第五十四話 斬黒と蛇楽(壱)
斬黒は、江戸の闇に沈む“穢れの一族”として生を受けた。
彼の家、山部家は代々「首切り役」を務める家系。
罪人の斬首から、無名の死体の後処理に至るまで、すべてを担う“裏の仕事人”だ。
表向きは幕府に重宝されながらも、武士たちからは蔑まれ、
「穢れを扱う卑賤の家」
「死体の臭いをまとった血の一族」
と、陰で嘲られ続けてきた。
だが、斬黒の父、現役の首切り人 山部 柵治 は、そんな周囲の冷笑を歯牙にもかけぬほどの職人であり、息子にとっても誇り高き男だった。
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斬黒が十歳の頃。
彼はすでに“死”と日常を共にしていた。
柵治の処刑の傍らに立ち、細かな手伝いをこなして来た。
他の子どもなら一度見ただけで逃げ出す光景も、斬黒にとっては“家の仕事”にすぎなかった。
十ニ歳になると、柵治はついに息子へ刀を握らせた。
相手は、処刑を終えたばかりの“死体”。
その重さと温度に、少年の腕は震えた。
だが、一度振り下ろした刃は、驚くほど綺麗に肉を断ち切った。
「斬黒……お前は、山部の血を濃く継いでいるな」
父の声は、どこか誇らしげだった。
斬黒の腕は、日を追うごとに鋭さを増していった。
その眼は、誰よりも真っすぐに“斬る”という行為を見据えていた。
だが、運命は突然、牙をむいた。
斬黒が十四歳の春。
ある罪人が、首台の上で狂ったように暴れ出したのだ。
柵治は冷静に対処しようとした。
しかし次の瞬間、
罪人は拘束を破り、そのまま柵治の指数本を噛みちぎった。
「ぐ……っ!」
父の叫びは、少年の胸を裂いた。
その日を境に、柵治は刀を握れなくなった。
そして、山部家の仕事は、家督も含め、斬黒の肩へと託されることになる。
「斬黒……もう、お前しかおらん」
柵治が差し出したのは、
歴代の山部家の当主しか触れることを許されない、禍々しい刀。
妖刀《魔蛾霧丸》。
鞘の隙間から漏れる妖気に、斬黒の心臓は激しく脈動した。
だが、少年は逃げなかった。
この刃を握った者は、もう後戻りできない。
それを十四の身で理解しながらも、斬黒はゆっくりと妖刀へと手を添えた。
瞬間。
ゾワァァァァッ……!
骨の髄まで凍りつくような怨念の奔流が、刀身から一気に斬黒の腕へと駆け上がった。
“憎い……返せ……殺してやる……”
耳元で何十、何百もの声が囁く。
「な、なんじゃ……こりゃ〜〜〜〜ッ!!?」
斬黒は堪えきれず、悲鳴を上げて刀を床に叩き落とした。
息が荒い。胸が痛い。視界が滲む。
柵治は、その惨状を見ても表情ひとつ変えず、ただ静かに告げた。
「……わかったであろう。それが、我らの役割の重みじゃ。」
父の声は驚くほど穏やかであった。
「お前の太刀筋は、わしよりも遥かに優れておる。
だがな、まだ“人の命の重さ”を知っておらぬ。」
柵治は落ちた妖刀へ視線を落とし、低く続ける。
「首を切るとは、その者の命を断つという事。
その者が生きてきた年月、人との繋がり、信念、未来……
すべてを、この刃で断つのじゃ。」
その言葉に、斬黒は息をするのも忘れた。
胸に圧し掛かるものが、今までとまるで違う。
柵治は、刀を鞘に納めながら語る。
「この妖刀に宿る邪気は、これまで斬られてきた者たちの無念の塊。
憎しみも、悲しみも、絶望も……すべて呪詛となり、
いつしかひとつの“魂の塊”となった。」
「そして、その呪詛は……新しき血を求め始めた。」
斬黒は震える指を握りしめた。
未だ胸の奥に残る怨念の残滓が、心臓を掴んだまま離さない。
「……おと……う……」
やっとの思いで声を出すと、柵治は静かに首を振った。
「これからは、お前がこの妖刀を握る。
強きこころを保て。さもなくば、」
父は息子の瞳をまっすぐに射抜く。
「いずれお前の心も、その妖刀に取り込まれ、喰われる事になる。」
「その事を……肝に銘じよ、斬黒。」
ーーーー
翌朝、斬黒が目を覚ますと、父の姿が見当たらない!
