第七十九話 再会、獅子丸(弍)
獅子丸は、その日の夜、静けさが深く沈み込む刻に、綾乃だけを稽古場へ呼び出した。
地面には敵を見立て、太さも高さも異なる丸太が幾つも突き刺さり、
足場は意図的に掘り返され、ぬかるみや石段を不規則に点在させた場所
獅子丸はそこを己の修練の場として名付けていた。
待ち合わせの刻限、綾乃が現れる。
「獅子丸……」
振り返った獅子丸は、いつになく厳しい眼差しで綾乃を迎えた。
「こんな夜遅くに呼び出して、すまぬ。
大事な話があるのだ」
その声音だけで、綾乃は胸が強く締めつけられる。
「……夜叉の、事なのか?」
綾乃の問いに、獅子丸は静かにうなずいた。
重苦しい沈黙が、ふたりの間に落ちる。
まさに獅子丸が口を開こうとした、その瞬間だった。
サッ
稽古場の木の影が揺れた。
月明かりに浮かびあがる細い影。現れたのは、夜叉だった。
「や、夜叉!!」
驚きに声を上げる綾乃。
夜叉は、痛み止めが効いているのか、顔色は幾分よく、背筋もまっすぐ伸びていた。
夜叉は、真剣な眼差しで、獅子丸と綾乃を見る。
「皆さん」
「私のことなのに……私に内緒で話すのは、おかしくありませんか?」
その言葉に、綾乃の心がひゅっと冷える。
獅子丸は夜叉の気迫を真正面から受け止め、静かに問い返した。
「……いいのか?」
夜叉の凛としたその姿は、傷ついた身であることを忘れてしまうほどだった。
「覚悟は、できています」
その毅然とした声。
「や、夜叉……!!」
綾乃は思い知った。
この場で一番覚悟ができていないのは、自分なのだ、と。
獅子丸は、深く息を吐き出し、そのまま夜叉の瞳を真正面から見据えた。
「……話を聞かせて下さい」
夜叉の声はいつもどおり穏やかに聞こえた。
「……よし、わかった」
わずかに迷いを滲ませたのは一瞬だけ。
獅子丸は静かに頷く。
「夜叉。お前がうけたそれは、
甲賀の秘術“帰巣マダラ“じゃ」
ぴくり、と夜叉の眉がわずかに揺れる。
「甲賀の忍は、代々“ある奇妙な習性を持った蜘蛛”を飼育しておる。
その蜘蛛は、どれほど遠く離れようと、必ず母蜘蛛の元へ帰る
“帰巣”の習性を持っている」
獅子丸の声音は、長い忍の歴史を背負った者だけが持つ重みを帯びていた。
「そして甲賀は、その習性を“術”として仕上げた。」
「捕らえた敵の腹に、その蜘蛛の卵を……植え付ける」
夜叉は息を呑む。
しかし取り乱すことはない。ただ静かに、深く聞き入っていた。
「卵を仕込まれた者は、一時的に解放される。
そして、敵が自らのアジトへ戻った頃、卵は孵化する」
獅子丸は拳を強く握る。
「孵った子蜘蛛達は、宿主の内臓を食い破り、皮膚を裂いて外へ出る。
そして、母蜘蛛の元へ帰るのじゃ」
夜叉の表情がかすかに陰を帯びた。
まるで腹の奥に潜む“何か”の微かな蠢きを感じ取るかのように。
「あの蜘蛛どもは、辿ってきた匂いをそのまま道に残していく。
その匂いを逆に追えば……敵のアジトまで辿れるという事だ。」
稽古場の空気が、急激に冷え込んだようだった。
獅子丸は、真っ直ぐに夜叉を見つめた。
「夜叉……お前の身体には、その“マダラ蜘蛛”の卵が……既に仕込まれておる」
「蜘蛛の卵が孵るのが5日から10日
そして、全ての蜘蛛が孵る頃.....
