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第五十六話 斬黒と蛇楽(参)

斬黒は、その夜どうしても眠れなかった。

昼間に見たあの娘,蛇楽の怯えきった顔が、まぶたに何度もよみがえる。


斬黒は、居間の壁に掛けられた妖刀を前に、亡き父・柵治へ語りかけるように目を閉じる。


(おとう……どうして命の重みなんぞ、おいらに教えたんじゃ。

 それを知ってしもうたせいで、明日の“初仕事”……上手く立ち回れんかもしれんのに)


胸の奥がざわつき、寝台に横たわっていても心が落ち着かない。


気づけば斬黒は、夜の奉行所へ向かっていた。

幼い頃から父の仕事を手伝い、奉行所を遊び場同然にしていた斬黒には、中に忍び込むなど造作もなかった。


静まり返った牢内に滑り込むと、木格子の向こうで眠る蛇楽の姿があった。

斬黒は膝をつき、小声で呼びかける。


「……杉田蛇楽。おい、蛇楽。目ぇ覚ませ」


その声に、蛇楽はゆっくりと瞼を開いた。

憔悴しきった体を藁の上に横たえたまま、かすんだ目で格子越しの男を見る。


灯りもほとんどない薄闇の中、

そこにしゃがみ込んでいたのは、明日、自分の首を落とすはずの男・斬黒だった。


「……お前に、聞きたいことがある」


斬黒の声は、囁きにも似て小さく、それでいて逃げ場のない鋭さを帯びていた。


「明日、お前は死ぬ。

 その直前に、お前は何を思うんじゃ。恐怖か……それとも、生を奪われる無念か?」


あまりにも無慈悲な問い。

蛇楽は、胸をざくりと刺されたような気がした。


(なんて残酷なことを、平然と言う男なんだ……)


あの白蛇の事件以来、

蛇楽は人から距離を置き、裏切られぬよう心を閉ざしてきた。

誰にも本音を語ったことなどない。語る理由もなかった。


だが、明日には死ぬ身だ。

そして目の前の男は、自分を斬る処刑人。

だからこそ、蛇楽は決めた。


この不躾で粗野な男にだけは、最後くらい怒りをぶつけてもいいだろう、と。


蛇楽は乾いた唇を開き、かすれた声で言う。


「……死ぬことなんて、恐ろしくない。

 昨日まで心を許し合っていると思っていた者たちに、平気で裏切られる。

 この世のほうが、よっぽど恐ろしい」


蛇楽の吐き捨てるような言葉は、斬黒の胸を鋭く貫いた。


父親の横で、これまで幾度となく“死”を見てきた斬黒。

泣き叫ぶ者、嘆き崩れる者、運命を受け入れて静かに首を差し出す者、

そのどれもが“死の恐怖”に震えていた。


だがいま、目の前の娘はそれを超える“別の恐怖”を語った。


「……頼む。教えてくれ」

 思わず、格子に手を掛ける。

「蛇楽、お前たち家族に……いったい何があった!」


それは“処刑人”としての問いではなかった。

ただ一人の人間として、目の前の娘の苦しみに触れたかった。


蛇楽は、ゆっくりと体を起こした。

怒りに濁った瞳が、闇の中で細く光る。




「……聞いたらきっと後悔する」


そう言うと、蛇楽は、怒りの感情を込めて話しはじめた。


 私利私欲にまみれた役人どもの陰謀に、家族は巻き込まれた。

正義を貫いただけなのに、身に覚えのない罪を押しつけられ、

民衆の罵声を浴びながら、父上も、母上も、姉上二人も、無慈悲に首を落とされていった。


それを聞き終えた斬黒は、この世の理不尽さと恐ろしさを知った。


「たしかに、確かにそれは、死をも超越する恐怖...

お前はそれを、その小さな体で受け止めてきたのか....」


蛇楽は、処刑人を前に、泣き出しそうになる気持ちをグッと堪えた。


ーーーー


斬黒は、胸の内のざわめきを押さえながら、そっと奉行所の帳簿室へ忍び込んだ。

月明かりが障子越しに細く伸び、その光の中で彼の影が静かに揺れる。


斬黒は“穢れの一族”の生まれ。

父親の**柵治さくじ**は、そんな身分に縛られぬほど厳格な男だった。


『身分を言い訳をするな。読み書きと算盤さえあれば、どんな闇だろうと見抜ける』


幼い頃からそう叩き込まれ、斬黒は奉行所の役人顔負けの目と知識を持っていた。


「……あった。やっぱり、裏帳簿が」


震える指先で、一冊の古びた帳簿を取り出す。

そこには、墨がにじんだ数字と名が並んでいた。


鍵もかけられていない。

管理がずさんなのは、自信の表れか、それとも慢心か。


奉行所の横領は、もはや“日常”として定着している。

年貢は水増しされ、その余分な米俵が、今年、どの役人に、どれだけ流されたか


すべて、事細かに記されていた。


「……こいつら、終わってやがる」


怒りとも、呆れともつかぬ息を吐き、斬黒は裏帳簿を胸に抱えた。


ーーーー


そして翌日の正午。

乾いた太鼓の音が一つ鳴り、ついに刑の執行の刻が訪れた。


蛇楽は白装束を着せられ、顔には白い覆い布。

表情は見えない。しかし、その肩がかすかに強張っているのを、斬黒は背後から感じ取っていた。


斬黒もまた白装束。

罪人の介錯に立つ者として、蛇楽の後ろに静かに控えている。


彼らの正面には、奉行所の役人たちが、まるで芝居でも観るかのように椅子にふんぞり返っていた。

その外側、柵の向こうには、大勢の村人が息をのんで押し寄せている。

誰もが、今日の“処刑”を目撃しようと目をぎらつかせていた。


伝吾が、肩肘つきながら権太に話しかけた。


「いやはや、おとといの執行は実に見ものでしたなあ」


「いや〜、あれは本当に……」


伝吾は薄笑いを浮かべ、わざと蛇楽の方へ向けて声を張った。


「杉田家の長女、あれほど清楚な娘が、最後には泣き喚き、

 しまいには、小水まで漏らすとはのう」


柵の外から小さなどよめきが起こる。

伝吾はますます声を大きくし、蛇楽に聞かせるように続けた。


「そして、次女も相当な変わり者であったぞ。

 あやつは最期の瞬間まで、我らの事を悪党と罵っておった、

 我らの様な善人に向かってだ。

 わっはっはっは!

 己の死を前に気でもふれたのかのう。」


蛇楽の肩が、小さく、小刻みに震えていた。


斬黒はその震えを見逃さなかった。

だが彼は何も言わなかった。

すべてを呑み込み、ただ静かに、時を待つ。


乾いた風が刑場を吹き抜ける。

正午の太陽は、あまりにも残酷なほどに明るかった。


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