12
放課後の教室。日が長くなり、初夏の夕暮れが訪れたのは遅かった。教室には夕焼けの日が差し込み、照明のついていない教室内に濃い影を落としていた。
そんな教室にひとりぽつんとたたずむ影があった。凛は珍しく悲しげな表情で俯いて座っていた。そんな教室に偶然担任の神崎が訪れた。
「どうしました斉さん?」
「いえ……何でも……」
何でもないとはとてもいえない様子の凛に、神崎は困った様な表情で離れた席に座った。凛は思い詰めた表情のまましばらく無言だったが、ふと漏らしたように口を開いた。
「先生。この学校には教会ってないんですか?」
「ありませんね。この学校では宗教上の対立を避けるために、あらゆる宗教施設を排除していますから。斉さんはクリスチャンでしたか?」
「いいえ。ただ便利だと思ったんですの。教会の懺悔室に行けば、何も言わずに話を聞いてくださる神父様がいらっしゃるから」
神崎はあえて凛の方を見ないようにして声をかけた。
「この学校に神父はいませんが、聖職者はいますよ。教師という名のね。話を聞くだけなら私がします」
「先生……。あの、神崎先生は担任だから、私の経歴とか知っていますよね?」
「書類上の事は。しかし今は斉さんが自らの言葉で表現する事が、大切なのではないでしょうか?」
神崎の柔らかな言葉に促されるように、凛はゆっくりと自らの過去を語り始めた。それはまさに神に懺悔するかのような声だった。
私が生まれたのはヨーロッパの真ん中の、国境付近にある深い山の中。本当に小さな小さな村。村中が親戚だったから名字もなく、どこの国の所属かもわからないような、隔絶され閉じられた村だった。
私はそこでリーンと呼ばれていた。本名はもっと長かったと思うけれど覚えていない。覚えているのは愛称の「リーン」という名と、あの日の事だけ。
小さく貧しいけれど、平和だったあの村が一日にして滅びた、恐怖のあの日の事は今でもはっきりと覚えている。
あの日天使が舞い降りた。村人は次第に気力を失い、次々に天使に攫われていった。
私は怖くて怖くて、必至に村の外に向かって逃げ出した。その時すでに私は撃退士の力に目覚めていたのでしょう。それが幸運だったのか、不運だったのか、今でもわかりません。
ただその力を使って私はただ一人、結界を抜け出し逃げる事ができた。
それからは生きる事だけがすべてだった。死んでしまえば楽だったかもしれないけれど、私はただ生きたかった。理由も目的もなく、ただ生きたかった。もしかしたら死んでしまった村のみんなの分も私は生きて幸せになりたかったのかもしれない。
でも身よりもなく、なんの力もない子供に世間は厳しかった。地方の街では赤い目を気味悪がられ、石を投げられたり、蹴られたり。華やかな都にでもでれば何か変わるんじゃないか、そう思ってこっそり汽車に潜り込み、乗り継いでパリまでやってきた。
華やかな都は、華やかさの裏に深い影を落としていた。私と同じく身よりも住むところもない孤児が溢れ、彼らは物乞いをしながら路上で生活をしていた。私も同じように物乞いをした。
人の哀れの誘い方、媚びる笑顔、それらで表面を作ろう技術を身につけ、したたかに図太く生きていた。
そうやってしばらく過ごしていた頃の事。孤児ばかりを狙う人さらいが流行し、私も掴まって外国に売り飛ばされそうになった。なんとか途中で逃げ出せたものの、気づけば遠く離れたイタリアのローマにいた。
言葉も通じず途方にくれていた時、親切な老人アントニオさんと知り合った。彼は小さなレストランを営んでいたので、そこで住み込みの下働きの仕事をさせてもらえる事になったのです。
その店はアントニオさんと息子夫婦だけの家族的な温かいお店で、私は家族のぬくもりという物を知った。言葉を覚える事から初め、一生懸命料理を勉強しました。特に甘い物が好きだったので、デザート作りには力を入れ、たまにお店で出させてもらえるくらいの腕前になったのでした。
ところがある時、息子さん夫婦がバカンスの旅行先で不慮の事故にあって亡くなってしまって、アントニオさんはひどく落ち込んでしまいました。店を閉めて引退すると言われてしまい、私はいきなりに失業する事になってしまいました。
ただアントニオさんは私の事を心配して、代わりの仕事を紹介してくれました。そしてアントニオさんのイギリスに住む親戚の紹介で、レッドフォード男爵家のメイドとして雇ってもらえる事になったのです。
私は従順で人に媚びる事が上手だったから、大人には可愛がられた。レストラン時代に身につけた菓子作りの腕を買われて旦那様のお気に入りにもなった。
私は充分幸せで、ずっとそのお屋敷で働いていたいと思っていたのに、旦那様はこう仰ったんです。
「リーン。君はメイドとしては一流だが、人として欠けている物がある。欠けた物を見つけるために学校に通った方がよい」
私は撃退士の能力を持っていましたから、久遠ヶ原学園なら無料で学べる事。親日家の旦那様からたびたび聞かされていた日本に憧れていた事から、この学園に来る事になりました。
旦那様は学校に入るにあたって、戸籍も名字もない私に、日本国籍を取れるように取りはからって下さいました。「斉凛」というのも旦那様のつけて下さった名前なんです。
本当に旦那様にはどれだけ感謝しても仕切れないほど、ご恩があります。でも私は怖いのです。
突然天使が私の日常を壊したように、いきなり人さらいにあったように、アントニオさんの息子さん達が急に事故にあったように、旦那様の好意がいつ途切れるかもわかりません。
いつこの平穏な日常が終わるかわかりません。わたくしの人生はいつも波瀾万丈でしたから。この先の未来さえも信じられないのです。
旦那様が生活費を援助して下さったのに、それだけでは不安でしかたがなかった。だから私は誰にも秘密で仕事をしていました。
それがいけなかったのでしょうか? それとも旦那様の言う通り私に欠けている物があるからいけないのでしょうか?
私は友人を失いました。恋愛も友情も知らなかった私が、初めてであった「友達」。でも私は友達にどう接するのが一番なのかわからないのです。私なりに最善を尽くしたつもりなのですが、私はどこかで何かを間違えてしまったようです。
長い話を語り終える頃には、凛は大粒の涙をこぼして泣いていた。いつの間にか隣にいた神崎の胸にすがりついて泣くほどに。
それでも神崎は教師らしい事は何も言わなかった。彼女は何の言葉も求めていない。ただ聞いてくれるだけの存在を欲していたからだ。
不器用な凛は人に甘える事さえも、上手くできなかったのだ。だから神崎は黙って凛が泣き止むまでそばにいた。