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第七十話 封呪箱再び(壱)

夜叉は膳の前で静かに手を合わせると、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「それでは、有馬での任務も無事完了、ということで……いただきますっ!」


「「いただきます!!」」


綾乃、蛇楽、夜叉の三人は、有馬の里で相次いで起きていた家畜失踪事件を解決し、感謝した里の者たちの計らいで、温泉宿に泊まっていた。


ほのかに檜の香りが漂う客室。

湯けむりにも負けじと、卓上の料理からは勢いよく湯気が立ちのぼっている。


膳の中央には、明石から取り寄せたという見事な鯛の塩焼き。

その脇を固めるのは、瑞々しい山菜の煮浸し、ほくほくに炊き上げられた里芋、そして温泉水で仕立てた、やさしい香りの豆腐汁。


「うわぁ……どれから食べよっかなー」


蛇楽は箸と椀を手に、子どものように目を輝かせている。


「それにしても...」

夜叉は箸を伸ばしながら、感慨深げに言った。

「まさか、家畜を襲っていた者の正体が、河童の一団だったとは……思いもよりませんでしたわね」


「私も、あれには腰を抜かしそうになった」

綾乃は苦笑しつつ頷く。

「でも、蛇楽が蛇様を召喚して、一団を締め上げてくれたおかげで……今回は、誰も殺めずに追い払うことができた」


「ええ。本当にお手柄でしたよ、蛇楽」


夜叉がそう言って、やわらかく微笑む。


「……っ、んぐっ……!」


褒められた当の本人は、口いっぱいに料理を詰め込んだまま、視線を泳がせた。

頬から耳の先まで、みるみる赤く染まっていく。


夜叉は、真っ赤になった蛇楽の様子を楽しむかのように、くすりと微笑みながらとっくりを傾けた。

細い音を立てて、澄んだ酒が、おちょこへと静かに注がれていく。


その一連の所作を、綾乃は、まるで珍しい儀式でも見るかのように、じっと見つめていた。


「ふふん。これは“大人の特権”というものですよ。あなた達には、まだ早いわね」


「なっ――!」

綾乃は思わず身を乗り出した。

「私は、子供ではない!!」


「はいはい」

夜叉はくすくすと笑いながら、おちょこを手に取る。

「でも、お姉さんから見たら」

「二人とも、まだまだ、可愛い子供ですよ〜?」


「わ、わしも子供じゃない!!」

蛇楽も乗っかってくる。


綾乃「お前は子供だろうが!」


蛇楽「ちがわい!!」


瞬間、蛇楽の肩から“幻蛇”がうじゃうじゃ湧き出す。


「おい! 蛇を出すな!! 蛇を!」

綾乃が慌てて叫ぶ。


「夜叉、止めろ! なに笑っとるんだ!」

「だって可愛いんですもの。若いって素敵ね〜」


幻蛇に巻かれた綾乃と、ふてくされる蛇楽。

その様子を見ながら、夜叉は優雅におちょこを傾けた。


ーーーー


食事のあと、三人は露天風呂へ移り、しばし湯の温もりに身を沈めていた。

夜空には薄雲が流れ、湯けむりがゆらりと立ち昇る。


夜叉「こらっ、蛇楽! 泳ぐなと言うておる!!」


「だって、こんな広い温泉、初めてだもん! まるで琵琶湖みたいじゃ!!」

 バシャッ、バシャッ、バシャシャッ!!


「アハハハハッ!」

綾乃は湯船の縁につかまり、思わず笑い声を上げる。

「温泉って、私には良い思い出のひとつも無かったけど……今日は、本当に最高の夜だ!」


その言葉に、夜叉が首をかしげた。

「まあ、温泉に悪い思い出なんて……あるの?」


「あるどころか、最悪だ!」

綾乃は湯をばしゃっと払うと、眉をしかめて続けた。

「人肉御膳に、睡眠薬入りの温泉。危うく“あやつらの食糧”にされるところだった!」


「まぁまぁまぁ! それはなんともおどろおどろしい……!」

夜叉の瞳がきらりと輝き、思わず身を乗り出してくる。


蛇楽が、湯にぷかりと浮かびながら鼻を鳴らした。

「ほれ見い、夜叉お姉は、おどろおどろしい話が大好きじゃ。血なまぐさいのを聞くと目が輝くんじゃ」


「嫌いとは言ってないけど、褒められている気がしないわねぇ?」

夜叉は肩まで湯に沈めながら、どこか嬉しそうに笑った。


バシャッ、バシャッ、バシャシャッ!!


