決意
⑴
「ちょいと、アンタ!!一度ならずとも二度もうちの娘に傷つけるなんて!!ふざけるんじゃないよ!!今すぐ出て行っておくれ!!」
その日、イアンがルータスフラワーの店先まで来た途端、マダムのヒステリックな金切り声が玄関の外まで響いてきた。直後、チンピラと見紛うような柄の悪い強面の用心棒が、肥え太った中年男を羽交い絞めにしながら店の入り口に姿を現した。中年男は用心棒に殴られたのか、顔中痣だらけで真っ赤に膨れ上がっている。
イアンはその二人とぶつからないよう、後ずさりながら入り口の端に寄る。
「てめぇはもう、うちの店には来るんじゃねぇぞっ!!」
用心棒は、中年男を地面に叩きつけるようにして放り出す。男は顔から地面に落ち、派手に転倒する。その際、顔面を強打したようで、顔を上げた時に両方の鼻の穴から鼻血を垂れ流していた。そのことに気付いた男は、聞くも無様な大声で叫んだ。
「ぎゃあぁぁぁ!!血、血がぁぁぁ!!」
「喧しいっ!!」
用心棒に一喝された中年男はすっかり怯えてしまい、涙と鼻血と鼻水で顔中を汚しに汚した状態で、その醜い駄肉を揺らしながら一目散に逃げ返って行った。
「な、何だぁーー?!」
イアンは訳も分からず、ただ目を白黒させて一部始終を見ていたが、そんな彼の近くにいた、この店の娼婦らしき女が教えてくれた。
「あの人、ちょっと人と違った性的趣向があってね。この間、店の娘を教鞭で叩いて、怪我させたのよ。その時にもマダムに散々怒られて、もう一回やったら出入り禁止にする、って言われてたのに。今日も違う娘にまた乱暴なことをしたみたいでさ、マダムが用心棒使って実力行使に出たのよ」
「へぇ、意外だな。あのマダムが、客よりも娼婦の身の安全を優先させるなんて」
「まぁ、傷つけられた娘が余り人気のない娘なら、見て見ぬ振りするだろうけど。寄りによって、うちの稼ぎ頭のミランダとシーヴァだったからねぇ」
「何だって?!」
次の瞬間、イアンは我を忘れて、今し方話をしていた娼婦やマダムが何か言ってくるのを無視して店の二階に一気に駆け上がり、シーヴァの部屋の前に向かった。
「ちょいと、イアンさん!!」
マダムがぜぇぜぇと息を切らして、イアンの後を追って二階に上がってきた。
「指名もしないで、勝手に店に入られちゃ困るんだよ!!」
「そんなもん、言わなくったって分かるだろうが!!」
普段は物静かで穏やかなイアンが珍しく言葉を荒げたため、さすがのマダムも怯み、「わ、分かったよ。シーヴァだね??今夜も一晩買うんだろ??」と、媚びを含んだ口調で尋ね、イアンは「あぁ」と短く答える。
「だったら、これをシーヴァに塗ってあげて」
聞き覚えのある、酒焼けで枯れた声――、いつの間にか、ミランダが部屋から姿を現していた。飴色に光る、小さな薬瓶を手にして。
ミランダは、イアンの大きな手に押し込むように薬瓶を手渡す。おそらく、自分用に使っていた傷薬か何かだろう。
「じゃあ、後はよろしく」
そう言うと、ミランダは自室に戻っていった。
「マダム……。あいつは……、シーヴァは一体、何をされたんだ……」
「自分の目で確かめなよ」
そう言うと、マダムは階段を下りて行き、イアンはあの時の感覚――、死んでいる娘の姿を目にする直前に感じた、心臓がギュっと鷲掴みされているような痛みを胸の奥に感じながら、シーヴァの部屋の扉を開けた。
⑵
カンテラの薄明かりの中、シーヴァはシーツを頭からすっぽり被り、イアンに背を向けた状態でベッドの上に座っていた。命に関わるような取り返しのつかない事態ではなかったことに、イアンはひとまず安堵する。
しかし、シーヴァが纏っているシーツに点々と付いているシミが血痕だと気付くと、彼の胸が息苦しいまでに締め付けられた。
「……シーヴァ……」
イアンの声で、シーヴァはようやく振り向く。殴られでもしたのか、左側の頬がひどく腫れている。
『イアン……??』
ショックの余り、すっかり血の気の引いた顔をしながら、ふらふらとシーヴァの傍まで近寄ってきたイアンに向けて、シーヴァは無邪気な顔で明るく微笑んだ。
『今日も来てくれたんだぁ……』
シーヴァの笑顔を見た途端、気付くとイアンは彼女の小さな身体を抱きしめながら、「シーヴァ……、ごめん、ごめんなぁ……。助けてやれなくて……、守ってやれなくて……、本当にごめん……!すまなかった……」と、ひたすら謝り倒した。
『何でイアンが謝るの??』
今にも泣き出しそうな顔で謝り続けるイアンにシーヴァはただただ困惑していたが、傷が痛んだのか、おもむろに表情を歪める。それを見たイアンはようやく我に返る。
「すまん……、傷に障ったか……」
