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第五十二話 三条河原の駒姫(参)

人は死ねば、

たとえ怨霊となり果てても、

日が経つごとに、急速に怒りや悲しみを忘れていき、

やがて霧のように魂そのものが軽くなり、

自然と天へ帰っていく。


それが“流れ”であり、理である。


だが。


綾乃の腕の中に抱かれた駒姫は、

そのどちらにも属していなかった。


邪気もなければ怨念もない。


ただ真っ白で、傷ましいほど純真な、

まるで“祈り”だけで出来たような、美しい霊だった。


二十四年という長い時を経てなお、

この世に留まり続けているのが、

むしろ不自然だった。


(どうして……?

普通なら、とうに天へ昇っているはずなのに……)


綾乃は膝をつき、

そっと駒姫の肩へ手を添える。


「駒姫様……」


夜風に揺れる白い袖が、

まるで涙のようにそよいでいる。


綾乃は、駒姫の白い頬に手を添え、

落ち着いた声で問いかけた。


「駒姫様……あなたは一体、何に未練を残しているのですか?」


夜叉には霊は見えない。

だが、背後の能面を通じて、

空気の揺らぎや気配だけは感じられる。


腕を組み、

「さて、綾乃は何を聞き出してくれるのかしら」と

半ば呆れたように、しかし真剣に見守っていた。


その時。


駒姫の冷たい唇が、かすかに震えた。


「……まさ……きよ……まさ……」


か細く、掠れた声。

それは風の音と紛れて消えそうなほど弱い。


綾乃の目が大きく開かれた。


「え……? 今、なんと……?」


駒姫の瞳が涙のように翳り、

ふたたび口がわずかに動いた。


「き……清正……

……きよ……まさ……」


はっ、と綾乃の胸に衝撃が走る。


「清正……!? まさか……!」


夜叉が慌てて歩み寄る。


「ちょ、ちょっと綾乃!

どういう事ですの? その“清正”って……!」


綾乃は震える声で、

駒姫の霊が絞り出した“名前”の意味を理解し始めていた。


ーーーー


清蓮神社へと続く鳥居の前。

冷たい夜気の中、宮司・清正はじっと佇み、綾乃と夜叉の帰りを待っていた。


そして。


「清正様、只今帰りました」


綾乃と夜叉が姿を現す。そのすぐ背後に、淡い光のゆらめきと共に“彼女”はいた。

駒姫の霊である。


霊を視ることはできずとも、清正には確かに分かった。

その気配が、若き頃、自分の名を呼んでいた“あの娘”のものだと。


「……っ」


途端に、清正の膝が崩れ落ちた。

地面に手をつき、そのまま肩を震わせ嗚咽する。


「え? え? き、清正様!? ど、どうされたのですか!」

普段は沈着冷静、岩のように揺るがない男の突然の取り乱しように、夜叉は完全に困惑した。


綾乃も息を呑む。


そんな中、透き通るような声が風を震わせた。


「清正……! 清正!!」


駒姫の霊が叫ぶ。

二十四年もの長き時を彷徨い続けた魂とは思えない、切実で、必死な声。



ー 二十四年前 ー


最上義光の居館。

蝉の声が遠くで響く夏の昼下がり、静寂を切り裂くように


「たのもぉうッ!!」


鋭い声が門前に響き渡った。


駒姫の侍女たちが驚いて顔を見合わせる。

門前には、豪奢な装飾を施した籠と、武装した使者一行。


使者の男は胸を張り、声を張り上げた。


「天下の太閤・秀吉公の甥!

関白・豊臣秀次様のご命令により、最上家の御令嬢、駒姫様をお迎えに参った!!」


その声は、まるで先に結論を突きつけるような強引さだった。

使者の背後の籠はまるで“姫を連れ去るために用意された檻”のように沈黙している。


屋敷中に緊張が走った。


駒姫は、縁側で習字の墨を乾かしていた手を止め、小さく震えた。


(……また、来た)


秀次の寵愛を受けろという要請は、すでに義光を悩ませていた。

姫にとって、それは恐怖でしかない。


義光がゆっくりと姿を見せる。

その眼には、主家としての威厳と、父としての怒りが混ざり合っていた。


「……秀次殿の仰せとはいえ、我が娘はやれぬ!

その旨、何度と無く申し上げたはずだ。」


しかし使者は鼻で笑った。


「もう、一刻も待てぬ!」

使者の男が声を荒らげた。

「秀次様は四年前、駒姫様を見初められたあの日から、今日までどれほど辛抱されたか!

 もはや堪忍袋の緒は切れたのじゃ!」


駒姫は息を呑み、義光の袖をぎゅっと掴む。


義光は一歩前へ出て、娘を庇うように立った。


「……駒姫は最上家の宝。無理強いは、どうかお控え願いたい。」


しかし使者は、怒りを隠しもせず踏み込んだ。


「命令だと言っておる!」

「姫を差し出さぬのであれば、最上家、秀次様への叛意と見なす!」


その言葉に、屋敷全体が凍り付く。

家臣たちの手が震え、侍女たちが駒姫を抱きしめる。


その時だった。 


バンッ!!


乾いた音が、静寂を引き裂く。


畳を蹴り飛ばし、一人の若者が使者の前へ躍り出た。

手に握るのは、使い込まれた木刀。

その瞳は、怒りと覚悟の炎に燃えている。


「……お前らに、駒姫様は渡さない」


震えなど、微塵もない。


「今すぐ立ち去れ!!」


「清正!!!」


駒姫の叫びが、場に響いた。


使者たちは一斉に目を見開く。

目の前に立つ若者、清正を、まるで信じられないものを見るように。


清正。

彼は、かつて戦場で両親を失い、

最上義光が、亡骸の傍で泣き崩れていたのを見つけ、引き取った子だった。


それ以来、最上家で育てられ、

駒姫とは、兄妹同然に過ごしてきた。


だが、

時が流れ、互いに年頃となった今、

その想いは、もはや「家族」という言葉だけでは、収まりきらないものへと変わりつつあった。


そして今

清正は、そのすべてを背負っていた。


過去も、後悔も、失われたものも。

その重みを胸に刻み、ただ一つ


駒姫を守るために。


彼は、刃となって立っていた。


「き、貴様……!」

使者の一人が顔を歪め、声を荒げる。

「小童ごときが、豊臣に逆らうか!!」


「調子に乗るなよ、若造が!!」


怒号とともに、刀の柄へと手がかかる。


刃が抜かれようとした、その瞬間。


「きええええッ!!」


清正の木刀が、唸りを上げて振り下ろされた。


バシィンッ!!


「うわッ!?」


乾いた衝撃音。


使者の手を打ち据えた木刀が、

刀を宙へと弾き飛ばし、


刃は、虚しく畳の上に転がった。


「な……っ!」


「て、手を出したな……小僧……!」

使者は歯噛みし、憎悪を滲ませる。

「貴様も……お前の家族も、明日はないと思え!!」


その言葉に、清正は一歩も引かない。


木刀を構えたまま、まっすぐに、言い放った。


「オレは、元より、みなしの身だ」


声は、揺れない。


「オレの責任は、一人で請け負う」

「誰にも……指一本、触れさせはしない」


畳の間に、緊張が張り詰める。


それは、

若き一人の覚悟が、権力と真正面から刃を交えた瞬間だった。


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