「だから泳ぐなと言うておる!!」


夜叉は腰に手を当て、湯面を蹴りまくる蛇楽へ容赦なく怒鳴りつけた。


「溺れるわよ、ほんに!」


「溺れんわ! わらわは蛇じゃぞ!」


蛇楽は胸を張った、その瞬間。


ずるっ。


「わぷっ!? ぬわっ!? あぶっ!?」


見事に足を滑らせ、情けない声とともに湯の中へ沈みかける。


「ちょ、蛇楽!」

「ほら見たことか!」


慌てて手を伸ばす綾乃と、呆れ顔の夜叉。

しかし次の瞬間には、三人揃って吹き出していた。


夜空には星が滲み、

笑い声は湯けむりに溶けていく。


有馬の湯は、張り詰めていた心の奥、

三人の中に残っていた氷までも、ゆっくりと溶かすかのように、ただ静かに温かかった。


その時だ。


ふと、綾乃の表情から笑みが消えた。


(……なんだ。この気配)


次の瞬間、綾乃の内に宿っていた子供たちの霊が、すうっと身体を抜け出し、湯煙の向こうへ漂い出た。


(どうしたんだ、お前たち……? 何か、言いたいことがあるのか?)


子供たちは皆、ぼんやりとした白い輪郭を纏い、無言でこちらを見つめている。

いつもなら、感情や言葉がそのまま胸に流れ込んでくるのに、今日は、それがない。


その瞳には生気も光もなく、

ただ虚ろな眼差しだけが、綾乃へと向けられていた。


(どうしたんだ……!

 いつものように、わたしの心に話しかけてくれ!)


次の瞬間。


子供たちは、一斉に同じ方向を指差した。


露天風呂から見渡せる、川の向こう岸。

そこに佇む、古びた一棟の建物。


綾乃の背筋を、氷柱を流し込まれたような冷たい感覚が走る。


(あれは……おびただしい邪気だ。

 封呪箱の生贄にされた子供たちが、指差す場所……)


建物の屋根、窓、壁の隙間。

いたるところから、黒い靄のような気配が噴き出している。


それは、ただの怪異ではない。

この世に留まるはずのない“どす黒い何か”が、建物まるごとを喰らい尽くそうとするかのように、渦を巻いていた。


綾乃は湯から静かに立ち上がり、濡れた髪を払いながら、二人へと向き直る。


「……夜叉、蛇楽。あれ、見えるか?」


夜叉は湯に浮かべていた腕を上げ、川向こうへと視線を細める。


「ふむ……なるほど、なるほど。

 この距離では輪郭こそおぼろげですが、

 悪い気が、確かに立ち昇っていますねぇ」


その声音は、いつもの軽口とは違う。

まるで式神を読むかのような、真剣な眼差しで建物を見据えていた。


蛇楽は目をぎゅっと細め、湯から身を乗り出さんばかりに前のめりになる。


「どこじゃ!? どこにおる!?

 私には、なんも見えん!!」


「……あそこは、確かに気になるわね」


湯けむりの中で、夜叉が静かに微笑む。

綾乃も無言で頷いた。


「明日、この宿を発ったら……

 あの建物を、調べてみましょう」


「うむ!」


湯けむりが流れ、川面は月光を受けてきらめく。

だが、その向こう側だけは、まるで光を拒むかのように、闇が淀んでいた。


明日の調査が、吉と出るか、凶と出るか。


三人の胸の奥に、

ほんの小さな不安の灯が、静かにともり始めていた。


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