第三十七話 一条戻り橋(中編)
男は泣きながら女の名を叫んだ。
男「お菊! お菊……!! お菊が生き返った! 奇跡だ……! 奇跡だぁ!!」
震える腕で妻を抱きしめ、その頬を濡らす涙が止まらない。
その様に、あの斬黒ですら目頭を押さえた。
斬黒「よかったなぁ……お前。だが、こんなことが本当に起きるなんて……」
普段は無表情の蛇楽も、ほんのわずかに微笑んでいるように見えた。
しかし。
綾乃の胸に広がったのは喜びではなく、冷ややかな戦慄だった。
なぜなら、男が抱きしめているその横に....
亡霊となった本当のお菊の霊が、静かに立ち尽くしていたからだ!
綾乃は息を呑み、叫んだ。
綾乃「みんな!! 早くその女から離れろ!!」
斬黒は振り返り、怒鳴る。
斬黒「なにをぬかす! 今、目の前で奇跡が起きたんだぞ!」
綾乃は一歩踏み出し、提灯を掲げて水面を照らした。
綾乃「その女は……お菊ではない! 川に映った姿を見てみろ!!」
――ザァァ……
揺れる水面に浮かび上がったのは、男に抱きしめられる「女」の異形の影。
目は爛々と赤く輝き、口は耳元まで裂け、牙を剥き出しにした鬼の姿であった!
その瞬間、斬黒は喉を裂かれるような悲鳴を上げた。
斬黒「ぎゃああああああああああッ!!!」
男はなおも必死に女を抱きしめ、狂乱のように叫んだ。
男「違う! これは……お菊だ!! お菊でないはずがなかろう!!!」
その哀願を嘲笑うかのように。
ミシッ……バキッ……!
不気味な音が闇夜に響いた。
女の細い腕が、男の背骨を無惨にもへし折っていたのだ!
男の身体は腰から背中にかけてくの字に折れ、絶命した。
その瞬間、抱かれていた「女」は見る見る姿を変えた。
白い肌は墨を流したように黒ずみ、爛々と光る赤い瞳。
口は耳元まで裂け、鋭い牙がずらりと覗く。
そこに立っていたのは、もはや「お菊」ではなく、血を啜る鬼女であった!
斬黒は憤怒に顔を歪め、ついに腰の刀を抜き放つ。
斬黒「よくも……やりやがったな!! この俺がぶった斬ってやるッ!!!」
シュルッ。
鞘を離れた瞬間、刀身から溢れ出したのは光ではなく、禍々しい闇の奔流だった。
怨念が渦を巻き、血を求める嗄れた声が周囲に木霊する。
綾乃の心眼には、その刀がまるで生き物のように暴れ狂い、斬黒をも呑み込もうとする姿が見えていた。
綾乃(心の声)「……この剣……血を渇望しておる!! 斬黒が振るえば、鬼と同じ闇に堕ちかねぬ……!」
鬼女は裂けた口から絶叫をあげ、
シュルルッ!
鋭く伸びた爪を刃のように光らせ、斬黒へと襲いかかった。
その腕は不気味ににゅるりと伸び、まるでトカゲのような速さで迫る!
だが......
斬黒「ワハハハハハ!!!! さあ来い、来いィ!!!」
狂気を帯びた笑い声とともに、斬黒は軽やかな足さばきで爪の連撃を紙一重でかわしていく。
まるで戦いそのものを愉しむ獣のように。
そして、
斬黒は宙へと跳躍し、両の腕に握った邪悪な刀を振り下ろした!
ザシュッッ!!!
刃が鬼女の腕を叩き斬り、断面からどす黒い鮮血が噴き出す。
鬼女「ぎゃああああああああぁぁぁあ!!!」
絶叫とともに、黒い血飛沫が宙を舞った。
だが恐るべきはその後だ。
斬黒の刀に飛び散った黒血は、刀身にべっとりと吸い寄せられるように張り付き
まるで乾いた喉を潤すように、刃がそれを貪るように吸収していったのだ。
綾乃の目には、刀身が黒血を呑み込むたびに妖しく脈打ち、斬黒の瞳に狂気の光が増していくのがはっきりと見えていた。
橋の上では、鬼女が地を裂くような勢いで走り出した。
斬黒「逃がすかぁぁ!!!」
怒声をあげ、血に飢えた眼でその背を追う。
すぐさま蛇楽も駆け出し、斬黒の後を追随する。
綾乃は慌てて声を張り上げた。
「待て! あまり深追いをすると!」
だが、その警告は二人の耳には届かない。
鬼気迫る殺気と興奮に囚われた斬黒たちは、ただ戦いの続きを求めて闇へと消えていった。
残された綾乃は、胸の奥にざわりと走った異様な気配に気づいた。
橋脚のあたりから、重く淀んだ呪詛の気配が噴き出している。
綾乃は息を詰め、身を翻して橋の下へと降り立った。
濃密な瘴気がまとわりつくように肌に張り付き、耳鳴りを誘う。
そして、橋の真下。
水面近くの梁に、何か不気味なものが括り付けられているのが目に入った。
それは、漆黒の板で組まれた不格好な箱。
綾乃の顔から血の気が引く。
「……呪い箱だ!」
思い出す。洞窟の闇で見つけた、あの不気味な箱。
綾乃は橋脚の闇の下で、胸の奥にそっと呼びかけた。
(……みんな、お願い。あの箱を……取ってきて……!)
その瞬間、彼女の身体から淡い光が溢れ、夜気を照らす。
小さな子供達の純真な霊が応えるように、無垢で透きとおる白い手が幾重にも伸び、闇を切り裂く。
箱の黒い瘴気に触れた刹那、光の手々は一斉に震え、次の瞬間、綾乃の足元へと落ちてきた。
呪いに抗いながらも、幼き魂は確かに役目を果たしたのだ。
綾乃は、地に転がった漆黒の箱を鋭く睨みつける。
「……!」
黒く渦巻く呪詛が、今にも彼女を飲み込まんと触手のように伸びる。
だが綾乃は、その箱を渾身の力で鷲掴みにし、迷いなく風呂敷に押し込んだ。
刹那、身体全体に重苦しい闇が侵食し、意識が溺れかける。
(飲まれる!)
しかし、彼女の背後に幼い光が立ち昇る。
純白に煌めく子供達の霊と、守護するつがいの狐の霊力が綾乃を包み込み、黒き呪詛を押し返す。
闇と光がせめぎ合い、綾乃の頬を冷たい汗がつたった。
そして、彼女は自分の行為に呆れながら言った。
「……こんな事……普通の人間なら、とうに死んでいる。」