シーヴァは、ブルブルと首を横に振る。
「あぁ、そうだ。この薬を縫ってやってくれ、とミランダから渡された」
『ミランダが??』
「だから……、そのシーツを取っていいか??」
すると、シーヴァは纏っているシーツの端を両手でギュっと掴み、身構える。
いくら身を売っているとはいえ、父親みたいな存在のイアンに肌を見せることは抵抗があるのだろう。特に、シーヴァは思春期に差し掛かる年頃なので尚更だ。
「シーヴァ。俺に裸を見られるのが恥ずかしいっていう気持ちは良く分かる。だけど、背中とかは自分じゃ上手く薬を塗れないだろ??」
イアンに諭されるも、シーヴァは恥ずかしがって身をよじるばかりだ。
「シーヴァ……。神に誓って言うが、変な気は絶対起こさないから」
シーヴァは上目遣いでチラチラと、イアンの薄いブルーの瞳に視線を送っていたが、やがて決心したのか、おずおずとしながら纏っていたシーツを身体から取り外した。
シーヴァの白い肌には、丸い痣のような火傷痕が幾つも残っていた。浮き出た鎖骨の辺り、膨らみ掛けの小さな乳房、無駄な肉のない腹……等々。更に、手首と足首には縄で縛られた痕も残っていた。
イアンは見るに耐えかね、思わず瞼に手を当てて目を覆う。
おそらく、煙草の火を押し付けられたに違いない。
「シーヴァ、辛かったな……。痛かったな……」
イアンは鼻をすすりながら、薬瓶の蓋を開けて薬を指で掬い取り、シーヴァの火傷痕に塗り込んでいく。
触れられると傷が痛むため、薬を塗りこまれる度にシーヴァは眉根を寄せて表情を歪めるものの、じっと我慢していた。
身体の前部分を塗り終わり、「シーヴァ、背中を向けてくれ」とイアンに言われたシーヴァが背中を向ける。
「…………」
鞭で叩かれたらしき痕を見たイアンは言葉を失うと共に、激しい怒りとやるせなさに襲われ、薬を塗っている間、「畜生……、畜生めが……」と、吐き捨てるように呟き続けた。
それは、シーヴァをこんな目に遭わせたあの中年男に向ける以上に、彼女を守れなかった自分自身に向けて発した言葉だった。
⑶
翌早朝、後ろ髪を引かれる思いを感じながら、眠っているシーヴァを起こさないようにそっとベッドから抜け出した……、つもりだったが、抜け出した瞬間、シーヴァに手首を強く掴まれた。
「悪い……、起こしたな……」
シーヴァは首を横に振ると、イアンの顔をじっと見つめていた。だが、細い眉尻がどんどん下がってきたかと思うと、突然声にならない声を上げて、激しく泣き出したのだった。
『イアン、帰っちゃ嫌だ。ずっとここにいて。私を置いて行かないで……』
イアンは、シーヴァが初めて見せた泣き顔に動揺し、狼狽える。
シーヴァは生意気で口が悪いものの賢くて芯の強い娘だから、どんなに辛い目に遭ってもひたすら耐え続けていたのだろう。だが、いくら強いと言っても、彼女はまだ十歳の少女だ。限度と言うものがある。
イアンは泣きじゃくるシーヴァを思わず抱き寄せると、なるべく傷のある箇所には触れないよう、大きな掌で背中を撫でさすった。
(何が、大事な人間を守りたい、だ!結局、俺はいつも肝心な時に限って何にも出来ないじゃないか……!!)
イアンは、不甲斐ない自分に対する苛立ちや嫌悪感に苛まれ、唇を噛みしめる。思いの外、噛む力が強かったせいで唇が切れ、口の中に鉄臭い血の味が拡がる。
シーヴァが泣き止むのをイアンはひたすら待ち続けた。やがて、シーヴァも落ち着きを取り戻していき、泣き過ぎでしゃくり上げながらも気が済んだのか、自分から彼の腕の中から身体を離した。
『イアン、ありがとう。我が儘言ってごめんね』
シーヴァは再びベッドに潜り込み、彼女が完全に寝付くのを待ってからイアンはようやく部屋から出て行ったのだった。
⑷
家に戻ったイアンは、仕事もそっちのけで家中をひっくり返して金目になりそうなものを片っ端から探した。が、清貧の職人の家財道具など大した代物は持っていない。せいぜい、着る機会が滅多にない、仕立ての良い礼服や、結婚祝いで貰った金の懐中時計、生まれた時に両親から贈られた銀の匙くらいだ。
(これじゃ、全然、話にならない!)
イアンは頭をガリガリ引っ掻いて悩みに悩んだ末、自室にあるクローゼットの奥にしまい込んだ、妻や娘の衣類や銀の匙、娘が大切にしていた陶器人形、結婚前に彼が妻に贈った髪飾りや結婚指輪等、云わば、形見として残しておいたものを全て引っ張り出した。
(キティ、ジニー、すまない。俺は最低の男だ。お前達が残したものを、これから質屋に全部売りに行くのだから……)
この際、二人に恨まれても構わないーー。
それ以上に、イアンはシーヴァを救い出したい気持ちの方が遥かに強くなっていた。