第六十一話 静川村(肆)
「……私、蛙が大の苦手でして」
気づけば夜叉は、いつの間にか能面を外し、
何でもないことのように、綾乃へと声を投げていた。
「……え?」
綾乃が呆然とした、その直後。
金と銀の二匹の大狐も、ゆっくりと尾を揺らす。
「我らも、よく働いた」
「後は、お前に任せる」
そう言い残すと、光の粒子となって、ふっと掻き消えた。
「……え? え?」
綾乃は、状況が理解できず、目を瞬かせる。
「わ、私も蛙は.....」
言い切る前だった。
「……ゲコ」
「ゲコ……」
湿った鳴き声が、床下から這い上がるように低く響いた。
次の瞬間。
「ぐ、ぐるしいゲコッ!!!」
「痛い! 身体中が!!」
蛙の苦悶の叫びとともに
ビシャァァァァァーーーーッ!!!
丸太ほどもある、肉厚でぬめついた舌が、
一直線に綾乃へと叩きつけられた!!
「っ!!」
綾乃は反射的に床を蹴り、後方へ跳躍する。
轟音。
舌は彼女が立っていた床板を粉砕し、
木屑と埃を派手に撒き散らした。
間一髪。
背筋を、氷のような感覚が走る。
「い、いだいー!!!」
「グッグッエエロ!!」
怒り狂った咆哮。
ビシャ!!
ビシャァァァァァーーーーッ!!!
大蛙の舌が、羽虫を打ち落とすように、
執拗に綾乃を狙う。
見切る。
気配を読み、
紙一重で、かわす!!
だが
次の瞬間!!
グギュ〜〜.....。
「グエッコロ!!!」
ブッシャァァァァーーーーッ!!!!
全身のイボが一斉に弾け、
赤黒く、悪臭を放つ膿が噴き出した!!
「うわっ!!!」
咄嗟に身を翻し、直撃は免れる
だが。
飛沫の数十滴が、確かに身体に当たった。
ジュッ!!
衣装に当たった部分が、煙を上げて溶け落ちる。
「っ……!!」
ふくらはぎの皮膚に触れた箇所も、
焼けるような激痛が走り、白い煙が立ち昇った。
綾乃の足が、わずかに揺らぐ。
その隙を
「ゲコッ!!!」
大蛙が、跳んだ。
屋敷を揺らすほどの跳躍。
見上げた先には、
月光を反射する、巨大で白い腹。
「っ!!」
真上から、質量の塊が落ちてくる!!
ドシャァァァァァーーーーッ!!!!
床が砕け、衝撃波が走る。
綾乃は、床を蹴り、
回転しながら転がり
寸前で、圧死を免れた。
「ゲコッ!!!」
間髪入れず、
さらに大蛙が跳躍する。
「くっ!!」
綾乃は歯を食いしばり、
蛙が放つ闘気の流れを、瞬時に読み取る。
「来る!」
ドカァァァァァーーーーッ!!!!
凄まじい衝撃音!!
だが
綾乃は、わずかに身体を捻り、
紙一重で、それをかわした!!
荒く、息を吐く。
胸が、激しく上下する。
それでも、
綾乃の瞳は、揺れていなかった。
「……見えた!!!」
「次で……勝負だ!」
その言葉を合図にするかのように
再び、大蛙は大きく跳び上がった。
決着の瞬間が、迫っていた。
綾乃は、目を細める。
蛙の跳躍。
最高点。
そこから落下するまでの、わずかな軌道。
読める。
次の瞬間、綾乃は駆け出していた。
蛙が、最高跳躍点に達する
その、直前。
「今っ!!」
白く膨れた腹へ、
スススススススッ!!
短剣を、滑らせるように走らせた!!
ドッシャァァァッ!!
肉が裂ける、生々しい音。
腹部は大きく切り裂かれ、
中から臓物が、血とともに噴き出した。
巨体が、重力に引きずられるように落下していく。
だが、綾乃は、もうそこにはいない。
勝負は、すでに決していた。
ベッシャァァァーーーッ!!!
凄まじい音とともに、大蛙の巨体が叩きつけられる。
大広場は一瞬で血の海と化し、
ビチャッ、ピチャッ、ピチャッ、チャッ。
返り血が、雨のように綾乃の身体を濡らした。
「……もう、いや!!」
綾乃は叫ぶ。
「こりごりだ!!」
その声に応えるように、
奥の部屋から夜叉が、神妙な面持ちで姿を現した。
「ごめん!! 本当にごめんなさい!!」
「蛙だけは、どうしてもダメで」
すまなそうに、両手を合わせ、深々と頭を下げる。
「もうっ!!!」
綾乃は睨みつける。
「これで、一つ借りだからな!!」
「りょ、了解でございます!!」
その時だった。
「……う、うぅ〜〜」
微かな呻き声が、
血溜まりの向こうから聞こえてくる。
「……?」
綾乃が、思わず目を凝らす。
蛙の腹のあたり。
裂けた横腹の下から
人の、両手が伸びていた。
「……誰かいる!」
綾乃は即座に声を上げる。
「助けなければ!!」
「両手を引っ張って、腹の中から引きずり出しましょう」
夜叉が、珍しく迷いなく前に出た。
先ほどのことを挽回しようとしているのか、その動きは早い。
「わかった」
「じゃあ……行きますよ!」
「……せえの!!」
二人は声を合わせ、
蛙の腹の下へと手を伸ばした。
ずるり。
引きずり出されたのは、
蛙のように、身体中に無数の吹き出物を抱えた男だった。
「ぐ……ぐるしい……」
「いたい……!!」
男は床に転がり、身体を丸めて苦悶に喘ぐ。
「だ、大丈夫……です、か」
夜叉は思わず駆け寄ろうとしたが。
鼻を突く、耐え難い悪臭。
「……っ」
足が、止まる。
「この男....い、一体……何者だ」
綾乃も戸惑いを隠せない。
「生きている者が、一人もいなかったこの館で……なぜ、この男だけが……」
そして、何より
その男の様子が、
つい先程まで生きていた、
あの大蛙と、あまりにもよく似ていた。
同じ苦悶。
同じ呻き。
同じ、歪んだ呼吸。
綾乃は、嫌な予感を拭えぬまま、
床に転がる男と、血に沈む蛙を、交互に見つめる。
本当に、終わったのだろうか。
その疑問だけが、闇の家に重く残っていた。




