不穏な動き
⑴
「おや、また来たのかい。いらっしゃい」
夕方、ルータスフラワーにイアンが訪れた。
「聞くまでもないとは思うけど、一応聞いておこう。今日は誰を指名するんだい??」
やる気がなさそうな口調と態度で、マダムはイアンに尋ねる。
「あらーー、イアンってば、久しぶりーー」
イアンが『シーヴァ』と答える寸前、客引きに出向こうと玄関までやってきたフェイが嬉しそうに声を掛けてきた。
「おぉ、フェイか。久しぶりだなぁ」
「相変わらず、冴えない感じの割に元気そうねぇ」
「まぁな」
「ちょいと、フェイ。油売ってないで、さっさと客引きに行きな」
マダムが厳しい口調でフェイを叱りつける。
「えぇーー、マダムってば、ちょっとくらいいいじゃないのーー。あ、何なら、たまには私を買ってくれてもいいのよ、イアン」
フェイはイアンの腕に自分の腕を絡ませ、自慢の大きな胸を彼の身体に押し付ける。
イアンは一瞬迷うような素振りを見せたが、すぐにフェイの身体をさりげなく引き離した。
「せっかくだが……、ここに来るのは三日ぶりでその間にシーヴァがどうしているのか気になっててな……。だから、お前を買うことは出来ない」
申し訳なさそうな顔をしつつも、イアンはきっぱりとフェイの誘いを断った。
「イアンさん、今日もシーヴァをご指名だね」
マダムは、やっぱり、といった顔をして、イアンにシーヴァの部屋へ行くよう促す。
「フェイ、ごめんなぁ」
「まぁ、そう言うとは思っていたわ。だから、気にしないで!」
フェイはいつものように明るい笑顔を見せると、「じゃっ、客引きに行ってきまーす」と軽い口調でマダムに告げて、街へと繰り出したのだった。
⑵
部屋の真ん中に作られた簡素で敷居の低い闘技場、その中を小肥りの体格をした細い吊り目の白い犬が鼠の群れに襲い掛かる。
犬は、群れの中から一匹咥え上げるとその喉笛を噛み切る。鼠は断末魔の悲鳴を上げて小さな身体を数秒痙攣させたのち、ピクリと動かなくなった。
「いいぞーー!!もっとやれ!!殺せ、殺せ!!」
観客達は一斉に犬をけしかける歓声を送る。
フェイは鼠殺しが好きだった。
賭けの勝ち負けは二の次で、犬が鼠を次々と噛み殺していく様子を見物していると、自分の中のどす黒い感情がスゥーッと楽になる気がするからだ。
「あぁ、クソッ!あのワン公、もっとたくさん殺さねぇかな。賭けに負けちまう!!」
隣にいた男の悪態により、フェイは一気に現実に引き戻された、
(この男……、何処かで見たような……、って!)
フェイは思わず、声を上げそうになった。
この肥え太った男は、昨夜ミランダをいたぶっていた変態男だ。
「ねぇ、お兄さん。あんた、昨日の夜、うちの店に来てたでしょ??」
「あぁ??お前、あそこの娼婦か??」
男はいきなりフェイに話しかけられて、やや戸惑っていたが、人見知りしない質なのか、すぐにペラペラと喋り出した。
「あの金髪女には随分楽しませてもらったぜ。中々いないんだよなぁ、ああいう童顔で幼い雰囲気の娼婦って。まぁ、本当はベビーブライドがいいんだけどよ」
どうやらこの男、幼女趣味の気もあるらしい。
「うちにもいるわよ、ベビーブライド」
「だけど、ベビーブライドはちょっと痛めつけるだけで、すぐ喧しく泣き喚くしなぁ」
「大丈夫」
フェイは、いつもの笑顔とは違う、ニヤッとした妖しい笑みを浮かべる。
「うちのベビーブライドはオシだから。何をしたって静かよ」
⑶
『ねぇ、イアン』
「んーー、どうした??」
この間と同じく、共にベッドに寝そべって二人で本を読んでいたら、シーヴァが神妙な顔をしてイアンに尋ねてきた。
『何で、この本に出てきた娼婦は仲間に殺されなきゃいけなかったの??悪いことをしているのは、こいつらなのに』
「うーーん、それは主人公を逃がしてあげたことが、こいつらにとっては裏切りだと思ったからじゃないか??」
『そんなの納得いかないよ。ナンシーは優しくて良い人だったのに……、可哀想だよ……』
(この本はちょっと失敗だったな……。よりによって、娼婦が仲間に撲殺されるんだから……)
これのどこが子供向けなんだ。イアンは、この本を薦めてきた貸本屋をほんの少しだけ恨む。
「じゃあ、もうこの本を読むのはやめるかぁ。代わりに、今度は違う本を借りてくるよ」
するとシーヴァは、首を横に振る。
『いいの、私、最後まで読みたい』
シーヴァはイアンから本を奪い取ると、再び集中して読み出した。
イアンが思っている以上に、シーヴァは芯の強い娘なのでは、と、しばしば感じることがある。ひょっとすると、シーヴァを守っているつもりで、イアンの方が彼女に支えられているのかもしれない。
何にせよ、イアンにとってシーヴァは最早なくてはならない程、かけがえのない存在になっていた。だからこそ、彼女に今以上に辛い思いをさせたくないし、彼女の笑顔だけは何としても守りたかった。
それだけが、今のイアンの唯一の生きる希望だった。