表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
82/89

第八十二話 再会、獅子丸(伍)

三日目の夜、満月が冴え冴えと空を照らし、崖の上には白い光の道が伸びていた。


その道端。

谷底を見下ろすように置かれた巨大な岩の上に、夜叉と獅子丸が並んで腰掛けていた。


獅子丸は、月光に照らされた夜叉の横顔を一瞥し、静かに口を開いた。


「……いよいよ、明日からだ。

 お前の腹の卵が孵る」


その声音には、普段の豪胆さとは違う、重苦しい影があった。


「その痛みは……尋常じゃないと聞く」


夜叉は、俯いたまま小さく息を呑む。


獅子丸は、ふっと目を閉じた。

そして、刀の鞘にそっと手を添え、低く言った。


「……夜叉」


静かな呼びかけ。


「お前が望むならば、

 今、此処で、オレが楽に逝かせてやれる」


その言葉には、揺るぎない覚悟と、

どうしようもないほどの優しさが、混じっていた。


「オレは……それが一番良いと思っておる」


長い沈黙ののち、

夜叉は、かすれるような声で問いを落とす。


「……あの二人は……」

「敵の目を掻い潜り、無事に……帰れますでしょうか」


「帰らせるさ」


獅子丸は、迷いなく答えた。


「オレが、命にかえても守る」


そう言って胸を拳で叩き、大きく息を吸い込む。


「だが、その前に、

 まず、片付けねばならんことがある!」


その鋭い視線が、

夜叉の腹の奥、蠢く闇へと注がれた。


夜叉の体内で孵化を待つ、蜘蛛の卵。


「お前の腹から帰った蜘蛛の軌跡を辿って、

 まず斥候が来る」


「そして、その中心には必ず……

 お前の仇である、蜘蛛使いがいる」


獅子丸は夜叉の前に膝をつき、

真正面から、その瞳を見据えた。


「夜叉」


低く、しかし力強く。


「お前の仇は、

 必ず、このオレが討ち取る!!」


その言葉は、

静かな夜の空気を、真っ直ぐに切り裂いた。


「……」


夜叉は、ゆっくりと表情を緩め、

小さく、微笑んだ。


「……ならば」


「それを見届けるまでは……

 私は、死ねませんね」


「な……何を言っておる!」


獅子丸は思わず立ち上がり、

夜叉の肩を強く掴む。


「夜叉! よく考えろ!!」

「待ち受けているのは、

 地獄の痛みの果てに、確実な死じゃ!!」


夜叉は、そっとその手を外した。


そして、

後頭部へと指を伸ばし、


面を、静かに外す。


満月の下で揺れる能面を、

夜叉は、幼子をあやすように、優しく撫でた。


「この面には……」

「私が、これまでに殺めてきた人々……

 魑魅魍魎の魂が、封じられております」


面から漂う、微かな陰気が、夜風に揺れる。


「時折……聞こえるのです」

「魂が、千切れるような……

 痛ましい呻き声が」


獅子丸は、息を呑んだ。


夜叉は、面を胸に抱きしめながら、静かに続ける。


「私も死ねば……

 この面に、封じられる定め」


「それに比べれば……

 この腹の痛みなど、取るに足りませぬ」


「や……夜叉……!」


獅子丸の喉から、震える声が漏れた。


夜叉の死も恐ろしい。

だが、それ以上に、

彼女の“行き先”が、あまりにも残酷だった。


夜叉は、そっと獅子丸の横顔を見つめ、

穏やかに語りかける。


(……あの日のことは、もう、口にすまい)


「獅子丸」


「あなたと会って、まだ数日ですが……」


月光の下、夜叉は微笑んだ。

その笑みは儚く、それでいて、確かな意思に満ちていた。


「あなたの勇士を……

 この目に刻んでから、逝きたいのです」


その言葉に、

獅子丸は、何も言い返せなかった。


頬を、熱いものが伝う。


一筋……

二筋……。


やがて、それは堰を切ったように、

止めどなく流れ落ちていった。


隣に座る夜叉は、

その涙を、ただ静かに見つめている。


「……獅子丸」


夜叉は、小さく息を吸い、

言いにくそうに口を開いた。


「こんなことを……

 会って日の浅い、あなたに頼むのは、

 理不尽だとは思うのですが……」


「……なんだ?」


涙に濡れた目で、獅子丸が応える。


夜叉は、ほんの少し頬を赤らめ、伏し目がちになる。

それは、いつもの静かな夜叉ではなかった。


清廉で、凛とした姉のような彼女が、

初めて見せる、年頃の娘の、恥じらい。


「私は……このような身の上のため……」


後頭部の能面へ、そっと触れる。


「殿方と……

 恋仲になったことが、ありません」


その告白と同時に、

風が、すっと止んだ。


崖上には、満月の光だけが、静かに降り注ぐ。


夜叉は、ほんのわずかに視線を下げる。


「……この一時だけで構いません」

「肩を……

 抱いていただいても、よろしいですか?」


獅子丸は、一瞬だけ目を瞬かせたが、

すぐに、穏やかな表情になる。


「……お安いご用じゃ」


言葉は粗野でも、

その声音は、驚くほど優しかった。


獅子丸は、ゆっくりと夜叉の肩に手を伸ばす。


その瞬間、

夜叉の身体が、かすかに震えた。


だが、逃げることはせず、

むしろ、寄り添うように、獅子丸の胸へと身を預ける。


しばしの沈黙。


満月の下、

二人の鼓動だけが、静かに重なり合った。


やがて、夜叉が、小さく問いかける。


「獅子丸は……

 誰か、好きな人は……おりますか?」


獅子丸は、遠くを見つめた後、

迷いなく答えた。


「オレは……

 綾乃が、好きだ!」


夜叉は、その胸の中で、そっと目を伏せる。


その横顔は、どこか安堵したようで、

まるで妹のように、優しく微笑んでいた。


「やっぱり……そうでしたか」

「そうだと思っておりましたよ」


その声は、

祝福にも似ていた。


ほんの短い一瞬だけ、

夜叉は、“ただの娘”に戻れたのだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