第八十九話 帰還(後編)
綾乃たちは、その胸騒ぎを抱えたまま、清正へ彼らが辿りついた仮説を報告するため祈祷殿へ向かった。
広い祈祷殿の中央
満身創痍の清正が、血の気を失った顔でなお祈祷を続けている。
額には汗が滴り、震える手はそれでも一度たりとも止まらない。
「……」
綾乃は小さく首を振った。
今だけは、この人の祈りを妨げてはいけない。
そう自らに言い聞かせたその時だった。
ふいに、獅子丸が背中を向けた。
背中に揺らぐその影は、なぜかひどく遠くに見えた。
「……すまぬ、綾乃。蛇楽……」
「オレはここで、しばらく、お前たちと別れねばならん」
「!! な……なぜ!!」
綾乃の声は、裏返り、震えた。
まるで胸の奥を突然わしづかみにされたような、そんな悲痛な響きだった。
蛇楽が駆け寄り、涙声で叫ぶ。
「やだっ!!獅子丸がおらんと、私嫌じゃ!!いかんでくれ!!」
しかし、獅子丸はただ、静かに首を振るだけだった。
その瞳には、迷いも、逡巡もない。
すでに覚悟を決めた者だけが宿す、静かで強靭な光があった。
「今は、俺一人で奴らの動きを探る。
お前達を……これ以上、危険な目に合わせる訳にはいかん」
「なんだそれ! おメェ遠回しに、おいら達を足手まといって言ってんじゃねぇだろうな!」
斬黒が噛みつくが、獅子丸は振り返り、まっすぐ見返す。
「違う。夜叉の覚悟を、俺はこの目で見た。
恐らく、お前達も同じ覚悟で戦っている。……だからこそだ」
獅子丸はぎゅっと拳を握りしめた。
「……もしもだ」
獅子丸は、重く、噛みしめるように言った。
「もしも敵が、真田十勇士の亡霊達だったならば。
今のお前たちでは、また誰かが死ぬ」
焚き火の爆ぜる音が、やけに大きく響く。
「いや……全員やられる可能性が高い」
その言葉に、綾乃は息を呑み、声を失った。
「だからだ」
獅子丸は踵を返す。
「今は、俺ひとりで動く」
「ならばもしも!!」
綾乃は、思わず叫んでいた。
「もしも……義兄の、霧隠才蔵が……!
お前を、仲間に誘ってきたら……どうするのだ!!」
獅子丸は、その場で立ち止まった。
一瞬だけ目を伏せ、
そして、決然と顔を上げる。
「……まだ、答えは出ておらん」
「だが……呪い箱に、それほど多くの子供たちの命が犠牲になっているのなら……
そして、それを作り続けてきたのが、兄者だというのなら……」
低く落とされた声が、祈祷殿の柱に、しんと染み込む。
「その罪は、あまりにも重い」
「場合によっては……
この俺が、斬り伏せる」
綾乃の喉が、ひくりと鳴った。
「……さらばだ!!」
「ま、待て!! まだ話はっ!!!!」
綾乃が咄嗟に手を伸ばした、その瞬間、
そこに、獅子丸の姿はなかった。
「し、獅子丸.....」
残されていたのは、
冷たい夜気と、彼の気配の残滓だけ。
その時だった!!!
「ギャアアアアアアア!!!」
清正の祈祷壇で、突如、異変が起こる。
聖なる火が轟然と天へ噴き上がり、
黒く澱んだ邪気が、悲鳴を上げながら四散した。
「……っ!!」
綾乃達が思わず目を覆った、その直後!!
(大丈夫ですよ)
ふいに、綾乃の頭の奥に、柔らかな声が響いた。
(獅子丸とは……また、必ず会えます)
「え……?」
(だって、あの男は.....綾乃に惚れておりますからね)
「……夜叉!!」
振り向いた、その先に、
ふわりと、淡い光をまとった夜叉の霊が、穏やかに佇んでいた。
まるで、焚き火の熱すら届かぬ場所に立っているかのように、その姿は静かで、清らかだった。
「清正様が……成し遂げてくださいました」
夜叉は、祭壇の脇で気を失って倒れている清正へと、やさしく視線を向ける。
その唇に浮かんだのは、心から安堵した微笑みだった。
「全身全霊で……あの能面の呪いを、祓ってくださったのです」
「……そう、だったのか……」
綾乃の胸に、じわりと熱いものが込み上げる。
「本当に……本当に、良かった……!」
「なんじゃ? 誰と話しておるんじゃ?」
蛇楽が、不思議そうに首をかしげた。
「まさかオメェ……獅子丸がいなくなって、気でも触れたんじゃねぇだろうな?」
斬黒が、いつもの調子で茶化す。
「ふふ……斬黒は、相変わらずですね」
夜叉の霊は、くすりと微笑んだ。
そして、綾乃の方を見つめ、静かに言葉を紡ぐ。
「二人に、よろしくお伝えください。
そして……清正様にも」
夜叉は、深く、丁寧に頭を下げた。
「あそこは……想像していたとおり、暗くて、獣臭くて……とても、嫌な場所でしたよ」
過去を語る声音は、穏やかでありながら、重みを帯びていた。
「ですが……清正様のおかげです。
おかげで私は……あの面の、永遠の闇から解放されました」
「……うん……うん……」
綾乃は、何度も頷く。
そして、綾乃の頬を、涙が伝う。
「よかったなあ! みんなには……このこと……絶対に……絶対に、伝える……!」
その涙は、悲しみではなかった。
まるで、夜叉の放つ光が形を得たかのような、温かな涙だった。
夜叉は、まるで菩薩のようにやさしく微笑み、そっと目を閉じる。
「……私は、もう行きます」
その声は、綾乃の耳にだけ、静かに届く。
「どうやら……天へ、召されるようです」
「お別れじゃな、夜叉……!!」
綾乃の叫びに応えるように、夜叉はもう一度、微笑んだ。
その輪郭は、光と溶け合いながら、
静かに、静かに、薄れていく。
「……夜叉姉? どういうこと?
綾乃! 今、夜叉姉って言ったじゃろ?」
蛇楽が、戸惑いを隠せない声を上げる。
「夜叉……?
もしや、さっきので……面から、解放されたのか……?」
斬黒は、珍しく言葉を失ったまま、神殿内を見回していた。
神殿には、もう、夜叉の気配は無かった。
澄み切った静寂だけが、やさしく満ちていた。
ありがとうございました。




