第八十三話 再会、獅子丸(陸)
突如として蛇楽の悲鳴が弾けた。
「た、たたた……大変だ!! 綾乃!! 獅子丸!! はやく来てぇ!!」
駆け寄る二人の前で、
「グアァ……ッ!!」
夜叉が、お腹を押さえ、苦痛に歯を食いしばっていた。
しずくのように汗が滴り、荒い息が漏れる。
「始まったか!!」
獅子丸の声は低く重く、覚悟を固めた者のそれだった。
「夜叉!!しっかりして!!」
綾乃は膝をつき、震える自分の手を無理やり押さえつけながら、夜叉の手を固く握った。
そして、血に滲んだ麻布を素早く取り替える。
ジク……ジクジク……
夜叉の腹の奥から、いやらしく蠢く“何か”の音が聞こえた。
「う、ぐ……ッ! ガハァァ!!」
夜叉は地面を転がり、身体を弓のように反らせてのたうつ。
その苦しみようは、見ているだけで胸を裂かれるほどだった。
「夜叉ぁっ!!」
蛇楽が泣きながら夜叉の肩を抱きしめた。
その小さな身体が震えている。
「夜叉ぁぁ!!夜叉ぁぁ……!!」
涙と嗚咽で声が掠れながらも、蛇楽は夜叉の名を呼び続けた。
古屋の中、夜叉の苦悶の叫びと蛇楽の泣き声が、重く、悲しく、響き渡った。
「夜叉!これを飲み込め!」
獅子丸は、黒く濁った小さな丸薬を掌にのせ、夜叉の唇へそっと押し当てた。
「……これで半刻は、痛みが引くはずじゃ」
喉に流れた瞬間、夜叉の身体がびくりと跳ねる。
夜叉「す、すまぬ……し、獅子丸……!!」
――数分後。
薬が効き始め、夜叉の呼吸がわずかに落ち着く。
黒色球、それは、獅子丸が仕込んだ猛毒の痛み止めだった。
獅子丸「……夜叉。お主に飲ませた薬は、トリカブトを煎じた劇薬じゃ。
一日に二度以上飲めば、確実に死に至る」
蛇楽「っ……!?」
獅子丸「痛みは半刻で切れる。だが……その後の半刻は、どうする事もできん」
獅子丸「夜叉...」
獅子丸「その間に……安楽死を選ぶかどうか、決めねばならぬ」
蛇楽「あ、安楽死!? な、何をたわけた事を言っておる!獅子丸!!!」
怒号と共に、蛇楽は獅子丸の襟元を掴み、激しく揺さぶる。
蛇楽「獅子丸!!綾乃!!」
「お願いじゃ!わしにも教えてくれ!一体夜叉に何が起こっているんじゃ!!」
綾乃は、夜叉を見つめたまま唇を震わせた。
「夜叉……すまぬ。もう……隠し通せそうにない」
夜叉も静かに頷いた。
夜叉「そ……そうですね……」
蛇楽「なんで!なんで、私にだけ内緒にするのじゃ!二人とも!!」
「ひどいよ!ひどいじゃないか! グジュ!ぐっふっぐっ!」
蛇楽は、拭っても、拭っても涙が止まらない。
その時、夜叉が弱々しく手を伸ばし、蛇楽の手をそっと握った。
夜叉「蛇楽.....もうちょっとだけ、待ってね、この後、全てを話すから」
蛇楽は、涙でボロボロになり、震えている。
夜叉「獅子丸!私の意見は変わりません。
昨日言った通り、安楽死は致しませんよ!」
「でも.....これ以上……貴方達に、心配もかけたく……ありません」
夜叉「次は……取り乱さぬよう。痛みの感情を……制御してみせます……」
その言葉の強さに反比例するように、綾乃も堪えきれず嗚咽を漏らした。
綾乃「な、なぜそこまで、夜叉!」
「ぐっ……ぐしゅっ……っ……!」
綾乃は痛感した。
目の前の仲間が、静かに死への覚悟を固めていくのを、ただ見ているしかない無力感を。
夜叉は二人の涙に微笑みを返した。
その笑みが、あまりにも優しく、あまりにも儚かった。
ーーー
夜叉は、ようやく蛇楽にすべてを打ち明けた。
怒り、悲しみ、絶望、蛇楽はその全てを抱えきれず、涙が枯れるまで泣き続け、今は夜叉の横で小さく丸まって眠っている。
獅子丸の古屋の中に、静かな時間が落ちた。
しかし、その静寂は長く続かなかった。
薬の効果が切れはじめた頃。
夜叉の腹部から、嫌な音が響き出す。
グチュ……グチュ、グチュグチュ……ッ!
