第七十七話 封呪箱再び(捌)
草むらがざわり、とわずかに揺れた。
次の瞬間、蛇楽の身体から淡く滲み出た幻蛇が、スルスルと地面を這い進む。
やがて
カラン。
幻蛇は草影から、綾乃の短剣を大事そうに咥えて戻ってきた。
蛇楽「綾乃、喜べ!! 短剣も無事じゃ!!」
綾乃「よかった……! ありがとう、蛇楽!」
短剣を受け取った瞬間、胸の奥が少し温かくなる。
ほんの一瞬だけ、恐怖と絶望の霧が晴れた。
敵のアジトの森の出口に差し掛かろうとしているが、追っ手の気配はいまだに感じない。
綾乃「それでは帰るぞ。ここは……お狐様にお願いしよう!!」
綾乃は息を整え、狐の窓の印を組もうと両手を上げた。
――だが。
その指先が印を結ぶ直前、
夜叉のかすれた声が鋭い刃のように空気を裂いた。
夜叉「ま、待ちなさい!!綾乃...」
綾乃「……夜叉?」
夜叉はまだ腹を押さえたまま、
しかしその目だけは、痛みに霞むことなく鋭く光っていた。
夜叉は、草むらを抜けながら、微かに眉をひそめた。
夜叉「……どうも、不自然です」
「あまりにも……あっさり、脱出できました」
その言葉に、綾乃も足を止める。
確かにそうだ。
あの八雲が。
そして、あの清海が
ここまで周到に人を追い詰めてきた連中が、見張りも碌につけず、腐った牢に閉じ込めただけで終わらせるなど、考えにくい。
胸の底がぞわり、と泡立つように不安が広がる。
夜叉は苦しそうに息をつきながら続けた。
「絶対……何かあります。
お狐様を呼ぶのは……危険です。
あの者たちに、私たちの“戻る場所”を知られてしまう可能性がある……。」
綾乃「そ、そうか……
……承知した、夜叉。
そんな身体なのに、本当に、すまぬ……」
蛇楽は夜叉に駆け寄り、半ば泣きそうな顔で叫ぶ。
蛇楽「歩いて、隠れながら帰るってこと?
そんなの、夜叉姉がもたないよ!」
夜叉は、その涙をぬぐうように蛇楽の頭を優しく撫でた。
夜叉「ありがとう……蛇楽、なんとか耐えて、見せますから」
夜叉の微笑みは優しい。
だが、その瞳の奥には、
“別の痛み”が、微かに揺れていた。
ーーーー
綾乃たち三人は、あの怪しい聖堂から三里ほど離れた、薄暗い森の奥へと辿り着いていた。
夜叉の呼吸は荒い。
「……っは、はぁ……っ!」
綾乃が腕を支える。
「夜叉! まだ、歩けるか?」
蛇楽は半ば泣き声で叫んだ。
「夜叉姉!! 」
夜叉は必死に足を前へ出そうとしていたが、
「ま……まだ、な、なんとか……歩け……」
そのまま力が抜け、膝から崩れ落ちた。
ガクッ!。
綾乃「だ、駄目だ! やはり、もう夜叉がもたない!」
蛇楽「そ、そんなぁぁ……!!」
蛇楽の目に涙が溢れ、頬を伝って落ちる。
夜叉は苦痛に耐えながらも微かに笑った。
「泣くな、蛇楽……私は……死にはしません……」
蛇楽「ほ、本当か!? 本当なんじゃな!?」
夜叉は、次に綾乃へと視線を向ける。
その眼差しは弱々しいはずなのに、どこまでも真剣だった。
夜叉「綾乃……」
綾乃「なんだ!」
夜叉「……やはり、このまま帰ることは許されません。」
「奴らが、私たちの“本拠地”と“目的”を探っていたことを考えれば……
間違いなく、泳がされています」
綾乃の表情が強張る。
「たしかに……!」
夜の森は静かで、風の音すら息を潜めているかのようだった。
その沈黙の中で、三人はようやく気づく。
敵の掌の上から一歩も出ていないのだと。
蛇楽は涙を袖で拭い、決意を宿した瞳で顔を上げた。
「わ、わかった!
私がこの森の周辺を探ってみる!!」
「蛇様!!!」
ぞわり、と空気が震えた。
蛇楽の背から、濃い瘴気とともに幻蛇が何体も姿を現す。
青白い鱗が月光を受けてぬらりと光り、鎌首が次々と持ち上がる。
蛇楽は両手を胸の前で組み、真剣な声で命じた。
「蛇様お願い……!
注意深く周辺を見てきて!!
絶対に……見逃しちゃダメだよ!!!」
幻蛇たちは、主の言葉を理解したかのようにピタリと静止した。
やがて、
スッ……!
一直線に整列した幻蛇たちが、一斉に鎌首を高く掲げる。
その姿は、まるで森へ突入する軍勢のようだった。
次の瞬間、
ヒュッ……!
幻蛇の群れは音もなく森の闇へと溶け込み、
草木がわずかに揺れるだけで、跡形もなく消えていった。
蛇楽「あとは……蛇様を信じるしかない……!」
夜叉は苦痛を堪えつつ頷き、綾乃は短剣を握り直す。
三人の周囲には、深い森の闇だけが静かに息づいていた。
ーーーー
蛇楽「これで全員が帰ってきた!
え? なになに?……ふむふむ……
特に変わったところはなかった?
わかった!! ありがとう!」
蛇楽はぱっと顔を上げ、綾乃と夜叉に嬉しそうに報告した。
「みんな! 大丈夫みたい!! つけられていない!!」
綾乃「よかった!! 本当に……!」
ほっと胸を撫でおろす綾乃だったが、
その直後、倒れ込んだ夜叉の苦しげな呼吸が耳に戻る。
綾乃「でも……このままでは、夜叉はもう動けそうにない……」
蛇楽「そ、そうじゃ……どうすれば……」
綾乃は夜叉の肩を支えながら、必死に周囲を見渡した。
――そして、はっと息を呑む。
(……この森……前にも通った事がある……。)
(そうだ……あの時も私は満身創痍で……
この辺りで力尽きかけて……)
脳裏に、一人の男の姿が鮮烈に浮かぶ。
頼もしき腕。
鋭い眼光の奥に宿る、不器用な優しさ。
そして、人知れず、綾乃を救い出してくれた男。
綾乃は拳を握りしめ、強く叫んだ。
「獅子丸!!」




