第六十四話 静川村(漆)
「やりますか?」
夜叉は低く囁き、手にした能面をゆっくりと顔元へ持ち上げた。
白木に刻まれた能面が、仄暗い光を受けて歪んで見える。
その瞬間
「待って!!」
鋭い声が空気を裂いた。
綾乃は一歩踏み出し、今にも飛びかからんとする夜叉の腕を制する。
「奴等……何かを語りたがっている!!」
張りつめた沈黙。
怨念が渦巻く空間の奥で、耳鳴りのようなざわめきが蠢いていた。
「ならぬ!! ならぬぞぉ!!」
床に膝をついた頼重が、血に濡れた口元を歪め、必死に叫ぶ。
「穢らわしき怨霊の戯言など、聞くに値せぬ!!
耳を貸せば、魂を喰われるぞ!!」
その叫びを、綾乃は振り払うように首を振った。
「夜叉……私の身体に、手を当ててくれ」
「私の魂に……奴等の声が、直接訴えかけてくる。
お前にも、きっと聞こえるはずじゃ」
夜叉は一瞬、逡巡した。
だが、やがて能面を下ろし、覚悟を宿した瞳で頷く。
「……わかりました」
そっと、不可思議な物に触れるように。
夜叉は綾乃の背に手を当てた。
「やめろォォ!! 聞くな!! きくなぁぁぁ!!」
頼重の怒号が、獣の咆哮のように響き渡る。
だが、その声は、二人の意識にはもう届かない。
夜叉の視界が、反転する。
世界が溶け、沈み、闇の奥へと引きずり込まれていく。
夜叉は、綾乃の意識の深層へと、静かに潜り込んだ。
ーーーー
又次郎は、土間に置いた米俵を見下ろし、荒れた指で頭を掻いた。
これでは、とても冬は越せない。
「こんなに年貢を取られちゃあよ……さすがに家族を養っていけねえ」
沈んだ声に、囲炉裏端に腰を下ろしていた文六が顔を上げる。
「聞いた話だがな。ここから二里ほど行った先、柳生様が管轄している村じゃ、年貢の比率が……この村の、ほぼ半分らしいぞ」
「半分、だと……?」
又次郎は思わず唸り声を漏らした。
同じ百姓で、同じ年に、どうしてここまで違うというのか。
「やはり……この現状を、頼重様に直に聞いてもらわねえといかん」
「のお、源助殿」
呼ばれた源助は、深く息を吐き、静かに頷いた。
「頼重様は、確かに厳しいお方じゃ。だがな……我らが飢え死にしてしまっては、年貢も何もありゃせん」
「村を預かるお方なら、それくらいの道理は、きっとお分かりのはずじゃ」
やがて源助は、覚悟を決めたように顔を上げた。
「我ら村の代表として、責任を果たさねばなるまい。
……よし、行こう」
ーーー
襖の外から、控えめな声が差し込んだ。
「頼重様。静川村の者どもが……何やら、話があるとの事で、屋敷の前に参っております」
酒杯を傾けていた頼重は、眉一つ動かさず、鼻で笑った。
「ほう。この宴の最中に、とは無作法な連中よ」
左右には、艶やかな着物を纏った妾たち。
白い指が頼重の肩や腕に絡みついている。
「まあ良い。ちょうど、何か良い余興でも欲しいと思うておったところじゃ」
頼重は杯を置き、薄く笑みを浮かべた。
「通せ」
ーーー
静川村の三人が広間へ足を踏み入れた瞬間、息を呑んだ。
金箔の障子、香の煙、山のような料理。
そして、その中心で、両腕に妾を侍らせ、王のようにふんぞり返る男。
それが、頼重だった。
「……で?」
頼重は、値踏みするような視線を三人に向ける。
「今、なんと申した。
年貢が……他の村よりも高すぎる、じゃと?」
空気が凍りつく。
「それはつまり、どういう意味じゃ?」
頼重の口角が、ゆっくりと吊り上がる。
「何か? わしが年貢を着服しておるとでも、言いたいのか?」
「そ、そんな……滅相もない!」
源助は慌てて膝をつき、額を床に擦りつけた。
「おお、そうか」
だが、次の瞬間。
「お前ら家畜の分際で」
頼重の声は、氷のように冷たくなった。
「わしに物申すだけでなく、盗人呼ばわりとはのう。
死罪でも、生ぬるいわ!!」
「そ、そんなぁ……! ご、ご勘弁を!」
又次郎の声は、情けなく震えた。
「よし」
その様子を見て、頼重は、ふと楽しげに目を細めた。
「良い事を思いついたぞ」
彼は妾たちの顎を持ち上げ、戯れるように囁く。
「お前達、わしの弓の腕前を見たいと申しておったのう?」
妾たちは、きゃあと嬌声を上げて頷いた。
頼重は立ち上がり、三人を指差す。
「此奴らを、廊下の先に縛りつけい」
「……へ、へい……」
使用人たちは、怯えながらも命令に従う。
「やめてけろ! やめてけろぉ!!」
「どうか! 命だけはぁ……!!」
「……無念……!」
三人の悲鳴と嗚咽が、豪奢な屋敷に虚しく響いた。
やがて、頼重の前に、磨き上げられた一張りの弓が差し出された。
黒漆の胴に、金の細工。
弦は白く張り詰め、静かに殺気を湛えている。
「まあ……」
妾の一人が、うっとりとした声を漏らした。
「なんと見事な弓ですこと。まるで、美術品のよう……」
その言葉に、頼重は満足げに喉を鳴らした。
「わかるか」
弓を受け取り、愛でるように撫でる。
「これはな、貴重な名弓よ」
頼重は、ゆっくりと視線を上げ、縛られた三人を見据えた。
「都の名工が、三年の歳月を費やして打ち上げた一張りじゃ。
百の的を射抜き、百一の命を奪っても、微塵も狂わぬ」
妾たちは、くすりと笑う。
「まあ……怖いお話ですわ」
「でも、頼重様の腕があってこそ、ですものね」
「そうじゃ」
頼重は、愉悦に満ちた笑みを浮かべる。
「弓も人も、使い道を誤らねば、よく働く」
そう言って、矢を番えた。
ぎり、と弦が鳴る。
張り詰めた空気が、廊下を満たした。
「さて……」
頼重は、的を見るような目で三人を見渡す。
「どれが、最初じゃ?」
ピュン。
次の瞬間、悲鳴が、豪奢な屋敷に吸い込まれていった。