父を探して、居間の襖を開けた斬黒は、愕然とした!
妖刀〈魔蛾霧丸〉で腹を十文字に掻っ捌き自害した、柵治の屍がそこにあった!
その胸元には、一通の遺書が置かれていた。
斬黒は息を呑み、震える手で文を開いた。
――斬黒へ。
「わしが斬首役を退いて一月。
妖刀の呪いか……乾きが、わしの心をじわじわと侵食し始めておった。」
父の筆跡はいつものように力強いが、どこか震えが混じっていた。
「このままでは、いつか自我が保てなくなり、あの刀を求め、無差別に人を殺めてしまうやもしれぬ。」
斬黒の喉がひゅっと締めつけられた。
「よって、わしは本日、自らこの妖刀で命を絶ち、
刀の魂の一部となる道を選ぶ事とする。」
そこまで読んだ瞬間、斬黒の手が止まった。
父は逃げなかった。
呪われても、狂いかけても、家の名を、役目を、息子を守るために、
自ら刀に喰われる道を選んだのだ。
「斬黒よ、己の精神を強く保ち、生きろ!父は、この刀と共にお前を見ておるぞ」
斬黒は泣かなかった。心のどこかで、いずれこのような日が来るとわかっていたからだ。
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斬黒は、三日後に控えた“初めての首切り”を前に、
父が言っていた、
「命を断つということは、生半可な覚悟でできる業ではない」
という言葉の重みを、どうしても自分の身で確かめたかった。
だから、斬黒は牢屋へ向けて走った。
「すみません。おいらが切る事になる罪人に会わせてもらえませんでしょうか。」
看守の権太「穢らわしい首切り人のせがれか、これから殺す者の顔を拝むじゃと?
お前も、親父以上の狂人よのう」
嘲りながらも、権太は顎で合図した。
「お前のお相手は、そこの牢だ」
木格子の向こう....。
斬黒は息を呑んだ。
そこにいたのは、自分よりも年端のいかぬ少女だった。
痩せ細った肩が、止めどなく震えている。
瞳は恐怖と絶望に濁り、その胸は小鳥のように波打っていた。
武士は鼻で笑い、牢の中の少女を爪先で示した。
権太「こいつの父親はな、天下の徳川家に謀反を企てた極悪人よ。
ゆえに一家もろとも死罪というわけだ」
淡々と告げられた言葉のひとつひとつが、斬黒の胸に重く沈んだ。
権太「両親と姉二人は、昨日すでに他の者に斬らせておる。
残るはこいつだけよ」
まるで余り物でも扱うような口調だった。
そして権太は、にやりと笑って言った。
「こいつは、“お前の初仕事”のためにわざわざ残しておいてやったのよ。
ありがたい計らいだろう? 感謝せい」
初めての首切りを“贈り物”のように言われ、斬黒の胃がきゅっと縮んだ。
それでも、処刑人の家に生まれた者としての作法だけは忘れられない。
「……あ、ありがとうございます」
権太は満足げにうなずくと、木格子越しに少女を指差した。
「こいつの名は、杉田 蛇楽。
せっかく来たんだ、よう顔を拝んでおけ」
その名を聞いた瞬間、少女はピクリと肩を震わせた。
だが顔を上げることはしない。
小刻みに揺れる肩が、彼女の恐怖と孤独を物語っていた。
斬黒はただ、木格子の向こうのその少女を見つめることしかできなかった。




