表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
66/89

第六十六話 土佐の剣士と夜叉(壱)

挿絵(By みてみん)


夜叉は大衆酒場の奥、灯りの陰に身を沈め、一人静かに盃を傾けていた。


火入れされた酒の香りが、鼻先をくすぐる。

喉を滑り落ちる温みを味わうように、ゆっくりと飲み下し、唇をわずかに濡らす。


「……ふふ。やはり、仕事終わりの一杯は、格別ですね」


この店の肴は、正直に言えば癖が強い。

発酵の匂い、脂の重さ、荒っぽい塩気、

上品とは言い難い品ばかりだ。


だが。


夜叉は干し魚を一片、細い指でつまみ上げる。

炙られた表皮から立つ香ばしさ、凝縮された海の匂い。


「……これは、いい」


歯を入れると、じわり、と旨味が広がる。

強めの塩が舌を刺激し、その瞬間、酒が欲しくなる、いや、求めさせられる。


盃を傾けるたび、酒と魚が互いを引き立て合い、味が深く、艶を帯びていく。


「粗野ですが……正直で、嫌いではありません」


微かに笑みを含んだ声。

長い睫毛の影が、伏せた瞳に落ちる。


血と呪いに塗れた日々の合間。

この一杯、この一口だけは、誰にも奪わせない。


夜叉はそう言わんばかりに、もう一度、静かに盃を口元へ運んだ。


とっくりの酒を全て飲み干し、少しほろ酔いになり、席を立とうとした時の事だった。


「よう、姉ちゃん」


酒と脂に濁った声が、背後から絡みついた。


振り返れば、頬を赤らめたごろつき三人が、にやにやと下卑た笑みを浮かべている。


「女ひとりで晩酌たぁ、なかなか粋じゃねえか。だが、少し寂しいじゃろう?」

「わしらがよ、一緒に付き合ってやるよ」


夜叉は盃を置き、ゆっくりと立ち上がった。

乱れぬ所作で衣の裾を整え、柔らかな微笑みを浮かべる。


「いえ。結構です」

「そろそろ、帰りますので」


だが、その一歩を踏み出す前に、男の声が荒くなる。


「つれねえ事を言うなや!」

「夜は、まだまだこれからじゃろうが!」


次の瞬間、


ごろつきの一人に、ぎゅっ、と手首を掴まれた。


「……や、やめて下さい」


震える声でそう告げ、必死にその手を振り払おうとする。

だが、指は外れない。

むしろ、逃がすまいとするように、力はさらに強まった。


ガタッ!!


椅子が派手な音を立てて倒れ、酒場の喧騒が一瞬、凍りつく。


無数の視線が、夜叉へと集まった。

だが、誰一人として、男を咎める者はいない。


盃を持つ手が止まり、笑い声が引き攣る。

見て見ぬふりという名の沈黙が、酒場を覆っていた。


夜叉は俯き、長い睫毛の奥で、静かに息を整える。


(……なるほど)


この場に、助けはない。


あるのは、夜の闇と、

掴まれた、この手首だけ。


「まあ、おとなしく座れや、お前も、女一人でこんな所に来るって事は、男を漁りに来たんじゃろうが」

「だから、わしらが相手をしてやろうって言っておるじゃろうが!」


「恥ずかしがらんと、さあさ!」


下卑た声が、さらに距離を詰めてくる。

夜叉のこめかみが、わずかに引きつった。


(……そろそろ、我慢も限界ですね)


どう叩き伏せるか。

骨を折るか、関節を外すか

冷静に、そして淡々と算段を巡らせた、その時だった。


「おまんら!!」


張り裂けるような声が、酒場の空気を切り裂いた。


「何をしとるがか!!」


入口に立っていたのは、たった今、酒場へ入ってきたばかりの若い男。

夜叉とごろつき達の様子を一目見るなり、迷いなく叫んだのだ。


歳は二十五ほど。

着物は擦り切れ、ところどころ破れ、髪もぼさぼさ。

身体には旅の汚れがこびりついている。


だが。


その体格は、がっちりと逞しく、無駄な贅肉のない鍛え上げられたものだった。

一歩踏み出すだけで、床板が軋む。


男は、ごろつき達を睨み据え、低く、怒りを孕んだ声で吐き捨てる。


「男が三人も揃って、女子をいたぶるたぁ……」

「恥ずかしくねえがか!!」


酒場の視線が、一斉に男へと集まった。

先ほどまで沈黙を保っていた空気が、微かにざわめき始める。


夜叉は、掴まれた手首の感触を忘れたように、ゆっくりと顔を上げた。


「薄汚え、浪人風情が……」

ごろつきの一人が、鼻で笑いながら吐き捨てる。

「わしらに楯突こうってのか。ええ度胸してるじゃねえか!!」


その声を合図にしたかのように、三人の男の目つきが変わった。

獣じみた光を宿した瞳。

腹巻の奥から、ぎらりと鈍い光を放つドスが抜き放たれる。


「ギャー!!」


悲鳴が上がり、酒場は一気に修羅場と化した。

客たちは椅子を蹴倒し、酒をこぼし、我先にと出口へ殺到する。

戸口が叩き開かれ、夜風とともに恐慌だけが店内に残された。


「へへへへ……にいちゃん。

よくも、わしらに恥をかかせてくれたのお、

もう後戻りは、できんぞ!!」


嘲るような笑い声が、酒場の空気を引き裂いた。


男は、ゆっくりと顔を上げる。

視線の先にいるのは、ドスを構えたならず者たち。


「……おまんらが、その気ながやったら」


低く、腹の底から搾り出すような声。


「わしも、容赦せんぜよ。」


次の瞬間!

背に負われた木刀が、鞘走りの乾いた音を立てて抜き放たれた。


「グヘヘヘ!!面白え!やってやるよ!!」


鋭く、一歩。

踏み込んだ床板が、ぎしりと鳴った。


酒場に満ちていくのは、

言葉ではなく

これから流れる血の予感だけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