第五十九話 静川村(弐)
ひっそりとまるで息を潜めているかのように、
広大な武家屋敷は闇の中に佇んでいた。
綾乃と夜叉、権治は、息を殺し、軋む音ひとつ立てぬように足を運んだ。
やがて、朽ちかけた表門が視界に入る。
「……ここから、中に入るんじゃ」
権治が持ってきた鍵を取り出す。
金属が触れ合う、かすかな音が、異様に大きく響いた。
――カチリ。
錠が外れ、門が、わずかに開いた、その瞬間。
「待って!」
「……何か、様子がおかしい」
綾乃が、権治を、静止させた。
怪訝そうに夜叉が振り返る。
「おかしい、とは?」
綾乃は答えず、そっと扉の隙間に目を寄せた。
そこに見えたものは、中庭に、蠢く“気配”。
人影。
いや、人であった“もの”。
使用人の装束を纏う者、
幼い子供の姿、
顔を伏せたまま佇む妾らしき女、
数え切れぬほどの霊が、庭一面に滲むように漂っていた。
「……中に、沢山の霊がいる」
「使用人や、子供、それに……妾まで……」
夜叉は一瞬だけ息を呑んだが、すぐに冷静さを取り戻す。
「それは、いつも貴方が視ている亡者でしょう?」
「さっき権治殿が言っていました」
「この屋敷の主は、家族も家の者も、皆殺しにしたと」
しかし綾乃は、ゆっくりと首を横に振った。
「……違う」
低く、確信を帯びた声だった。
「殺された霊のほとんど……いや、全員が」
「成仏も出来ず、ここに縛りつけられるなんて……」
「そんな事は、あり得ない」
綾乃の視線は、闇に沈む中庭の奥へと向けられる。
「ここには、“殺し”とは別の、何かがある」
まるで三人の侵入を、待ち構えていたかのように屋敷は、沈黙したままだった。
「相変わらず、気味の悪いことを抜かす女子どもじゃ!」
権治は吐き捨てるように言い、中庭へと顎を突き出した。
「じゃが、わしが見るに……中庭には、何もおらん」
「闇しかないじゃろうが」
苛立ちと恐怖を誤魔化すように、声を荒らげる。
「わしは、早う仕事を終わらせて、この場から立ち去りたいんじゃ!」
「さあ、いくぞ!!」
一歩、踏み出そうとする権治。
「待ってください!」
綾乃は弾かれたように叫び、地を踏みしめる。
両手を胸元で交差させ、指先を素早く組み替えた。
――印。
空気が、ぴん、と張り詰める。
次の瞬間、綾乃を中心に、円を描くように淡い光が広がった。
床石の上を滑るように、幾重にも重なる光の輪が巡り、
やがて、人が三人、身を寄せ合って立てるほどの結界を形作る。
暗闇の中で、その結界はほのかに輝き、
霊感のない権治の目にも、はっきりと“そこにある”と分かるほどだった。
「な、なんじゃ……これは……」
息を呑む権治をよそに、綾乃は一歩も動かず、強い声で告げる。
「権治殿、夜叉」
「何があっても、この結界から、外へ出てはなりません」
夜叉は黙って頷いた。
三人が表門を潜り、中庭へと足を踏み入れた瞬間、
闇の奥で、無数の“視線”が、一斉にこちらを向いた。
亡者たちの目の色が、変わった。
「た、助けて……助けて……!」
「ここから……解放してくれぇ……!」
「たすけてぇぇ……」
重なり合う声。
子ども、女、老人
生者と死者の区別すら曖昧な、粘ついた嘆願が、四方八方から降り注ぐ。
「……や、やはりじゃ!」
綾乃は歯を食いしばり、叫ぶ。
「ここの霊たちは……何かの呪縛に、縛られておる……!」
ギシ……ギシギシ……ガリ……ガリ……
結界が軋む音が、空気を削るように響いた。
それは、霊感のない権治の耳にも、はっきりと届く、異様な音だった。
「ひっ……!」
夜叉は肩を竦め、どこか諦めたように息を吐く。
「あ〜あ……また、いつもの現象ですね」
「綾乃と一緒に行動すると……どうして、毎回こうなっちゃうんでしょうか」
「そ、そんな言い方は……」
「ちょっと、傷つく……」
そんなやり取りを遮るように、
権治が頭を抱え、叫び声を上げた。
「おい!!」
「わ、わしの……頭の中で……!」
権治の意識の奥へ、無数の“声”が、雪崩れ込んできたのだった!
