virtual insanity(01)
東京にある東日本医科大学附属病院と京都にある西日本医科大学附属病院は国内有数の大規模医療施設である。そもそも医師不足や少子高齢化などの諸問題に対応するため、医療の充実と医療技術の発展という目的で東日本医科大学と西日本医科大学、そしてそれらの二つの附属病院が国によって創設されたのだ。そこには国家予算が年々惜しみもなく投入され、医療の充実と技術革新のために研究や人材育成が日々行われている。
その東日本医科大学附属病院第五棟、通称小児棟の裏口前に、季節柄か既に空の彼方が白み始めた頃、私が運転する車は停止した。
通常は救急車専用のロータリーである。そこに黒塗りのバンが停車している光景はいよいよ怪しいが、時刻は午前四時過ぎ、最低限の注意を払えばそれで事足りる。
私はバックミラーで周囲を確認しながら、
「ヨハン、後ろに回ってください」
「はい」
ヨハンが身軽に助手席から降りる。
私は車のキーを回してエンジンを止め、トランクのロック除した。車から降りると、猛烈な湿度が体を襲う。気温こそまだ十度そこそこだが、まるで密室のように不愉快な湿度が充満している。
私は鼻の頭に皺を寄せつつも、車の後ろに回った。トランクを開け、ヨハンの手を借り、折り畳み式のストレッチャを降ろした。
その上には、これまた黒塗りの長方形の箱が乗っている。まるで柩のようなそれの中では、ヴゥゥゥゥゥ、と低い電子音が鳴り響いている。
段差で激しく振動しないようにゆっくりとストレッチャを操作し、ヨハンと二人でドア前まで運んでいく。自動ドアは停止しており、その前で立ち止まる。
「冴野木先生、遅いですね。まったく、貴重な時間を……」
ストレッチャの前を支えていたヨハンは私の隣に並んだ。
「仕方ありません、何かと忙しい人ですから」
私はヨハンの肩に手を置いた。
彼は一度だけ私を見上げ、開かないドアを見詰めた。
その硝子には、二つの人物が映っている。
右側に立つ男、私。穏やかな表情をしているが、その眉間に深い皺が刻まれている。いつもヨハンに切ってもらっている短い髪は、そろそろ切り頃か、目に掛かりそうだ。白衣を着ているものの、その下は縒れた白い開襟シャツと黒のスラックス。医師でもない研究員としては相応の身なりだ。自分の事ながら、冴えない男だ。
そのしがない研究員の隣に立つ子供、ヨハン。帽子を目深に被り、金髪碧眼を隠す西洋人だ。知らない人が見れば男の子か女の子か判断に困るほどに整った顔立ちをしている。もしくは、精巧な西洋人形にも間違えかねない。白の開襟シャツとベージュ色のジーンズと、言うまでもなく子供服だが、私よりも様になっている。
そのまましばらく待っていると、ドアの向こう側に小走り駆け寄ってくる冴野木先生の姿が見えた。
彼女、冴野木慶子さんは四十代半ばの女性医師だ。女性にしては珍しく長身で、いつも長い髪を後ろで束ねている。第一小児外科部長を務めるほどの腕と知識の持ち主で、その名は国内のみならず海外にも知れ渡っている。また、慈悲深く人徳があるということでも有名だ。
彼女は両手で謝る仕草を見せると、しゃがんでドアの鍵を開けた。そして自動ドアを手動で開ける。
「おはようございます。少し早く着いてしまいました」
私は冴野木先生を笑顔で迎えた。無論、到着したのは予定通りの時間である。
彼女は息を切らしながら、
「おはようございます、蔵軒さん、ヨハン君。遅れてしまってごめんなさい。康義君の麻酔にてこずってしまって」
「時間は揺波さんがあらかじめ言っていた筈です。揺波さんが一睡もせずに来たっていうのに、貴女は……」
「やめなさい、ヨハン」
私は冴野木先生に食ってかかるヨハンの肩を押さえ、頭に手を乗せる。
「子供の全身麻酔が難しいことは知っているでしょう?」
「……はい。ごめんなさい、先生」
帽子のつばを掴み、素直に頭を下げるヨハン。
いつもの光景に、私と冴野木先生は苦笑した。
ヨハンはよほど私を慕ってくれているのか、私の事となると些細なことでも感情を露にする。しかし自分が間違っていると分かれば、すぐに反省する素直さも持ち合わせている。わずか十二歳にして私の助手を務めるほど普段は大人びているが、そういった子供らしい一面もあるのだ。
「では、どうぞ」
冴野木先生が手招きし、私とヨハンは箱が乗ったストレッチャを押しながら続いた。
病院内の廊下は薄暗く、最低限の明かりしか灯っていない。ましてや他の物音など皆無で、ストレッチャのキャスタが転がる音が反響する。
