第七十六話 封呪箱再び(漆)
夜叉の腹に突き刺さった、マダラ蜘蛛の針が、ドク……ドク……と脈打ち始める。
そして、何かが、針を通して腹へと注ぎ込まれていく。
夜叉「ぐ……ぁぁぁぁぁぁ!!」
綾乃「お、お願いです!! どうか、お許し下さい!!」
蛇楽「命だけは!!! どうか、命だけはぁ!!」
八雲は、二人の必死の懇願を鼻で笑った。
「へっへっへ……女子は泣き喚くところが、一番おもしれぇ……」
蜘蛛使い・八雲は、耳障りな笑い声を漏らす。
「お前らのツラを見りゃわかる。
アジトの位置も目的も……ただでは吐かねぇってことくらいな。」
八雲の声は、愉悦に濡れていた。
「ひとりずつ、じっくり嬲り殺しにして……
残ったヤツから吐かせる手もあったが」
八雲はちらりと清海に目をやる。
「親方様は、そういう“楽しみ”を嫌うでなぁ。」
「ぐあぁぁぁぁっ……!!」
夜叉の身体が弓なりに反り返り、
喉を裂くような悲鳴が聖堂に響いた。
腹に突き立てられた、五寸の針。
マダラ蜘蛛はその針を深く埋めたまま、まるで“何か”を押し込むように、動かない。
綾乃と蛇楽は、泥の上に膝を崩し落とした。
綾乃「どうか!! 夜叉をお助け下さい……!!
お、お願いします!! お願いします!!!」
蛇楽「どうか……どうか……!!
夜叉姉を殺さないで……!!」
声は涙と泥に濡れ、ほとんど叫びにもなっていない。
それでも二人は額を地面に押しつけ、必死に命乞いを続けた。
その懇願を、八雲は愉悦に満ちた笑みで眺めていた。
夜叉は荒い息を吐き、何度も何度も身体を震わせる。
針の付け根は脈打ち、まるで生き物のようにうごめいている。
やがて
ズブッ。
音を立てて、マダラ蜘蛛の針が腹から抜けた。
「グッ……アアァァァ!!」
抜けた瞬間、夜叉の着物が赤黒く広がった。
鮮血が滲み、地面へ雫を落とす。
八雲は興味が失せたように肩を竦め、淡々と言った。
「よし。……もう終わったぞ。」
その言葉と同時に、
マダラ蜘蛛は黒い“霧”へと溶けるように霧散し、形も匂いも残さず消え去った。
残されたのは
地面に倒れ込む夜叉。
唇は紫に染まり、意識は朦朧としている。
綾乃と蛇楽は、泥と涙にまみれながら、必死に夜叉に声をかける。
綾乃「夜叉……!!
夜叉、しっかりして……!!」
蛇楽「夜叉姉!! お願い……死なないで!死なないでぇ!!……!!」
二人の声音は震え、嗚咽で途切れた。
一度、殺されたような静寂があたりに訪れる。
その中で、夜叉の弱々しい呼吸音だけが、不気味に響き続けていた。
夜叉は、その場にぐったりとしている。
綾乃と蛇楽も、憔悴しきって涙と泥に塗れていた。
八雲は、手を叩くようにして命じた。
「おい、影たち! あいつらを牢に叩き込んでおけ!!」
その声を合図に、暗闇の奥から黒装束の手下たちが音もなく現れる。
彼らは抵抗する暇も与えず、三人の身体を掴み上げ、そのまま館の外へと引きずり出した。
連れてこられたのは、屋敷の裏手にひっそりと建つ、古屋の形をした座敷牢。
軋む戸が閉められ、重い閂が落とされる音が、夜気に鈍く響いた。
――その夜。
牢の前に立っていたはずの見張りは、真夜中に差し掛かる頃には、いつの間にか姿を消していた。
「……うっ……はぁ、はぁ……」
夜叉は腹を押さえ、苦しそうに肩で息をしている。
刺された傷が、激しく痛み出しているようだった。
「夜叉姉……夜叉姉……!」
蛇楽は震える声で呼びかけながら、夜叉の背中を絶えずさすり続ける。
(夜叉を助けるためにも……ここから、何としてでも脱出しないと!)
綾乃はそう心に誓い、差し込む月明かりを頼りに、座敷牢の壁へと近づいた。
壁は古びた木造で、森の湿気をたっぷりと吸い込み、全体にカビが浮いている。
その中でも、ひときわ緑色が濃く、触れただけで嫌な感触が伝わる箇所があった。
綾乃は、腐りかけた壁板にそっと手を当て、力を込めた。
ガサッ……
ガサッ……
綾乃「……やっぱりだ! この壁、木が腐ってる! 壊せそうだ!」
その声に反応し、蛇楽がすぐさま駆け寄る。
同じ箇所を両手で押し込むと、嫌な感触とともに壁が軋んだ。
ガサッ……
ガサッ……
蛇楽「ほ、本当じゃ……! こ、ここを壊せば、逃げられそうじゃ!」
綾乃「蛇楽、手伝え! この板をへし折るぞ!!」
蛇楽「よしっ! 蛇様にも、力を貸してもらおう!」
その瞬間、蛇楽の身体から、淡く揺らめく無数の幻蛇が這い出した。
幻蛇たちは低く唸るような気配を纏い、腐った木の壁に絡みついていく。
綾乃と蛇楽、そして幻蛇たちが、息を合わせて力を込めた。
ギイィィーッ!!
バキバキッ!!
腐った木が悲鳴を上げ、壁板に大きな亀裂が走る。
蛇楽「よっし! もうひと踏ん張りじゃ!」
「せえのっ!!」
綾乃、蛇楽、幻蛇たちは一斉に、崩れかけた壁を押し出した。
バキバキッ!
バキバキッ!!
ついに壁の板は耐えきれず、外側へ、へし折れた。
蛇楽「やった!!! ここから外に出られそうじゃ!」
綾乃は開いた穴から慎重に顔を出し、月明かりの下で周囲を見渡した。
「……よし。見張りも人影もない。逃げるなら、今しかない!」
そう言って、振り返る。
「立てるか、夜叉!」
夜叉「……はぁ……はぁ……。な、なんとか……」
蛇楽に肩を貸してもらいながら、夜叉は歯を食いしばって立ち上がった。
綾乃「行くぞ!!」
その一声とともに、三人は身を低くして外へと飛び出す。
月に照らされた高く伸びた草むらの中へ...
三つの影は、音もなく、闇に溶け込むように消えていった。




