで夏バテ気味のイアンとマリオンに体力つけてもらわなきゃ。今晩は、この肉で何作ろうかしら……)
今夜の夕食について思案しながら店を出たシーヴァは、店の入り口付近にいた三人の若者にぶつかりそうになる。シーヴァはすぐさま頭を下げて謝罪の意を示すと、若者達も気にしなくてもいい、と手を上げる。
絡まれずに済んだことに安堵して彼らに背を向けたシーヴァに対し、若者達がコソコソと何やら話し出す。
「はぁーー、やっぱりシーヴァは可愛いなぁ……。近くで見ると、ますますそれが分かるよ」
「口が利けなくても、シーヴァとなら付き合ってみたいよなぁ」
「お前、何言ってんだよ。お前なんかが相手される訳ないだろう??無理無理。やめとけよ。それに、あの棺桶屋の親父が溺愛していて、理由をつけては手放したがらないって話だぜ??」
「だから、あんな美人なのに浮いた噂一つ出てこないのか。あぁ、勿体ねぇ!あの親父も大概だな!!」
「なぁ、もしかしてさぁ、実はあの親父と出来てたりしてな。だって、血の繋がりがない、育ての親なんだろ??俺だったら、義理の娘があんないい女だったら、絶対に手出す自信がある」
「うわ、お前、最低だなぁ。そんな自信持つなよーー」
「でも、あながち嘘じゃないかもな。あのおっさんも人の好さそうな顔して、案外かなりの女好きそうだし」
人目も憚らず、大声で下世話な話題で盛り上がる若者達の会話は、少し離れた場所にいたシーヴァの耳にしっかり届いていた。
踵を返して彼らの元へ行き、思い切り反論したかった。
自分のことは何を言われても別に良い。聞き流せばいいだけの話だ。
だが、イアンの事を、例え冗談や憶測であってもそんな話題に出して欲しくない。
何も知らない癖に、イアンを貶めるようなことは言わないで。彼をつまらない言葉で汚さないでーー。
この時、シーヴァは自分が口を利けない事を心底呪った。
喋れなくても、イアンやマリオンとは意思の疎通が交わせる。でも、見ず知らずの赤の他人には言いたいことが一言も伝えられないなんて。
悔しい。悔しくて、余りにも不甲斐なさすぎる。
シーヴァは人目も憚らず、悔し涙をボロボロと零しながら帰路を辿ったのだった。