小児外科と書かれたプレートが貼られた突き当りを曲がると、局所的に明るい場所が見える。看護師が常駐しているナースステーションだ。
するとキャスタの音を聞きつけたのか、二人の看護師が顔を覗かせた。もう見慣れた看護師だ。確か、小柄な彼女が新川さん、痩身の彼が春原さんだったか。彼らは冴野木先生の言動に絶対的な信頼を寄せている。
この巨大病院にもやはり、他の病院と同じように権力争いが繰り広げられている。むしろ、小児科の中だけでも小児内科や小児外科など複数の分野があり、更にそれぞれに第一から多くて第四と、複数の部署が設けられている。そんな環境下で、自身の第一小児外科のみならず看護師にまで信頼を得ることが出来るのは、やはり冴野木先生の人柄の影響だろう。
しかし看護師の顔を見るなり、反射的にヨハンが顔を顰める。
「あらあらヨハン君、いらっしゃい」
そう言うなり看護師の新川さんはパタパタとサンダルを鳴らしながら我々に駆け寄り、徐にヨハンを抱き締めた。
「う、ぅわっ……」
ヨハンが必死に抵抗するが、腕力はあくまで子供、看護師の白い制服に埋もれる。その拍子に、ぱさっ、と帽子が落ち、さらさらな金髪が露になる。
新川さんはその髪を撫で回し、挙句の果てには頬擦りまで擦る始末。
「ああ、可愛い。連れて帰りたいわ」
「や、やだっ……」
ヨハンの抵抗も虚しく、アクティブな女性が小動物を愛でているようにしか見えない。そして、これもいつも通りの光景だ。
春原さんは一度だけ溜め息を吐き、
「ご苦労様です、蔵軒さん」
そう丁寧に一礼すると、冴野木先生に向き直る。
「他の看護師には適当に仕事を割り振っておきました。ですが、当直の古暮先生には気をつけてください。あの人には酒匂先生の息が掛かっていますから、冴野木先生の動向にやたらと目を光らせています。笛吹が当直室で古暮先生を足止めしていますが、ストレッチャは出来るだけ静かに動かした方がいいです」
「分かった、ありがとう」
冴野木先生は袖を捲くり、腕時計を見る。
「施術は三十分もかからない。何かあったら直ぐに連絡をくれ」
「はい。ほら、持ち場に戻るぞ、新川」
春原さんは頷き、呆れ顔で新川さんにそう言った。
「はぁい」
嫌々ながら新川さんはヨハンを離し、落ちた帽子を拾うと手を伸ばした。
しかしヨハンが素早く帽子を広い、素早く被ると、彼女を鋭く睨んだ。そして身を翻し、私の背中に隠れた。本当に嫌だったのだろう、微かに涙目になっている。
「泣きそうな顔も可愛い」
新川さんが両手を合わせ、目を輝かせた。ここまで自分の感情をそのまま行動に移せるとは珍しい人だ。迷惑なことには違いないが。
「は、早く行きましょう、揺波さん」
ヨハンが私の白衣を掴む。
私は彼の頭を撫でた。
「そうね。それじゃ、春原に新川、宜しく頼む」
冴野木先生がもう一度時計を確認し、歩き出した。
私がストレッチャを後ろから押し、ヨハンが横から支える。
巨大病院ということもあり、廊下が幾つにも枝分かれしている。案内のプレートが壁や天井にあるものの、冴野木先生に誘導してもらわなければ迷ってしまいそうだ。何度も来ている場所なのだが、それは変わらない。
大きな油絵がかかる壁を右に曲がると、冴野木先生が囁くように言った。
「ごめんね、ヨハン君。何度も注意しているんだけど」
「僕、あの人嫌いです」
ヨハンは拗ねたように唇を尖らせた。
それを見かねた冴野木先生は温厚な笑みで、
「ヨハン君は綺麗だから」
「嬉しくないです」
しかしヨハンは余計に拗ねてしまった。物心がついた頃から女の子と間違えられてきたため、それが本人のコンプレックスになっているようだ。人の悩みというものは、所詮はその人にしか解らないのだ。
私はストレッチャ上の箱に手を添え、
「いい事じゃないですか。私は羨ましいと思いますよ」
「そんなことっ……、僕は揺波さんのようになりたいです」
ヨハンが帽子のつばを押さえながら、私を見上げた。
「それだけはやめた方がいいですよ」
私は苦笑した。嬉しい言葉だが、私のような大人にはなって欲しくいない。だから、今の内からヨハンの将来について真剣に考えなければならない。間違っても、私のような人間にはならないように。しかし私の過ちのせいで、生まれながらにして彼に大きなハンデを背負わせてしまった。彼の成長を見守り、支えることも私の仕事だ。
「ど、どうして……んぐっ」
喋ろうとするヨハンの口を、私は手を伸ばして塞いだ。
「ここからは静かに行きましょう」
「はい、すみません」
