エピローグ 性格は変えられない。でも口癖は今この瞬間から変えられる
エピローグ 性格は変えられない。でも口癖は今この瞬間から変えられる
アガーテとヨアヒムが結婚して、最初の秋が来た。クラウゼ邸の南向きの窓辺では、庭師が植えた薄桃色の秋薔薇が朝露を載せ、食堂には焼きたての丸パンと林檎のジャムの匂いが満ちていた。淡い灰青色のワンピースに生成りのカーディガンを羽織ったアガーテは、片手で婚姻契約書の最終稿を読みながら、もう一方の手で固ゆで卵の殻をむいていた。
「書類を読みながら卵をむく人を、私は初めて見たよ」
ヨアヒムは焦げ茶色の上着を椅子の背へ掛け、湯気の立つ紅茶へ蜂蜜を落とした。匙がカップの縁へ当たり、澄んだ音が二度鳴った。アガーテは書類から目を離さず、殻の残った卵を口へ運びかけた。
「卵くらい、見なくてもむけます。時間を有効に――あっ」
舌へ触れた殻がぱりりと割れ、アガーテは眉間へしわを寄せた。ヨアヒムは笑うのをこらえながら、彼女の皿へ塩の小瓶を置いた。瓶の蓋には小さな欠けがあり、屋敷の古参料理人は買い替えを勧めたが、ヨアヒムが子供の頃から使っているという理由で、そのまま食卓へ出されていた。
「見ないでできることと、見ないほうがよいことは違うらしい」
「今のは卵の品質に問題があります」
「殻を食べかけたのは、鶏の責任なのかい」
「朝から細かいことを言わないでください。あなたは新聞を逆さに持っています」
ヨアヒムが黙って新聞を持ち直すと、アガーテは丸パンを半分だけ彼の皿へ移した。その手つきが少し乱暴になり、林檎のジャムが白いクロスへ落ちた。以前なら使用人を呼んで交換させたはずだが、彼女は濡らした布巾で赤い染みを何度もたたき、最後に指先で残り具合を確かめた。
午前十時、アガーテは王宮の執務室へ入った。机の上には予算書、申請書、昨日から置かれたままの冷たい薬草茶、それにネリーが差し入れた胡桃入りの焼き菓子が並んでいた。花瓶のコスモスは一本だけ茎が曲がっており、ネリーは朝から三度も直そうとして、そのたびに隣の花まで傾けていた。
「アガーテ様、北部救護院から冬用毛布の追加申請が届きました。私が確認したところ、倉庫には二百八十枚ありまして、入所者が百三十六名ですから――」
「でしたら、一人二枚として八枚余ります。承認印を押して発送を――」
そこまで言ってから、アガーテは口を閉じた。羽根ペンを持つ指へ力が入り、軸に残る古い歯形へ親指が触れた。それは、自分で考えるより先に答えを出そうとすると噛んでしまう、ネリーから譲られた羽根ペンだった。
「それで、ネリーはどうしたいの?」
ネリーは目を丸くし、抱えていた書類を一枚落とした。拾おうと腰をかがめた拍子に、今度はポケットから干し葡萄が三粒こぼれた。朝食を食べ損ねた日に備えて持ち歩いているらしく、一粒はアガーテの靴の先まで転がってきた。
「申し訳ありません。干し葡萄が逃げました」
「それはあとで拾いなさい。五秒以内なら食べられるという規則は、王宮にはありません」
「三秒だと兄から教わりました」
「それも誤りです。それで、毛布をどうしたいのですか」
ネリーは床の干し葡萄を名残惜しそうに見たあと、書類を開いた。入所者の中には、寝たきりの高齢者と十二人の乳児がいるため、洗い替えを含めれば八枚では足りないという。古い毛布の傷み具合を現地で調べ、追加分を百枚にするか百五十枚にするか、担当者と相談したいと話した。
「相談などしている間に雪が降ります。私が数量を決めます。百五十枚を今日中に――」
ネリーの肩がわずかに下がった。アガーテはその動きを、判断に同意したためだと思った。ところが、ネリーは唇を二度なめ、両手で書類の端をつまんだまま動かなかった。
「何ですか。反対なら、はっきり言いなさい」
「はい。でも、アガーテ様は、私の考えを聞くとおっしゃったのに」
「聞きました。聞いたうえで、私が最も早い方法を選びました」
「それでは、聞かないのと同じです」
アガーテは机を手のひらでたたいた。冷たい薬草茶が跳ね、予算書の隅へ茶色い染みを作った。ネリーの言い方が、何年も前に職場を去った部下たちの無言の背中と重なり、喉の奥が狭くなった。
「私に仕事を遅らせろと言うのですか。あなたが迷っているから、私が決めたのでしょう」
「迷ってはいけないのですか」
「迷うだけなら誰にでもできます。だから、あなたは――」
