第三十九話 夜叉の面(前編)
初めての任務を終えた綾乃は、全身にまだ戦いの余韻を残していた。
夜の冷気が肌を刺す中、斬黒と蛇楽と共に、彼女は清正のもとへと足を運んだ。
全てを聞き終えたあと、清正は、腕を組み、静かに頷いた。
「……ほう、やはり《封呪箱》が関わっていましたか。」
その声音には、驚きよりも確信の色が濃かった。
「一つの箱で百人以上の死人を鬼へと変える。まさに、おそるべき代物です。」
清正は目を細め、遠くの闇を見つめる。
「もし、あの鬼どもが世に放たれていたら……想像するだけで恐ろしい。京の町は混乱の渦に
呑まれていた事でしょう」
そして、ゆっくりと綾乃たちの方へ視線を戻した。
「お前たち、この度はよくやってくれた。まさしくお手柄だ。」
斬黒は、誇らしげに、ニヤニヤと笑っている。
そして蛇楽は、いつものように無表情で、ときおり、斬黒の顔に目をやっていた。
そんな中、綾乃は少し息を整え、唇を引き結ぶ。
「……以前、封呪箱が造られていた洞窟を調査した時、鬼たちは自らの意思では動いていませんでした。」
「誰かの“指示”で、製造を行っていたのです。」
一斉に、清正と斬黒が、綾乃を見た。蛇楽は相変わらず、死んだような目で、立っている。
清正「……つまり、その背後に、まだ黒幕がいるということですか。」
綾乃「はい、その鬼達は3個の封呪箱を作るよう命じられていると話していました。」
清正「もしもそのような指示が他の鬼達にもされているとしたら、とても恐ろしい事になります! つまり、その黒幕を突き止めない限り、混乱の火種は消えないという事ですね。」
灯火が揺れ、清正の顔に影が落ちる。
清正「一刻も早く、黒幕の正体をあばかなければなりません!この国の命運がかかっているのですから」
ーーーー
それから数日がたち、
人波の絶えぬ通りを、綾乃と夜叉が買い物を終え、並んで歩いていた。
賑わう市のざわめき、香の匂い、行き交う商人の声
京の町は、華やかさと、賑やかさに満ちあふれていた。
だが綾乃の瞳には、別の光景が重なって見えていた。
(……やはり、この大きな町には、多くの“野霊”が蔓延っておる……)
彼女の目に映るのは、華やかな京の表の顔だけではない。
その奥に蠢く、過去の遺恨と人々の苦痛。
町外れの土塀の陰では、薄れゆく光のような自縛霊が、朽ちた木に縋っていた。
そのすぐ傍らには、平家の甲冑をまとった落武者たちが、無念の表情で地を彷徨う。
遊郭の近くでは、病に倒れ、捨てられた遊女の霊が、乱れた着物のまま静かに歩き続けていた。
綾乃は眉をひそめ、そっと手を合わせた。
(……これが、この都の“影”か……)
綾乃の横顔を覗き込むように、夜叉が足を止めた。
その瞳には、何かを確信したような光が宿っていた。
「……やっぱり、そうなのね。」
「あなた、亡者たちの姿が“見える”んでしょ?」
綾乃は一瞬、はっと息を呑む。
「! ……そ、それは……」
答えを濁しながらも、その目は動揺を隠しきれなかった。
夜叉はニッと笑い、彼女の瞳をじっと見つめる。
「ふふ、隠さなくてもわかるわ。あなたの目を見ればすぐにわかる。」
「亡者の姿を、恐ろしい虚無を.....確かにその二つの眼で“視て”いる。」
「わたしたちは、幾ら修行を積んでも、魂の気配を“感じる”ことしかできない。
でも、彼等が存在している事は確信している。あなたは、それを、“視覚で捉える”ことができるのね。」
綾乃は目を瞬かせた。
「やはり、お前達には、隠し事はできぬな……!」
「そういう事ですよ!!!知らなかったのですか?」
夜叉は急に表情を輝かせ、勢いよく立ち上がる。
「ねえ! あなたが本当の事を打ち明けてくれたお礼に、わたしの事も少し教えてあげる! 」
綾乃「?」
夜叉「さあ、ついて来て!」
そう言うやいなや、夜叉は人混みの中を駆け出した。
綾乃は思わず声を上げる。
「ま、待て! 夜叉!」
京の喧騒の中、二人の姿が夕暮れの街角へと消えていった。
二人がたどり着いたのは、京の外れ、
鬱蒼と草が生い茂る、かつての武家屋敷の廃墟だった。
屋根瓦は崩れ、壁は苔に覆われ、
人が住まなくなって、すでに何年も経っているように見える。
吹き抜ける風が、軋む戸板を鳴らした。
綾乃が足を止めた。
暗がりの奥で、何かがうごめいている。
湿った気配と、低い呻き、まるで獣でも潜んでいるかのようだ。
その時、夜叉が腰に手を当て、呆れたように言った。
「もう、やだわ……なんであんな連中が、“わたしの屋敷”に住みついちゃったの?」
綾乃は思わず振り向いた。
「え? こ、ここは……お前の家だったのか!?」
夜叉は肩をすくめ、さらりと答える。
「そう、八年前まではね!」
そう言いながら、わずかに懐かしげな笑みを浮かべる。
そして、すぐにキリッと目を光らせた。
「でも今は違う! どうやら“大きな鼠達”が湧いちゃってるみたい。」
「というわけで、綾乃、手伝って!」
綾乃が息を呑む間もなく、夜叉は屋敷の中へと駆け出した。
闇の中からは、ぞろり……ぞろり……と不気味な足音。
廃墟と化した夜叉の屋敷には、
餓鬼どもが十数匹、巣くっているようだった。
餓鬼、それは、生前に強欲と嫉妬にまみれた者たちの、成れの果て。
欲を捨てきれず、死してなお飢え渇く哀れな亡者である。
この屋敷に巣くう餓鬼どももまた、かつては人の姿をしていたのだろう。
栄華の夢を捨てきれず、武家の屋敷の廃墟に住みつき、
生前の欲、食、金、権力を、なおも満たそうとしていたのだ。
闇の奥から、ぬらり……と何かが動いた。
綾乃が気づいた瞬間、低く湿った唸りが響く。
やがて、廊下の影から、
腹の膨れた異形のものたちが、ずるずると這い出してきた。
青黒い肌、爛れた顔、干からびた手足。
重い腹を地に擦りつけながら、
よだれを垂らし、濁った目を光らせている。
そぞろ、そぞろ……と、土を引きずる音が、屋敷中に広がった。
彼らは、綾乃と夜叉に気づくや、
住処を奪われまいと、憤怒と怨嗟に満ちた顔で、ずるり、ずるりと迫ってくる
その姿は、まさしく“飢えに取り憑かれた亡者”そのものであった。
夜叉はゆっくりと綾乃の方へ顔を向けた。
「綾乃、準備はいい?」
綾乃は、静かに息を吸い込み、短剣を握る手に力を込め、無言で頷いた。
その眼差しに迷いはなかった。
夜叉は微笑むと、背にかけていた能面を外しながら言った。
「これから、わたしがどんなに醜悪な姿になり変わろうとも、あなたのことは“味方”として認識しています。……だから、決してわたしを攻撃してはいけませんよ。」
その声は優しかったが、どこか底知れぬ哀しみを帯びていた。
そして夜叉は、ゆっくりと能面を顔に当てた。