ヨハンも私の意を汲み取り、真剣な顔つきで廊下の奥の闇を見据える。
当直室を避けるルートを通ったため、手術室までには三分ほどかかった。
そして辿り着いた小児棟第五手術室。予備としての設備であり、この時間は元より、普段もあまり稼動しない手術室だ。そして各小児外科部長の許可がなければ使用できない設備である。部外者の私に詳しいことは分からないが、本当に緊急時のための予備の設備らしく、観覧席がなく、記録も最低限のものしか残らないそうだ。つまり、事後処理も楽ということだ。
執刀など本格的な手術ではないが消毒をし、手術室に入った。
「おはようございます、蔵軒さん」
中には麻酔医の日比野先生の姿があった。挨拶も早々に、書類を手にモニターで患者の容態を確認しながら機器を操作する。いかにも真面目そうな男性医師で、物腰も柔らかい人だ。手術服を着ているが、マスクや手袋はしていない。
「おはようございます」
その隣で薬品や手術道具の整理をしている女性看護師、戸松さんが会釈する。こちらもやはり、マスクや手袋はしていない。
そして、言うまでもなくこの二人も冴野木先生の腹心である。特に日比野先生は冴野木先生と同期であり、彼女のご主人である東日本医科大学第四医学部教授の冴野木唐哉氏とも面識があるそうだ。
彼らのように、この病院内に何人もの協力者や賛同者がいるお陰で、私たちが堂々とこういった行為を行えるのだ。
「ご協力、感謝します」
私は目を閉じて会釈をし、手術台の脇にストレッチャを並べた。
その隣の手術台には一人の少年が寝かせられている。白い患者服を纏い、まるで死人のように蒼白な表情をしている。十一、二歳、ちょうどヨハンと同じ年頃の子供だ。全身に麻酔が効いているため、人工心肺装置でバイタルを安定さている。
「状態は?」
私はストレッチャの上で沈黙する箱の蓋に手をかけ、日比野先生に尋ねた。手術台で眠る患者、金刺康義君のことだ。
彼は機器の数値を睨み、
「通常のバイタルは安定しています」
「では、脳波の計測に移りましょう」
私は慎重に箱の蓋を開けた。
箱の中には手術台の上で眠る少年と瓜二つ、否、寸分違わぬ少年が寝かせられていた。俗に言う、全身インプラントである。こちらは一糸纏わぬ姿だが、鼻や口に管が取り付けられ、人工心肺装置でバイタルを維持している。
言ってみれば、この漆黒の箱そのものが生命維持装置であり、内側の至る箇所に様々な装置が取り付けられている。頭部の側には特殊な電波を発する装置、肩の右側にはバイタルを示す小型のモニター、腕の両側には鼻や口と管で繋がった気泡を発する液体が入った試験管、他にも小型の発電装置や変圧器、そして救急用の薬品などが並んでいる。
その箱の中の少年は、手術台で眠る少年と比べて血色が良い。まるで精巧は蝋人形のように見えなくもない。そういう点では、ヨハンと違った美しさがある。
そもそも、人間は死という体系に少なからず神秘を感じるのだ。それは、表層では人間が死に焦がれるという生死の矛盾に捉えがちだが、そうではない。自分や他人の死に対して敬意を表す、つまり命を大切にする感情の裏返しなのである。
私は電波発生装置を切り、全身インプラントの頭部に脳波計測装置を取り付けた。
バイタルを表示するモニターにRRD脳波のグラフが追加される。当然ながら、数値は最大値二.一と、まだ低い。
同様に、冴野木先生も手術台で眠る少年に脳波計測装置を取り付ける。
「RRD脳波、やや低いです」
「まだシンクロが不十分ですね。経過を見ましょう」
私は全身インプラントのバイタルサインに気を配りながら、
「ご両親は大丈夫ですか?」
「見た限り、やはり不安があるようですね。何度も手術日を聞かれました」
冴野木先生は複雑な表情で、同じ顔をした二人の少年を交互に目をやった。
「そうですか」
私は左手首の痣に目を落とした。
今回行う予定の施術は、全身インプラントの精神移植だ。
金刺康義君の体は若年性癌に侵されている。癌細胞が全身に転移しており、手の施しようがない状態だ。そこで、癌に侵されていない体、全身インプラントに精神移植を行うのだ。
この計画には二年の歳月が費やされている。まずは康義君の両親への説明から始まり、同意を得てから、康義君の細胞から全身インプラントを生成する。その間、計画の侵攻具合などは一切開示されない。第一の理由は、技術保護のためだ。全身インプラントの生成や精神移植技術はそれこそ国家レベルの技術であり、スパイ行為や情報の売買の他、技術の悪用などに繋がる可能性があるのだ。そして第二の理由は、患者や関係者の身の安全のためだ。情報を握る人物を誘拐し、拷問するといった事件も過去に何度も発生している。更には、精神が移植された患者を誘拐し、解剖や人体実験が行われるという最悪の事態もありえる。そういった危険を回避するためにも患者やその家族に情報は開示されず、秘匿義務も発生する。無論、施術の日も明かされない。
