第六十九話 土佐の剣士と夜叉(肆)
ごろつきは、下卑た笑みを浮かべ、喉の奥で笑った。
「ぐへへへへ……」
そして、背後に控える初老の男を誇らしげに指し示す。
「この先生はのう、一刀流の師範代にまで上りつめたお方じゃ」
「おめえ、この前は剣の腕を自慢しておったのう?」
にやり、と口角が歪む。
「まずはこの先生と立ち会うてみい。
己の腕前を、皆の前で示してもらおうかの」
空気が、ひやりと凍りついた。
「もし負けたら」
「お前の手足を落として、川へ放り込んでやる」
低く、粘つく声が続く。
「そして、女の方は……わしらで“可愛がって”やろう」
「……お、おまんら!」
堪えきれず、叫びが上がる。
それに応じるように、新十郎は一歩踏み出し、啖呵を切った。
「ならば、わしが勝ったらどうするがよ!!」
一瞬の沈黙。
だが、すぐに
「グヘヘへ」
「その時は、わしら全員と勝負じゃ!」
嘲る笑い声が、夜気に響き渡った。
一刀流の男は、低く息を吐いた。
「……お主には、申し訳ないがの」
「娘が病でな。どうしても、金が要る」
「悪く思うな」
その背後で、ごろつきの一人が嗤う。
「先生!!」
「殺すのは、わしらの仕事でさぁ!」
「まずは、木刀で、叩きのめしてくだせい!!」
新十郎は、歯を噛み締めた。
覚悟を決め、腰の木刀を抜く。
「……夜叉殿」
「安心するがよ」
「此処は、命に代えても、夜叉殿だけは守り抜くがよ!!」
だが、その若い言葉には、何の根拠もなかった。
木刀が構えられた、その瞬間。
一刀流の男も、静かに構える。
来る。
そう思った途端、新十郎の背筋を冷たいものが走った。
「……な、なんじゃ……この、間合いは……」
踏み込めない。
振れない。
どこに打ち込んでも、そこには“斬られた自分”しか見えない。
「……全く、隙がない……」
「どこへ剣を振るっても……交わされ、仕留められる未来しか……」
その一瞬だった。
「……ごめん!!!」
ビシュッ!!
ビシュッ!!
視界が、跳ねた。
次の瞬間、新十郎の木刀は宙を舞い、地面を転がる。
「っ!!」
腹に、重く、鋭い衝撃。
「ぐふっ……!!」
息が、抜けた。
胃液が喉までせり上がり、口から吐き出される。
新十郎は、その場に崩れ落ちた。
まるで、拝むように、一刀流の男の前へ。
「ゲヘヘヘヘ!!」
「弱っちょろいのぉ!!その腕でようも自慢してくれたもんよ」
ごろつきがニヤニヤしながら吐き捨てる。
「おめえら!」
「こいつの両手を、引っ張り上げろ!!」
「おらぁ!!」
二人のごろつきに両脇を掴まれ、新十郎の身体は、無理やり引き起こされた。
足が、まるで己のものではない。
力が入らず、地面を擦る。
「……た、頼む……」
掠れ、震える声。
「……夜叉殿だけは……!!」
「それだけは……た、頼む……!!」
乞うているのは、己の命ではない。
ただ、夜叉の命だけ。
新十郎は、声が潰れるまで、泣き叫んでいた。
「へへ……」
「それじゃあよぉ……」
ごろつきの一人が、舌なめずりをする。
「まずは、二度と剣が握れんよう、一本ずつ……切り落としていくぜ!!」
刀が、ゆっくりと振り上げられる。
狙いは、新十郎の腕。
振り下ろされようとした、その瞬間だった。
「ギヤャャャーーーーッ!!!」
人の声ではない。
獣の咆哮でもない。
面の奥から漏れ出た、邪悪そのものの叫びが、闇を引き裂いた。
空気が、震える。
「な……なんじゃ!!」
「ば、化け物か……!!」
そこに、立っていたのは、
鬼の面を被り、
全身からおびただしい邪気を噴き上げた、夜叉。
両手には、恐ろしい出歯包丁。
「せ、先生!!」
「あいつを!!」
「あいつをはやく殺してくだせえ!!!」
一刀流の男は、即座に反応した。
「……むう」
「物怪め……!」
剣を構え、踏み込もうとした、その瞬間。
バシュッ!!
ベシュッ!!
グチャァッ!!!
……音だけが、先に届いた。
一刀流の男は、剣を構えたまま、微動だにしない。
「……せ、先生……?」
次の刹那。
胴に、一本の亀裂。
ずるり、と
上半身と下半身が、ずれ落ちる。
さらに、
首元にも、静かに走る亀裂。
男は、三つに分かれ、音を立てて崩れ落ちた。
ドシャァァッ!!!
「ギャァァァ!!!」
「ほ、本物の……!!」
「化け物だ!!」
「に、逃げろぉぉ!!!」
恐怖に駆られ、背を向けたごろつき達。
だが、遅い。
バシュ!!
ベシュ!!
グチャ!!!
グサッ!!
ベシュッ!!
バシュッ!!!
無数の斬撃音が、夜を切り裂く。
悲鳴は、途中で途切れ、
残ったのは、肉と骨の砕ける鈍い音だけだった。
やがて
辺りは、血の海と化していた。
息をしている悪党は、
もはや、一人もいない。
血に濡れた地の中で、
なお、息をしているのは
新十郎と、夜叉。
ただ二人だけだった。
夜叉は、しばし立ち尽くしたまま、動かなかった。
そして、ゆっくりと
両手を上げ、面を、外す。
露わになった夜叉の顔は、
鬼でも、化け物でもなかった。
そこにあったのは
深い、深い悲しみ。
唇は震え、
瞳は伏せられ、
まるで、自分の犯した行いを、噛みしめるように歪んでいた。
新十郎は、それを
血に濡れた地面に座り込んだまま、震えながら見つめていた。
驚愕。
恐怖。
理解の追いつかぬ混乱。
夜叉が口を開き、
何かを言おうと、
新十郎へ、一歩、近づいた、その瞬間。
「……く、来るな……」
掠れた声。
新十郎は、必死に後ずさりながら叫んだ。
「来るな……!!」
「近寄るな、化け物!!!」
叫びは、夜に張り付いたまま、震えていた。
夜叉の足が、
ぴたりと、止まる。
その言葉は、
どんな刃よりも、深く、
夜叉の胸を、貫いていた。
ただ、外した面を
両手で、強く握りしめる。
夜叉は、ゆっくりとうつむいた。
その瞳に、涙はない。
だが、
泣いているよりも、ずっと深い沈黙が、そこにあった。
新十郎は、息を荒くしながら、身を縮めている。
夜叉の顔を、もう直視できなかった。
……夜叉は、何も言わない。
弁解もしない。
恨みもしない。
怒りすら、見せない。
ただ
血の海を踏み、
音も立てず、背を向ける。
その背中は、
鬼でも、化け物でもなく、
ただ、深い孤独を背負った女の背だった。
夜叉は、そのまま闇の中へと溶けていく。
面は、手に持ったまま。
二度と、振り返らない。
やがて
足音すら、聞こえなくなった。
残されたのは、
血の臭いと、
静まり返った夜と、
膝を抱えて震える新十郎だけ。
新十郎は、
去っていった闇を見つめながら、唇を噛みしめる。
(……助けられたのは、わしなのに……)
その思いは、
声にならず、胸の奥で潰えた。
夜は、何事もなかったかのように、
ただ、冷たく、静かだった。
翌朝。
清蓮神社。
朝靄の中、境内には澄んだ空気が満ちている。
「……?」
綾乃は、違和感に気づき、夜叉を振り返った。
「どうした、夜叉」
「今朝は、やけに元気がないのう」
夜叉は、俯いたまま、肩を小さく震わせている。
次の瞬間、
「うっ……うう……」
堰を切ったように、声が漏れた。
「わ、私を……」
「私を、包んでくれるほどの……」
顔を上げ、涙を滲ませて叫ぶ。
「つ、強い男は……」
「この世に……おらんのですかぁぁぁ!!!」
「なっ!?」
綾乃は、目を見開く。
「ど、どうした!?」
「夜叉! 泣いておるのか?!!」
夜叉は、両手で顔を覆い、嗚咽をこぼす。
「何があった!!」
「昨夜、何があったのじゃ!!」
「夜叉!!」
「夜叉!!!!!」
夜叉は、理由を語らず、ただひたすらに泣き続けた。