続いて、皮膚の下を何かが這い回るような、乾いた擦過音。
ミチチチチチ……
夜叉「……くっ!!」
夜叉の身体がびくんと跳ね上がる。
必死に口元を押さえ、声を漏らすまいと歯を食いしばった。
綾乃「っ……な、なんじゃ……!?
この甘い……匂いは……!」
ほのかに甘い、しかしどこか鉄錆の混じったような異様な香りが、夜叉の腹周辺から立ちのぼる。
獅子丸は顔をしかめ、短く息を呑んだ。
獅子丸「……子蜘蛛が発する匂いじゃ。
ついに……腹を食い破り、這い出てきたか……!」
綾乃「!!」
夜叉の腹に当てていた麻布が、じわり、じわりと赤く滲み始めた。
その赤はみるみるうちに広がり、布がまるで内側から押し出されているように膨れ上がる。
そして、
麻布の隙間から、光の粒のようなものが溢れ出した。
海岸の砂粒よりも小さく、儚く煌めく、小さな、小さな命の群れ。
チチチッ、ミチチチチチッ
まるでひとつの意思があるかのように、粒の群れは一方向へと流れ出していく。
その一つ一つから、あの甘い香りがふわりと漂った。
綾乃「ま、まさか……こんな……!」
夜叉はなおも声を押し殺し、震えながら前のめりになっていた。
その顔は蒼白で、汗が滝のように流れ落ちている。
「夜叉ッ!!」
獅子丸は震える拳を握りしめ、叫んだ。
「子蜘蛛は……これから、お前が死ぬその時まで……!
卵から次々に孵り続け、内臓を喰い破っていくんだぞ!!」
綾乃も夜叉へ駆け寄り、涙に濡れた目で叫ぶ。
綾乃「夜叉!! 私は……私はお前に死んでほしくない!!
だが……こんな……こんな状態で死を待つまで、続けるなんて……!」
「ぐっ」
夜叉はうずくまったまま、苦しげに息を吸い、二人の方へ顔を向けた。
その瞳は痛みに曇りながらも、揺るがぬ意志を宿している。
夜叉「獅子丸……綾乃……」
「どうしても、斥候として現れる……あの蜘蛛使いが来るまで……私は……生きていたいのです」
その言葉には、迷いが無かった。
その瞬間、夜叉の身体がびくんと痙攣した。
夜叉「……っ、ぐッ!!」
口元から、どろりとした赤い液が溢れ、顎を伝ってぽたりと床に落ちた。
綾乃「夜叉ぁ!!」
それは、蜘蛛達が夜叉の内臓を蝕んでいる証だった。
夜叉は血を流しながら、それでも口元にかすかな笑みを浮かべる。
腹の奥で、また新しい音が蠢く。
グチュ……グチュグチュ……
夜叉は歯を食いしばり、声を押し殺す。
夜叉「だから……どうか……。
このまま……もう少し、ほんの少しだけ……生かせてください……」
その願いは、あまりにも静かで、
あまりにも切なく、そしてなにより、強かった。
古屋の空気さえ、夜叉の覚悟を前に震えているように感じた。