お前は死ぬ.....」
「ふぅ〜....」
夜叉は目を閉じ、静かに息を整える。
そしてゆっくりと瞳を開いたその瞬間
強烈な覚悟が宿っていた。
「……話して下さり、ありがとうございます、獅子丸殿」
その声音に、揺らぎは一切ない。
「ならば私は、
その蜘蛛に喰われる前に、“帰巣の道”を断たねばなりませんね」
決意を告げた夜叉の横顔に、獅子丸の胸が痛むほど締め付けられた。
闇に呑まれてなお、己より他者を守ろうとする。
その強さと優しさが、獅子丸にはあまりにも眩しかった。
「……夜叉……!」
綾乃が声を震わせる。
溢れだした涙が頬を伝い、ぽろぽろと地面へ落ちた。
「すまぬ……すまぬ夜叉……!」
綾乃は夜叉の手を握りしめ、嗚咽まじりに叫ぶ。
「あど..とき……あのとき、お前の申し出を……私は断らなかった!
本当に……本当にすまぬ……!!」
夜叉は一瞬だけ綾乃を見つめ、
その瞳にそっと微笑を宿した。
「言ったはずよ、綾乃」
涙に震える綾乃の頬へ、静かに指先が触れる。
「あなたに、私の申し出を断る権利はありませんでしたよ」
その声音は優しく、しかし冗談めかすような茶目っ気も含んでいた。
「だって……“年長者の言うことは、絶対”ですもの……!」
綾乃の目が大きく見開かれる。
その瞬間、夜叉はふわりと綾乃を抱き寄せた。
十八の綾乃を、二十三の夜叉が包み込む。
体温は驚くほど弱々しいのに、その腕の力だけは確かな温もりを持っていた。
「夜叉……っ……!」
綾乃は胸元に顔を埋め、子供のように泣きじゃくる。
夜叉「その事を知ってしまった以上は、私は、もう此処にはいられません。
明日、此処を出て行きます。」
綾乃「夜叉!!!」
夜叉は獅子丸に向き直り、静かに息を吸った。
「獅子丸に……これ以上、迷惑は掛けられませんからね」
その言葉には、決意と遠慮と、別れの覚悟すら滲んでいた。
だが、その言葉を遮ったのは獅子丸の低い声だった。
「その必要はない!」
夜叉と綾乃がはっと顔を上げる。
「夜叉、綾乃……聞け」
獅子丸はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「おれは、ここで出来る事も、もう無くなってきていた。
元より、もうすぐ此処を出て行く予定だったのだ」
夜叉の瞳が揺れる。
「だから、夜叉」
「ここを……お前の“最期の場所”に使ってもらっても構わぬ」
「っ!!」
夜叉の表情がはじめて大きく崩れた。
その顔は、驚愕とも、哀しみともつかない。
獅子丸は、そんな夜叉の目をまっすぐに見た。
「綾乃」
名を呼ばれ、綾乃は涙を拭いながら顔を上げた。
「夜叉が刺されてから……何日が経った?」
「……っぐ……ふ、二日だ……」
しゃくり上げながら、綾乃は答えた。
「そうか……ならば、あと三日は“平穏な日々”を送れよう」
「三日……?」
綾乃は目を瞬いた。
獅子丸は続けた。
「この術を受けた者は……卵が孵るまでは体力も回復し、痛みも薄れると聞く。
逆に言えば、孵化の時が来るまでは、通常とほぼ変わらぬ状態で過ごせる」
獅子丸は夜叉に近づき、静かに告げる。
「この三日間は……夜叉、
お前の“望む生活”を送るがよい。
綾乃も……その手助けをしてやれ」
綾乃の瞳が潤み、夜叉の指先がかすかに震える。
三日。
短いが、確かに与えられた猶予。
夜叉は、かろうじて声を絞り出した。
「……獅子丸、お前は、とても優しい男なのですね」
それは泣き出しそうな、微笑とも呼べぬ微笑だった。




