第四十六話 生き神(陸)
お美代は家へ戻ってからも、涙が止まらなかった。
「おとう……おかあ……玄二郎が……玄二郎がぁ……!」
両手で顔を覆い、嗚咽は途切れることなくこぼれ続ける。
そんな娘の姿を前に、父・哲二は深く肩を落とした。
皺の刻まれた拳を震わせ、悔恨を噛みしめるように唇を噛む。
「すまぬ、お美代。
玄二郎に余計なことを吹き込んだ……全部、わしのせいじゃ……」
嗚咽と後悔が、狭い家の中に静かに満ちていく。
玄二郎が遺した“想い”がどれほど強かったのか。
それを知ってしまったが故に、お美代の胸の痛みはさらに深く突き刺さった。
涙が止まらぬお美代とその家族を家の中に残し、綾乃はそっと外へ出る。
軋む戸を閉じると、家の前には、淡い光をまとった玄二郎の霊が静かに漂っていた。
「だから言っただろう……現実を告げるのは、今じゃないと。」
玄二郎の霊は震えながら言葉を紡ぐ。
「お……おみよ……お美代が……
あんなにも……狼狽えるとは……。
私は、ただ……この“しきたり”に潜む……悪霊の恐ろしさを……
知ってほしかった、だけなのに……」
記憶が薄れ始めているのか、霊体は時折かすれ、形が崩れそうになる。
玄二郎は自らの判断を悔い、崩れ落ちる寸前だった。
綾乃は一歩近づき、その苦悩を受け止めるように見つめた。
「玄二郎。
お前の記憶が消えぬうちに、ひとつ聞いておきたい事がある。
お前を襲ったのは、どんな姿の者だったのじゃ?」
玄二郎は苦しげに目を閉じ、途切れ途切れの記憶を手繰る。
「村を抜ける途中……背後から襲われた……。
姿は見えなかった……ただ、鴉のような……大きな……羽……
黒く、広がる影だけが……」
「鴉のような大きな羽、か……。」
綾乃が眉を寄せたその時、
遠くから野太い声が響いた。
「おーい綾乃ーー!!」
斬黒たちが山道を駆け上がってくる。
霊の存在に気付いたのか、斬黒は軽く目を見開きつつも、状況を察して口を閉じた。
「そちらはどうじゃ?」
綾乃が問うと、斬黒は肩で息をしながら、これまでに掴んだ情報を綾乃に語った。
「毎年行われる“指切の儀式”。
生き神・珠妃様が見てきた『指の生気を喰らう悪霊』。
掟を破った者を闇へ葬る、『大きな鴉の翼を持つ化け物』……。」
綾乃は静かに目を閉じ、そしてゆっくりと開く。
「我らの務めはただひとつ。
その物怪を打ち祓い、この村に根付いた悪しき風習を断ち切ることじゃ!」
斬黒は拳を鳴らし、にやりと笑った。
「おうよ! そうすりゃ珠妃様も救われるし、村人の指もこれ以上、減らされずに済むってもんよ!」
その時、家の扉が開き、お美代の父・哲二が深いため息とともに姿を現した。
「皆さま。ほんとうなら、今晩は我が家でゆっくりしていただきたいところなのじゃが……」
哲二は、深く頭を下げる。
「何ぶんにも、あの通りお美代が取り乱しておっての。
それに……今日が“家族水入らずで過ごせる最後の夜”になる。」
「すまぬが、今夜は隣の蔵に泊まっていただけんじゃろうか。」
斬黒は目をむき、思わず叫んだ。
「なんじゃと!? おいら達は、お前らの頼みを聞いて、京都からはるばる来てんだぞ!?
それを、よりにもよって“カビ臭い蔵”で寝ろってか!」
「斬黒、やめろ!!」
綾乃が鋭い声で制した。
「この人たちの気持ちを、少しは考えろ。
今、何を抱えているか……お前だって分かっているはずだ。」
「哲二殿、私達なら大丈夫です。明朝の儀式に向けて、今晩は早めに休ませていただきますゆえ。」
叱られた斬黒はむすっと口を閉ざし、そっぽを向いた。
哲二は、その姿に深く頭を垂れていた。
ーその夜ー
斬黒は、邪気を帯びた刀を抱きしめたまま眠っている。
額には汗がにじみ、時折、歯をギリッと噛みしめる音が闇に響いた。
「……ぐ、う……やめ……ろ……」
悪い夢でも見ているのか、低いうめき声が漏れる。
その声に呼応するように、刀身の内側から黒い靄がふわりと揺れ、斬黒の肩口へ忍び寄っていく。
刀と男が、まるで互いを喰い合うように結びついている。
一方、部屋の隅では蛇楽が毛布に丸まり、小さくなって眠っていた。
だが、その周囲には異形の存在が蠢いている。
淡い光を帯びた“幻蛇”たちが、彼女を守るように静かにとぐろを巻き、影の中を揺れ動いている。
そして、綾乃もその横で静かな寝息を立て、夢を見ていた。
懐かしき日々。
膳槽と甚平が焚き火の前で笑いながら語り合い、綾乃もその輪の中に座っている。
ほんのり暖かい、胸がじんわりと満たされる夢だった。
そこへ、不意に影が割り込んできた。
「あ、綾乃さん! あ、あやの……さん!」
玄二郎である。
妙にせわしない声で、綾乃の袖を引っ張ってくる。
「お、起きて! 起ぎてぇ〜〜!」
綾乃は不機嫌そうに眉をひそめた。
「なんじゃ、私はまだお二人と語り合っていたいのじゃ。
頼むから、今だけは邪魔をせんでくれ!」
「い、いい……から! いいから! お、おきてぇ……!」
次の瞬間に、玄二郎の顔は、木に吊るされ干からびた屍の顔へと変わった。
「う、うわっ!!」
綾乃は叫び声を上げ、冷や汗を噴きながら飛び起きた。
目の前には、わなわなと揺れながら漂う玄二郎の霊がいる。
「玄二郎! び、びっくりするじゃないか!」
「どうしたんじゃ! 良き夢を見ておったのに!」
玄二郎の霊は震える指で扉を指した。
「……あ、綾乃さん! そ、外……!!」
外から、ガサガサ……と何かが這うような音が響いてくる。
綾乃は眉をひそめ、素早く立ち上がった。
「誰じゃ!!」
扉に手をかけるが。
「……開かぬ!? 固く閉ざされておる!」
「そ、そこにいるのは誰じゃ! 今すぐ開けろ!」
しばらくの沈黙の後、外から声がした。
「……綾乃殿、かたじけない!」
「その声は哲二か!!
何故、私達を閉じ込める! 扉を開けろと言っておる!」
しかし、返ってきたのは重く沈んだ声だった。
「申し訳ない……。
明日の“儀式”が終わるまで、どうかそこで大人しくしておってくだされ。」
綾乃は怒りに声を震わせた。
「どういう事じゃ!
お前達がこの儀式を止めさせるため、私達を呼んだのであろう!」
哲二は、苦しげに言葉を継いだ。
「……最初は、そのつもりじゃった。
じゃが……玄二郎の悲劇を知った以上、そうもいかん。」
「お社の主は、すべてお見通しじゃ。
逆らえば……家族も、お美代も、命を危険に晒されてしまう。」
ひと息置き、哲二はまるで懺悔のように告げた。
「これは……家族の総意じゃ。
どうか察してくだされ……綾乃殿。」
外の足音が遠ざかっていく。
閉じ込められた蔵の中には、冷えた沈黙だけが残った。