これらの説明がされていても、自分の子供の施術の日が知らされないというのは不安だろう。ましてや、本来ならば膨大な金額が必要とされる全身インプラントを無料で提供されるとなると、本意を図りかねたり裏を感じたり、時間が経つにつれて疑念を孕んだ不安が膨らむ筈だ。
私は目を閉じ、
「焼却の手配は済ませておきましたので、本日中にお願いします」
「分かっています」
「お願いします」
私は瞼を押し上げ、モニターを見た。
するとRRD脳波が基準値を突破していた。現在、四.三から四.七で安定している。
「そちらはどうですか?」
冴野木先生はモニターを睨みながら、
「最大値五.七、現在は四.五から四.七で安定しています」
「うん、脳外ネットワークの構築は完了でしょう。では、精神移植を始めましょう」
私は箱の中から薬品を取り出し、冴野木先生に手渡した。
液体が揺れる小瓶。ラベルには毒薬ではない薬品名が記されている。
冴野木先生はそれを受け取り、薬品を手早く注射器に移した。そして手術台で眠る少年の顔をしばらく無言で眺め、小さく息を吐き出し、少年の手首に注射器の針を入れる。
「ごめんね」
蚊の鳴くような声でそう囁くと、プランジャを押した。
シリンジの中の薬品が、少年の体内に注がれていく。
やがて、彼のバイタルサインが低下していく。表情を歪めることもなく、もがく事もなく、声を上げることもなく。始めから蒼白だった顔色にも、何の変化もない。静かに、ただ静かにその小さな命を眠らせた。
手術室に単調な電子音が鳴り響く。
冴野木先生が少年の瞳孔にライトを翳し、日比野先生に頷く。
それを受け、日比野先生は人工心肺装置や麻酔機器の電源を落とした。
死を告げる音が止む。
途端、別の電子音が産声を上げた。
箱の小型のモニターからだ。甲高い電子音を発し、画面が赤く点滅し、RRD脳波が〇.三まで低下していることを告げる。他のバイタルサインは正常値で安定。つまり、全身インプラントへの精神移植が完了したのだ。
そこから急に慌しくなる。
「すぐに起きます。体を隠してください」
私は箱の中の少年に取り付けられた生命維持装置を解除し、抱き上げた。そのまま室内の隅にあったストレッチャに乗せ、体に毛布を被せる。
日比野先生が素早く手術台に布を被せ、戸松さんが機器を片付ける。
冴野木先生はストレッチャに乗った全身インプラント、精神移植が完了した金刺康義君の容態を確認する。
ヨハンが背伸びをしながら漆黒の箱に蓋を乗せた。
そして、少年の瞼が震える。
「あ、あれ……」
康義君は目を開け、ゆっくりと首を傾けた。
「おはよう、康義君。どこか痛いところはある?」
冴野木先生が彼に優しく呼びかける。
少年は弱々しく首を振ると、
「……先生。ここ、どこ?」
掠れた声だった。気道が乾燥しているせいだろう。
「手術室。ごめんね、内緒で手術をさせてもらったの」
「……手術?」
「うん。でも、もう終わったから大丈夫。これで康義君の病気は治ったよ」
「……本当?」
「うん。ごめんね、ちょっとチクッとするよ」
冴野木先生が目配せをすると、日比野先生が注射器をもってストレッチャへと近付く。
「……注射?」
少年が表情を強張らせる。しかし、まだ意識が朦朧としているのだろう、いまいち反応が拒絶の色が薄い。
「大丈夫、日比野先生は上手だから、痛くないよ」
「……でも、怖いよ」
「康義君、男の子でしょう?」
「……でも」
そう冴野木先生が少年の意識を逸らしている間に、日比野先生は少年の手首に注射を打った。
次第に少年の瞼が落ち、眠りについた。しかし今度は静かな寝息と共に、胸を上下させている。
そこで我々は一息ついた。
時間にして十数分。しかし私とヨハンの役割は終了した。このままここにいても邪魔になるだけだ。
「お疲れ様です。では、早々ですが失礼します。後日、また伺います」
私はストレッチャに手をかけた。
冴野木先生は少年の手首に点滴の針を刺しながら、
「あ、お疲れ様した。戸松、蔵軒さんとヨハン君をお送りして」
「はい」
戸松さんの先導で、私とヨハンはストレッチャを押しながら手術室を出た。