役に立たない、と言いかけたところで、廊下から焼き栗売りの声が聞こえた。窓の隙間から炭の匂いが入り、執務室の隅に置かれた籠の中では、先月ヨアヒムが買ってきた亀裂入りの栗が一つだけ残っていた。アガーテはその栗を見つめ、握っていた羽根ペンを机へ置いた。
「……今の言葉は、私が間違えました」
ネリーはすぐには答えず、床の干し葡萄を一粒ずつ紙へ包んだ。窓辺のコスモスが風に揺れ、曲がった一本だけがほかの花へぶつからずに残った。アガーテは椅子へ座り直し、濡れた予算書の端を布で押さえた。
「ネリー。あなたの考えを、最後まで教えてくれる?」
「現地へ確認の早馬を出します。返事を待つ間に百枚を荷車へ積み、傷みが多ければ、残り五十枚を翌朝送ります」
「二度運ぶことになれば、費用が増えます」
「はい。でも、必要な人へ不足する危険と、余らせて別の救護院へ届かなくなる危険を、両方小さくできます」
「分かりました。その方法で進めてください。助かりました」
ネリーの肩が今度こそ上がり、頬が焼き菓子のような色になった。彼女は書類を抱え直すと、床へ残った最後の干し葡萄を拾って紙包みへ入れた。捨てるのかとアガーテが尋ねると、庭の小鳥へやるのだと答えた。
「小鳥は三秒以内を気にしませんから」
「鳥へ妙な規則を教えないでください」
「アガーテ様も一つ食べますか。机の上のものは落としていません」
「仕事中です」
「胡桃の焼き菓子もあります」
「……半分だけいただきます」
その夜、アガーテは夕食の席で昼間の出来事をヨアヒムへ話した。食卓には鶏肉と蕪の煮込み、茸のバター炒め、朝に残した丸パンが並び、庭から摘んだ秋薔薇が低い花瓶へ挿してあった。ヨアヒムは煮込みの蕪を二つに割り、熱い湯気へ眼鏡を曇らせた。
「私は変わったと思っていたのです。もう以前の私ではないと」
「君は以前と同じだよ」
「慰める気がないなら黙っていてください」
「仕事が速くて、間違いを見つけるのも速くて、待つのが苦手だ。疲れると羽根ペンを噛むし、腹が立つと相手より先に三つ答えを言う。そこは結婚前から変わっていない」
「やはり黙っていてください」
アガーテは茸を口へ入れたが、黒胡椒が舌へ強く当たり、水を二口続けて飲んだ。ヨアヒムは自分の皿から小さな蕪を一つ彼女の皿へ移した。料理人が塩と砂糖を取り違えた失敗談を話し始めたため、アガーテは聞くつもりもないのに、結局最後まで聞いてしまった。
「性格を取り替える必要はない。君が君でなくなったら、私が困る」
「では、同じ失敗を繰り返してもよいと?」
「口癖なら、今この瞬間から変えられる。『私がやります』を、『あなたはどうしたい』に変えることはできる。明日また元へ戻ったら、その場でもう一度言い直せばいい」
「そんな簡単なことで、人は辞めなくなるでしょうか」
「簡単ではないよ。君にとって、人へ任せるのは王国予算を預けるより難しいからね」
「余計な一言です」
「君から伝染した」
翌朝、アガーテは婚姻契約書の最終頁へ署名した。隣にはヨアヒムの署名があり、その下には、仕事を家庭へ持ち込まない日を月に四日設けること、相手の話を途中で奪った場合は紅茶を一杯いれること、朝食中に書類を読まないことが追記されていた。最後の一項にはアガーテだけが反対したが、卵の殻を食べかけた事実を示され、承諾するしかなかった。
「それで、今日はどうしたいの?」
ヨアヒムは秋晴れの庭を指さした。薔薇の向こうには、枯れ始めた紫陽花と、種をつけた向日葵が並んでいた。使用人が干した白いシーツが風をはらみ、庭の端ではネリーにもらった干し葡萄を小鳥がつついていた。
「王宮へ行きます。北部救護院から返事が届く予定ですから」
「朝食のあとで?」
「もちろんです。今日は書類も持っていません」
「その膝の上にあるものは?」
アガーテは膝掛けの下から、予算書の角がのぞいていることに気づいた。ヨアヒムは何も言わず、空になった紅茶のカップを差し出した。アガーテは予算書を椅子の横へ置き、蜂蜜を一匙だけ入れてから、新しい紅茶を注いだ。
「助かりました」
「まだ何もしていないよ」
「私に言い直す時間をくれました」
アガーテは羽根ペンへ伸ばしかけた手を止め、代わりに丸パンを取った。表面は香ばしく、中には昨日の林檎ジャムがたっぷり入っていた。性格は昨日のままでも、彼女が次に口にする言葉は、昨日と同じである必要はなかった。




