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生まれて初めての気持ち

 風呂から出てきて部屋に入ると、シーヴァはベッドの上で半身を起こして手紙を読んでいた。おそらく、手紙の主はミランダだろう。

「ミランダは元気にしているのか??」

『うん。でも、中々お酒を断ち切れなくて、大変みたい……』

「そうかぁ……」

『せっかく想い合っていた人と一緒になれたのにね……』

 シーヴァは手紙を丁寧に折りたたみ、封筒にしまうとカンテラの灯りを消し、その傍に手紙を置く。

『おやすみなさい』

 いつもならば、イアンの唇に軽くキスをした後はすぐに横になるはずなのに。

今日に限って、シーヴァはいつまで経ってもベッドに横たわろうとしない。

「おい、シーヴァ??寝ないのか??」

 見兼ねたイアンが様子を伺うように、シーヴァの顔を覗き込む。

「明日は医者に診てもらう日だろう??早く寝ろよ」

『行きたくない』

「は??何言ってるんだ」

『だって、行ったところでただ私の話を聞いているだけで、毒にも薬にもならない事を言うだけじゃない。お金の無駄よ』

シーヴァが声を失ってから、すでに七年が経過しようとしているにも関わらず、声が一向に元に戻る気配が見受けられない。そこでイアンは二年ほど前から、三か月に一度の割合でシーヴァをその筋の診療所へ通わせていた。

しかし、ただでさえ医者に診察してもらうのは金がいると言うのに、特殊な分野は更に高くつく。そのためイアンは、棺桶造りは元より、それ以外の仕事も積極的に増やしている。

自分のせいで、イアンやマリオンに少なからず負担を掛けていると言うのに、声が戻らないことに人知れずシーヴァは悩んでいた。

声を失くしたきっかけは、母が死んだ直後のことだ。

家賃を滞納していたことで、アパートの部屋から退去を命じていた家主もさすがに哀れに思ったのか、母の葬儀や様々な手続きを全て取り仕切ってくれたどころか、行き場を失くしてしまったシーヴァに「しばらくは家で暮らしなさい」とまで言ってくれたのだ。母がいなくなり、哀しみや不安を抱えていたシーヴァにとって、その言葉にどれだけ救われたことか。

ところが、家主の家で暮らし始めて二週間が過ぎた頃だった。

その日は、家主の妻子が外出していて二人きりだったところ、突然、彼がシーヴァに襲い掛かってきたのだ。

あの時の恐怖と痛みと絶望は、一生忘れることはないだろう。

醜い欲望を剥き出しにさせた男の恐ろしさ、信頼という感情を見事に嘲笑うかのような裏切りに散々打ちのめされた末、気付くと声が出なくなっていたのだった。

医師曰く、男性に対する恐怖心や嫌悪感を取り除けば、声が戻るかもしれないとの事。

そんな簡単にいくもんか、と心の中で吐き捨てるものの、もしかしたら、イアンへの想いが叶ったならーー。

 馬鹿馬鹿しい。お伽話でもあるまいに。

「……シーヴァ??」

 知らず知らずの内、物思いに耽っているとイアンが心配そうな顔を自分に向けている。

『何でもないよ。言われなくても、もう寝る』

 その時、ちょっとした好奇心がシーヴァの中で生まれた。

『もしかして、イアンの方から私にキスしてくれたら声が戻ったりしてね。ほら、お伽話なんかでよく、王子様がお姫様にキスすると目を覚ましたりするじゃない??』

「はぁ??お前、何を小さな子供みたいな、夢見がちな事を言ってんだよ。そんなので戻る訳ないだろ??馬鹿な事言っていないで、さっさと寝ろ」

 やはり、一笑に付されてしまっただけだった。だが、シーヴァも食い下がろうとしなかった。

『何よ、キスの一つや二つくらい、してくれたっていいじゃない。イアンの馬鹿、阿保』

「あのなぁ……」

『ケチ、ヘタレ、不能』

「こら、誰が不能だ……。若い娘がはしたない言葉を使うんじゃない」

『据え膳食わない、恥ずかしい男』

「……お前なぁ!」

 しまった。さすがに言葉が過ぎてしまった。いくらイアンが少々気弱な優しい男でも、これは怒られたとしても仕方ない。

 イアンの大きな掌がシーヴァの頬に振り下ろされた。叩かれるーー。

 思わずギュっと目を瞑り、身を竦ませたシーヴァだったが、予想に反して叩かれるどころか、壊れ物を触るような優しい手つきでイアンは彼女の頬に触れてきた。と思いきや、グッと無理矢理顔を上向かされた後、唇を吸われたのだった。

 シーヴァは信じ難いこの状況が把握しきれず、ハシバミ色の瞳を見開いたまま、石のように固まっている。きっと、メドューサの眼を見てしまった人間が石化する瞬間はこんな気持ちなのかもしれない。イアンはシーヴァの開きっ放しの瞳に気付くと、空いている方の手で彼女の瞼を軽く押さえて閉じさせた。

 唇を強く吸われ続けながら、今まで感じたことのないような、ゾクリとする快感がシーヴァの全身を走る。身を売っていた時にも何度となく客に唇を求められることもあったが、激しい嫌悪以外何も感じなかったと言うのに。

 鼓動がいつになく荒ぶり、呼吸が自然と早くなるせいで肩を上げて息をする。

 しかし、唇を吸われるだけでなく舌が入ってきたと気付いたと同時に、シーヴァはイアンの顔を反射的に拳で思い切り殴りつけてしまった。殴られたイアンは、大きな身体を折り曲げて痛みに悶絶している。

『ご、ごめんなさい……!!』

 すぐさまシーヴァはイアンの身体を起こし、殴った方の頬に手を添える。

『ごめんなさい、ごめんなさい……、わざとじゃないの……!!』

「いいや……、大丈夫だ……。むしろ、つい調子に乗ってやり過ぎた俺が悪い……」

 シーヴァの手をさり気なく離すと、イアンは痛てててて、と殴られた頬を押さえる。

「それよりも……、気分悪くないか??もし吐きたくなったら、俺に遠慮なんかせずに便所で吐いてきていいからな」

 シーヴァは大袈裟なくらい、ブンブンと首を横に振る。

「それなら、良いが……」

『……気分が悪くなるどころか、すごく……、幸せな気持ちになれた……。ルータスフラワーに居た頃に散々されてきたのに、こんな気持ちは生まれて初めてだよ……』

「…………」

『そんなことより、それ冷やさなきゃ。洗面器に水を張ってくる』

 ベッドから抜けようとしたシーヴァの細い手首を、イアンがそっと掴む。

『何??早くしないと、しばらくの間、腫れたままになっちゃう……よ……』

 気付くとイアンは、シーヴァの線の細い身体をギュっと抱きしめていたのだった。

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