第五十一話 三条河原の駒姫(弍)
「……このままでは結界が保ちませんね」
夜叉が低く呟いた瞬間、結界は再びビキリ、と軋んだ。
まるで外側から巨大な手で押し潰されているように、光の膜が歪む。
「どうやら、私の出番のようですわ」
そう言って、夜叉はゆっくりと後頭部へ手を伸ばした。
そして“あの面”に触れる。
冷たい能面を引き抜くと、周囲の空気がひんやりと沈んだ。
怨霊たちがざわりと揺れ、まるで本能で恐怖しているかのようだ。
「綾乃」
「この面を被れば……あなたも知っている通り、
私は“敵”と判断した者を見境なく斬り伏せてしまいます」
能面を胸の前に掲げると、それ自体が脈打つように薄く光る。
「だから、もし、駒姫様を見つけたのなら」
「私の攻撃が届くより先に、あなたが保護するのよ。」
綾乃は息を呑み、頷く。
「わかった。」
結界の亀裂が、ついに破裂する音を立てた。
――闇が押し寄せる。
夜叉が能面を顔へ近づけた瞬間、
面の目孔から黒い靄がふわりと溢れ出した。
そして。
カチリ。
乾いた音とともに能面が夜叉の顔に吸い付くように固定され、夜叉の顔へと変化した。
「ギヤァァァァァァ!!!!!!!」
夜叉の面の放つ絶叫とともに、周囲の空気が裂けた。
「――――ッ!!」
綾乃は反射的に夜叉から飛び退く。
そこには、先ほどまでの夜叉ではなく、まるで別の“何か”が立っていた。
夜叉の面の口元が、勝手ににたりと歪む。
夜叉自身の意思ではない、不気味な笑み。
「アァ……来タナ。亡者ドモ」
声が、低い男とも女ともつかない場違いな声へと変わった。
押し寄せる怨霊たちが一斉に悲鳴をあげ、
その場でガクガクと震えはじめる。
鎧の武者霊すら、一歩引いた。
だが、逃がすはずもない。
夜叉の姿が、掻き消えた。
「っ!? は、速い!」
綾乃の目には、ほんの一瞬、黒い残像が走ったようにしか見えなかった。
ズバァアアアアンーーッ!!
闇を裂く大音響が、三条河原に轟いた。
まるで雷鳴が地を這ったような振動が走り、
怨霊たちが一斉に悲鳴をあげて散る。
夜叉はもう、夜叉ではなかった。
能面に操られた“異形のもの”そのもの。
「ァア……ハハ……ハァァァ!!」
狂乱した叫びとともに、
夜叉の姿が黒い閃光となり、怨霊の群れへ突貫する。
両手に握られた二本の出刃包丁が、
まるで生き物のように唸りをあげた。
ギャリィイイン!
ひと振りすれば三体、
二振りすれば五体が、
光の紙片のように切り裂かれ、空中で散っていく。
斬られた霊たちの身体は、
痛みの叫びを残しながら光の粒となり、
吸い込まれる先はただひとつ。
夜叉の面の“口”。
吸い込むたび、面の裂け目が不気味に開き、
まるで腹を空かせた化け物が
貪り食うように霊魂を呑み込んでいく。
ズズォオオ……ッ!
金縛りにされたかのように身動きできない怨霊たちは、
その恐怖から逃れられぬまま、ひとつ、またひとつと飲み込まれる。
「コノ地ニ縛ラレシ者ヨ」
夜叉の声が、もはや人のものではなかった。
低く、響き、地の底から響く呪詛のような声音。
「オマエラノ魂……
総テ、ワレノ“チカラ”トナレェエエ!!」
綾乃は、その場で凍りつきそうな恐怖を覚えていた。
――夜叉の力が……前より、はるかに強くなっている。
以前、能面を発動した時の比ではない。
斬撃の一撃一撃が、まるで山を裂くかのような凄まじさ。
(やっぱり……!
あの面は、霊魂を吸収するたびに“力”を蓄えていく……!)
斬れば斬るほど強くなる。
吸えば吸うほど暴走が加速する。
綾乃は周囲を見渡す。
――駒姫様……どこに……。
その時だった。
川沿いの闇から、白い袖がふわりと揺れた。
「……見つけた!」
細い肩、白装束、涙の跡を残したままの少女の霊。
怯えた目が綾乃を見る。
駒姫の霊だ。
だがその背後から、
夜叉の黒い斬撃が一直線に迫っているのに綾乃は気づいた。
狙われたのは、駒姫。
「まずいっ!」
綾乃は息を大きく吸い込み、腹の底から叫ぶ。
「駒姫様、こちらへッ!!」
声に呼ばれ、駒姫の霊は夜叉から逃げるように身を翻した。
蒼白な表情のまま、必死に、綾乃の元へ。
同時に、綾乃も駆け出す。
二人の距離が、限りなく零に近づいた、その瞬間。
夜叉の刃が、大地へと叩きつけられた。
ドガァアアアアアンッ!!
轟音とともに地面が砕け、砂礫が爆ぜる。
巻き上がった砂塵が視界を覆い、綾乃の髪と袖が激しく舞い上がった。
夜叉が能面越しに、ギギギ……と首を回し、
綾乃たちを見据えた。
「シャアァァァアアアッ!!」
能面に支配された夜叉が、獣のような叫びをあげた。
黒い殺気が津波のように押し寄せ、
綾乃は思わず立ちすくみそうになったが。
「大丈夫です、駒姫様……!」
綾乃は、震える駒姫の霊を抱きかかえ、
地面へ倒れ込むようにして必死に庇った。
「大丈夫……絶対に、私が守ります……!」
その直後。
あれほど獣のように叫び、
綾乃を威嚇していた夜叉の動きが、
突如として“止まった”。
「…………?」
能面の目孔に宿っていた禍々しい光が、ふっと消える。
そして夜叉は、すうっと背筋を伸ばし、
何事もなかったかのように小さく息を吐いた。
「ふぅ……。まあ、こんなところね。」
その声音は、いつもの夜叉のものだった。
夜叉はゆっくりと手を上げ、
顔に貼りついていた能面を外す。
ベリ、と音を立てて面が剥がれ、
後頭部へと戻されると、
その瞬間、あたりに漂っていた圧が一気に霧散した。
綾乃は息を呑む。
「.......」
夜叉は軽く肩をすくめて笑った。
「ええ。少し暴れすぎたわ。
……ごめんなさい、綾乃。」
綾乃「....だ、だめだ....ふ、震えが、とまらぬ....」
気がつくと。
三条河原に満ちていた怨霊の群れは、
跡形もなく消えていた。
ただひとり、綾乃の腕の中に
駒姫の霊だけが残されている。
三人の周囲は嘘のように静かだった。




