第34章:I need to be in love
修学旅行の余韻冷めぬ日常に戻った「なるか」は、バイト終わりに宮下先生からメッセージを受け取る。あの夜約束したシルバーのブレスレットを見に行くため、二人は小さな専門店へ。
修学旅行の熱狂と甘い秘密が嘘のように遠ざかり、私たちはまた、あの退屈で色褪せた日常へと引き戻されていた。いつもの退屈な授業、変わらない教室の空気。そんな退屈を塗りつぶすようにアルバイトに精を出していた休憩の最中、スマホが小さく震えた。
画面を開くと、そこには宮下先生からのメッセージ。
『なるか、今日は何時にバイト終わる?』
たったそれだけの文字に、私の胸の奥で小さな花火が打ち上がったみたいに、激しく高鳴りが跳ね上がる。
『今日は18時に終わるよ!』
『そうしたら、終わったら会おうか。この前なるかが言ってたシルバーのブレスレット、見に行こう』
あの夜、ホテルのベッドのなかで交わした約束を、あの人はちゃんと覚えていてくれた。ただそれだけの事実が、心臓を鷲掴みにされるほど嬉しくて、胸のなかが熱い蜂蜜で満たされていくようだった。
『いいの?! 行く! 絶対行く!』
定刻通りにバイトを上がると、待ち合わせ場所であるバイト先横のコンビニの駐車場の隅で、見慣れた車とあの人の姿が私を待っていた。
「せんせ、お待たせ!」
助手席のドアを開けて滑り込むと、先生は軽く片手を上げてエンジンを響かせた。
「おう!じゃあ、行こうか」
車が滑り込んだのは、駅前のきらびやかなメインストリートから少しだけ外れ、静かな夜の闇に溶け込むように佇む小さな専門店だった。
カウベルが控えめな音を立てて鳴り、先生が開けてくれた扉をくぐると、店内にはインディアンジュエリー特有の、どこか野暮ったくて、でも洗練された圧倒的な個性を放つシルバーアクセサリーがずらりと並んでいた。
「ブレスレットなら、あの奥あたりだったはずだな」
言われて覗き込んだガラスケースのなかには、無骨さと繊細さが奇跡的なバランスで同居する、息をのむほど美しいデザインの数々が並んでいる。
「せんせ! どれも素敵すぎて迷っちゃう……! どれにしよう」
「んー……でも、あまりゴツいやつよりは、割と細めでシンプルなやつのほうが、どんな服にも合わせやすくていいんじゃないか?」
「そっか! 確かに、毎日つけるなら絶対そっちだね!」
迷っていた視線が、先生の一言でスッと定まる。私はショーケースのなかのひと際上品な輝きを放つ細身のリング状のブレスレットを、迷わず人差し指で指し示した。
「決めた! せんせ、私これにする!」
「おぉ、いいじゃん。すごく似合うと思うよ」
「あの、すみません! これ、お願いします」
店員さんに声をかけると、引き渡しの前に職人さんが手際よくサイズの微調整と最終のポリッシュをかけてくれた。
やがて差し出されたそれは、曇りのない眩しいほどの光を放ちながら、私の華奢な手首にしっとりと、まるで最初からそこにあったみたいにジャストサイズで収まった。冷たいはずの銀の感触が、なぜか私の肌の上で心地よく熱を帯びていく。
誰にも言えない秘密と、あの人と一緒に選んだという確かな温度が、私の左手首で、ひそやかに、けれど誇らしく光っていた。
レジカウンターの向こうで店員さんが丁寧に包んでくれた小箱を受け取り、先生は手際よく会計を済ませた。戻ってきたお釣りを慣れた手つきで財布にしまい、レシートだけをスッと左のコートのポケットに無造作に押し込む。その何気ない大人の仕草ひとつさえ、今の私にとっては愛おしくて目が離せなかった。
店を出て、街灯の黄昏た光の下で、私は嬉しさに耐えきれず手首を掲げて見せた。
「なるか、すごく似合ってるじゃん。よかったな」
「うん! せんせ、ほんとにありがとう!」
私たちが交わした視線のなかで、新しく手に入れたシルバーの輝きが、夜の冷たい空気に溶けるように、ひそやかに、けれどたしかに瞬いていた。
帰宅した私は、使い慣れたシステムキッチンの特等席に腰を下ろし、迷うことなくタバコに火をつけた。
乾いた喉の奥がヒリヒリと鳴っているのに気づき、慌てて火をつけたばかりのそれを灰皿の縁に置き去る。冷蔵庫のドアを開ければ、私の帰りをずっと待っていたかのように、冷えたビールが水滴を纏って佇んでいた。冷たい缶の表面を指で撫でながら、迷わずそれに手を伸ばす。
カウンターチェアへ戻り、乾いた音を立ててプルタブを引き上げた。
プシュッ、と心地よい高音が部屋中の静けさを切り裂き、泡立つビールのほろ苦い香りが一気にキッチンを包み込んでいく。喉の渇きを潤すように五口ほど一気に飲み下してから、思い出したかのように、灰皿の上で燻り続けているタバコを指先で摘み上げた。
口元へゆっくりと運ぶたびに、煙の向こう側で、私の右手首に巻きついたあの人のシルバーがふいに鋭い光を放つ。その冷たくも確かな輝きが視界に入るたび、背筋がゾクゾクするような、すべてを赦されてしまうような、言いようのない幸福感に脳内が満たされていくのだった。
恋というのは不意に波打つように湧き上がり、愛というのは気づけばどうしようもない熱を帯びているものだ。愛しい人というのは、どこまでいっても愛おしく、いつまでも恋しい。それはまるで皮膚の下に深く彫り込まれたタトゥーのようで、どれだけ時間を経ても決して消えることなく、ただ痛いくらいに刻み続けられていくものなのだと、そのとき私は思った。
こんなにも愛おしく、こんなにも恋しい。 あの人の声をずっと聞いていたかったし、許されるなら一秒だって離れたくなかった。
先生は、いつの間にか私の世界のすべてになっていた。




