第八十六話 八雲(後編)
八雲「死に損ないの女と、か弱き巫女か!
今のはうまく防いだのう!……不意をつかれたが、虫ケラのお前らにしては上出来じゃ!!
だが、二度は効かぬ!!」
その嘲笑が、闇の空気を震わせた。
八雲が舌を鳴らし、侮辱を吐き続けているその刹那、
夜叉は静かに“面”をかぶり、綾乃は指で“狐の窓”を形作っていた。
次の瞬間。
「ギャアアアアアアアアッッ!!!!」
夜叉から迸る、凄絶な鬼神の咆哮!
両手に持つ出歯包丁を振りかざし、狂気を帯びた軌跡で八雲へ肉薄する!!
同時に、綾乃の両脚へ狐の加護が宿る。
金銀の風が巻くような加速!
視界が追いつかない速度で、弐の蜘蛛へ突撃する!!
――だが。
八雲「無駄無駄無駄!!
そんな狂気をおびた刃、決して、わしには届かぬわ!!」
八雲の瞳が、ひやりと細められた。
シシュッ!!シュバッ!!シュッ!!シュシュッ!!
八雲は、夜叉の繰り出した無数の斬撃を、一つ一つ正確にかわし、
そのすべてが空を切る。
そして次の瞬間、残酷な音が闇を裂いた。
ズシャッ!! ズシャアアアアッ!!!
赤い飛沫が、夜空に散華する。
八雲の鎖鎌が、閃光のように走ったのだ。
「っ!」
夜叉が振り下ろした出歯包丁ごと、
その両の手首が、白光に呑まれる。
鈍い音すら立てず、
夜叉の両腕は、肘の先から失われていた。
彼女は無力化された...
両手を失った夜叉は、
それでも、八雲へと踏み出す。
「……終わりだ」
八雲が小さく呟き、鎌を大きく振りかぶる。
鎖が唸り、遠心力が殺意を帯びて加速する。
そして、
ビシューーーッ!!!
「ぁ……ぁ……っ!!」
肩口へと深々と叩き込まれた刃が、骨を割る鈍い感触を響かせた。
血が雨のように飛び散り、夜叉の能面は衝撃でずれ、赤い線がその頬を流れ落ちる。
圧倒的なまでの力量差。
抗う余地すら、八雲は許さなかった。
――その一方。
綾乃は、弐の蜘蛛の“気”の流れ、弓矢の軌道、
そのすべてを読み切っていた。
ヒュンヒュン、ヒュンヒュン!
綾乃「右、左!跳躍!!右!」
弐の蜘蛛が放つ高速の矢をすべて紙一重で抜け
「てやあぁ〜〜!!!!」
綾乃は跳び上がり、その脳天へ短剣を突き立てた!!
グシャッ!!!
さらに、綾乃の背に張り付いていた“蛇楽の幻蛇達”が、綾乃の跳躍に合わせて飛翔!
ピシュ!ピシュ!ピシュピシュ!
壱の蜘蛛の“笛を持つ指”へ巻きついた!!
ボギッ!!
不気味な音と共に、笛が砕け、呪音が止まる。
壱の蜘蛛「……ッッ!」
そして綾乃は、戸惑っている、壱の蜘蛛の喉を掻き切る!!
ビシューーーャ!!
綾乃「届いた!!!」
その瞬間!“面が剥がれ”、肩から血を噴きつつ崩れ落ちる夜叉の背後。
沈黙を破る、雷鳴のような一歩。
獅子丸が、目を覚ました。
八雲「なに……!?」
獅子丸の刀が、青い残光を引いて振り抜かれる。
一太刀。
ただの一太刀。
だが、それは“絶対”の一撃だった。
八雲の身体は、脳天から腰まで、音もなく真っ二つに裂け落ちた。
ーーー
獅子丸の腕に抱かれながら、夜叉の身体はなお小刻みに震えていた。
綾乃と蛇楽が、血飛沫を蹴って駆け寄る。
夜叉は二人を見やり、微笑みさえ浮かべた。
「よ、良かった......捨て身の囮となる策が....うまく、上手くいってくれました」
「すまぬ!!」
獅子丸は顔を歪め、涙を滝のようにこぼす。
「不甲斐ない男で……本当に、すまぬ……!!」
夜叉は首を小さく振った。
「……獅子丸……最期に……あなたの腕の中で逝けるとは……
これほど光栄なことは……ございません……」
その声はかすれ、しかし凛としていた。
「そして……綾乃、蛇楽……」
「後のことは……どうか……頼みます……。
清蓮神社を……いつまでも……守り続けて……くださいね……」
綾乃は、蛇楽の肩から吹き出す血を必死に抑えながら、
真っ赤に腫れた目で無理やり笑顔を作った。
「わ、わがっておる……!!」
「ぐじゅ……何も、何も心配はいらぬ……!」
夜叉はその笑顔を見て、満足げに頷く。
「それ……から……蛇楽……」
「な、なんじゃ夜叉姉……!」
蛇楽は泣き崩れながら、必死に夜叉の言葉を受け止めようとする。
「あなたには……すべての人と向き合える……どんな悪意にも屈しない、強い心を持ってほしい……
あなたが人に隠している、その心は……とても……とても、可愛らしいのだから……」
蛇楽は、涙と鼻水を止めどなく垂れ流しながら、その言葉を心に刻む。
「わ、わがった……」
涙でぐずぐずの声。
「夜叉姉が……そお言うのなら……わ、わだし、がんば、頑張ってみる……!」
そう言いながら、夜叉の顔についた血を、震える手で何度も何度も拭った。
夜叉はふっと、空を見上げるように目を細めた。
「……それにしても……良い夜でしたね……
私は……見たかった “あの輝き” を……やっと……見ることができました……」
あの瞬間!
獅子丸が放った、真の武者だけが纏う黄金の気光。
夜叉「……この輝きを……魂に刻み……」
そこで、言葉は静かに途切れた。
夜叉の視線がゆっくりと止まり、力が抜けていく。
地面に落ちていた能面が、月光を受けて淡く白く光った。
綾乃の瞳には見えた。
夜叉の魂が、光の粒となって舞い上がり……
その能面の奥へ、吸い込まれていく様が。
「……夜叉、なんで、なんでこんな残酷な最期…なんだ…」
綾乃は震える手で能面を拾い上げ、
そっと夜叉の亡骸の胸の上へ置いた。
「夜叉ぁぁぁ!! 夜叉ああああっ!!」
蛇楽の嗚咽が夜に響き渡る。
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、獅子丸に縋りつく。
「獅子丸!!!お願いじゃ!!」
「この面を……この面を砕いてくれぇ!!
夜叉を……夜叉の魂を解放してくれぇぇ!!」
しかし獅子丸は、悔しさに震えながら唇を噛みしめた。
「……すまぬ……」
「この面は……“次元の穴”のようなもの……」
「我らの理では……物理的に壊せるものでは、ない……」
「そ……んな……そんなこと……!!」
蛇楽は大地を殴り、泣き叫んだ。
夜の風が吹き抜ける。
夜叉が残した温もりだけが、
ひどく静かに、
能面の中に、消えていった。