(お前の中に、入らせろ)
(ここから、出してくれ)
(意識に、潜り込みたい)
「なんじゃ!!」
「や、やめろ!! やめろぉぉ!!」
権治は狂ったように首を振り、両手で耳を塞いだ。
まるで頭の中を引き裂かれるかのように、錯乱した叫びが夜に響く。
「ひいぃぃぃぃぃぃ!!!」
「だめ!!! 出ては!!!」
綾乃の叫びは、間に合わなかった。
権治は弾かれたように踵を返し、出口へ向かって駆け出していた。
恐怖から逃げる本能だけに突き動かされ、結界の存在など、すでに眼中にない。
――そして。
結界を、越えた瞬間。
闇が、牙を剥いた。
「!!」
待ち構えていたかのように、無数の霊が我先にと権治へ襲いかかる。
影が、叫びが、怨嗟が、一斉にその身体へと雪崩れ込んだ。
霊たちは、権治に憑依していた。
この館を縛る呪縛から逃れるため、生きた器を奪い合うように。
「げへへへへへ……!」
権治の口が、歪んだ笑みを浮かべる。
「やめろぉぉ!! 拙者の……拙者の身体じゃ!!」
「違う!! この身体は……私のよ!! ちょうだい!!」
次々と声が変わる。
男の声、女の声、老人、子ども、
一つの肉体に、無数の人格が混在し、互いに喚き合う。
それはもはや、人の姿をした“何か”だった。
「権治どの!!!」
綾乃は駆け寄ろうとして、足を止める。
脳裏に、あの言葉が、鮮明に蘇った。
――権治(回想)
『館から戻った者は、一人も正気ではおらんかった』
『笑い、叫び……訳の分からぬことを、喚き続けておった……』
「……まさか……」
夜叉は、能面の奥で目を伏せ、静かに呟く。
「ああなってしまっては……」
「私たちでは、もう……」
言葉は、最後まで続かなかった。
やがて、権治は地面に崩れ落ち、
のたうち回るように痙攣し
ぴたりと、動かなくなった。
しかし、終わりではなかった。
権治に憑依した霊たちが、今度は一斉に苦しみ始めた。
「やめろ……やめてけろぉ……」
「ひぃぃ……こないで……」
「く、苦しい……苦しいぃぃ……!!」
その瞬間、地面が、ぬるりと蠢いた。
まるで生き物の腹が裏返るかのように、
地べたが波打ち、そこから**無数の“手”**が這い出してくる。
焼け爛れ、黒ずんだ手。
腐り、骨の覗いた指。
それらが、逃げようとする霊たちを掴み、絡め取り、
容赦なく、地の底へと引きずり戻していく。
まるで、この館そのものが、逃亡者に報復しているかのように。
悲鳴と怨嗟が絡まり合い、やがて、すべてが闇に飲み込まれた。
再び、辺りには、重苦しい静寂だけが残される。
その光景を前にして、綾乃はようやく腑に落ちた気がした。
「……そういう、ことだったのか……」
この館に立ち寄った者が、正気を失って戻った理由。
帰った先で、家族までもが、原因不明の病に倒れていった理由。
立ち寄った者が、家へ持ち帰ったのは、
憑依した亡者、だけではない。
その亡者に深く染み込み、絡みついた
“この館の穢れ”そのものを、連れ帰っていたのだ。
呪いは、人を介し、家へ入り込み、
触れ、呼吸し、暮らす者へと、静かに伝染していく。
結界の内側で、
綾乃と夜叉は、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
ここは、呪いを“生み続ける”場所なのだと。
二人は、否応なく理解させられていた。




