第六十八話 土佐の剣士と夜叉(参)
新十郎と夜叉が出会ってから、三日が経った。
「夜叉殿!!!!」
背後から飛び込んできた大声に、夜叉は足を止め、肩越しに振り返る。
そこに立っていたのは、新十郎だった。
だが。
「……どうされたのです、そのお顔は」
目の上は紫色に腫れ上がり、頬には擦り傷。
一歩踏み出すたび、足を庇うような、ぎこちない歩き方。
夜叉は眉をひそめ、静かに問いかける。
「……何があったのです」
新十郎は一瞬、視線を逸らし、頭の後ろを掻いた。
照れくさそうに、だがどこか誇らしげに笑う。
「……ほんに、恥ずかしい話なんじゃが」
そして、観念したように告げた。
「わしは、あの次の日、新陰流に道場破りに行ったがよ。
……そしたらこの通り、見事に返り討ちじゃ」
「……は?」
夜叉の口から、思わず素の声が漏れる。
「そ、それは……そんな無茶をしたのですか?!」
「いやぁ……京といえば新陰流
一度は、試してみとうなったがよ……」
新十郎は苦笑しながらも、瞳の奥に悔しさを滲ませていた。
夜叉は大きく息を吐き、額に手を当てる。
「まったく……命があっただけ、奇跡ですよ。
相手が本気であれば、今ごろ」
そこまで言って、言葉を切る。
「はは……全くじゃ。夜叉殿の言うとおりぜよ」
新十郎は、腫れた頬を気にも留めず、朗らかに笑った。
「じゃども、素晴らしい立ち会いじゃった!
たまるか! これほど、こちらの“間”を読まれたのは、初めてぜよ!」
そこに、後悔の色はなかった。
あるのはただ、剣に身を捧げる者だけが抱く、純粋な感嘆。
夜叉はその表情を静かに見つめ、ふっと小さく息を吐く。
「……まったく。懲りない人ですね」
「そしてじゃ!」
新十郎は、ぱっと顔を明るくする。
「その後のう、師範に何度も土下座して頼み込んで、
門下生にしてもろうた!」
「まあ……!」
夜叉の声が、思わず弾む。
「それは……良かったですわね」
「師範も、わしの太刀筋を褒めてくれてのう。
今のわしは、やる気が、みなぎっちゅうがよ!!」
ぎゅっと握り締められた拳。
そこから溢れる熱が、新十郎の全身を巡っているのが分かる。
夜叉は、彼の腫れた目元へと視線を落とした。
打撲と痣に覆われた顔、
だが、その奥には、曇りひとつない光が宿っている。
若さゆえの、まっすぐで、折れぬ希望。
確かに、それはそこにあった。
「……そしてじゃ」
新十郎は、少しためらうように夜叉の両手を取り、
ぎゅっと、強く握り締めた。
「わしは、おまんに、一目惚れしたがよ」
真剣な眼差しで、まっすぐ夜叉を見つめる。
「わしは、最速で強うなってみせる。
そのための、どんちゅう試練も、死にものぐるいで越えてみせる!!」
「一年……いや、半年!!!」
「わしが、夜叉殿の言う、理想の強か男にば、なった暁には」
「わしの女になってほしいがよ!!」
その言葉に、夜叉の胸は、確かに揺れた。
惹かれていないわけではない。
愚直で、真っ直ぐで、剣に命を懸けるその姿に、
芽吹きかけた想いが、ほんの少しはあった。
だが同時に、脳裏をよぎる。
これまで斬ってきた者たちの顔。
血の匂い。
夜の闇に溶ける、数えきれぬ命。
(……この男には、重すぎる)
自分の背負う業は、
普通の男と分かち合えるような、軽いものではない。
だからこそ、夜叉は逃げずに言葉を紡ぐ。
「……ごめんなさい」
小さく、はっきりと。
「今は……そんなこと、考えられません」
新十郎は、一瞬だけ言葉を失い、そして、苦笑した。
「……たしかに。
これは、今言う言葉じゃ、なかったぜよ」
自嘲するように、肩を落とす。
「今の……こんな弱いわしに言われたち、
何の説得力も、なかったがね……」
視線が落ち、拳が、わずかに震える。
「じゃがども!!」
新十郎は、顔を上げた。
「わしは、絶対に、諦めん!」
拳を胸に当て、叫ぶ。
「半年後!
必ず、強うなってみせる!」
「その時は……
もう一度、改めて、
夜叉殿に、告白するき!」
二人の間に、静かな熱が満ちていく。
それはまだ、小さく、未熟な炎。
だが確かに、
未来へと燃え広がる火種だった。
ーーーー
その時。
背後から、粘つくような声が響いた。
「ぐへへへ……
やっと、見つけたわい」
夜叉と新十郎が同時に、気配を察する。
「どうじゃ!!
わしの言うとおりじゃったろうが!!」
足音が、複数。
乾いた地面を踏みしめる音が、じわじわと近づいてくる。
「ここら辺を、うろついとったら、
必ず見つけれる言うたじゃろうが!!」
振り返った先!
そこに立っていたのは、あの時のごろつきだった。
しかも、今回は三人ではない。
背後には、武装した男たちを十数人。
剣、槍、棍棒
統一感のない凶器が、無遠慮に光を放っている。
新十郎は、思わず息を呑んだ。
「……ちっ、数を揃えてきたがか」
ごろつきの一人が、前へと進み出る。
媚びるような笑みを浮かべ、後方の男に頭を下げた。
「先生、お願いしやす!
こいつらじゃ!
わしらの顔に、思いきり泥を塗りよった二人組は!!」
その“先生”と呼ばれた男が、一歩、前へ出る。
重たい気配。
場の空気が、一段低く沈む。
夜叉は、静かに息を整え、視線を細めた。
――血の匂いが、近い。
新十郎は、無意識に夜叉の前へと半歩、出る。
「……夜叉殿。
どうやら、また面倒ごとが、来たようじゃの」
だが、その口元には、
恐れよりも、覚悟の色が滲んでいた。




