第三十六話 一条戻り橋(前編)
清蓮神社の境内は、澄み切った空気に包まれていた。耳を澄ませば、かすかな鈴の音と、風に揺れる稲穂のざわめきが重なり合い、まるで神域へと導く清らかな旋律のように響いてくる。
壮麗な本殿は翡翠色の銅板葺きで、その屋根は千年の時を刻んだかのような重厚な趣をたたえている。両脇に鎮座する金色と銀色の狛狐は、ただの像とは思えぬほどに生命の光を瞳に宿し見つめていた。
さらに奥へ進むと、清水が幾筋にも分かれて流れ落ちる「清蓮の滝」が姿を現す。白蓮が水面に浮かぶその神秘的な光景の前で、清正は一日の始まりに必ず祈りを捧げるのが常であった。
夜が訪れると、境内には無数の石灯籠と提灯の明かりがともり、山の闇と対照的に浮かび上がるその光景は、まるで炎の龍が昇るかのようであった。清蓮神社が真に聖域であることを、誰の目にも疑いようなく示していた。
粗野で口汚い印象のある斬黒は、清正の前では不思議なほど従順であり、また常に傍らに寄り添う蛇楽に対しても、驚くほど優しく接していた。その意外な一面に綾乃は驚きを隠せなかったが、彼が携える刀は異様な邪気を放ち、真夜中ともなれば斬黒の部屋から凄まじい叫び声が響き渡り、幾度も綾乃を目覚めさせた。
斬黒の側から離れない邪楽は、綾乃の前では言葉を交わそうとせず、無表情であるが、綾乃の目には、無数の蛇が彼女に優しく巻きついているのが見えた。恐らく彼女の使い魔か何かだと綾乃は思った。
一方の夜叉は、気立てが良く、とても働き者で、これまで神社の炊事や洗濯を一手に担ってきた。綾乃はその姿を見て、これからは自分も共に手を携え、神社を支えていこうと心に決めるのだった。ただし夜叉の後頭部に被る能面からは、あいからず黒い影のような「無数の手」が伸びかけては引き戻される様が見えた。
そんなある日、綾乃と斬黒と、蛇楽が清正に呼ばれた。
社殿の広間に集められた面々を前に、清正がゆるやかに口を開いた。
その声音には、重責を担う宮司としての威厳がこもっている。
清正「集まってもらったのは他でもない。朝廷から、この地にある《戻り橋》の調査を依頼されました。」
その名を耳にした瞬間、場の空気がわずかに張りつめた。
戻り橋、神社の森のすぐ傍に架かる古い橋。数十年前から奇妙な噂が絶えず、近頃は橋の周辺で人々が相次いで行方不明になっているという。
清正「この件は、神社に仕える我らが放置することは許されません。……お前たちに、真相を確かめて欲しいのです。」
すぐさま、斬黒が勢いよく立ち上がる。
鞘に手をかけ、いかにも勇ましく胸を張って見せた。
斬黒「わかりました!こんな事件、おいらと蛇楽で十分ですよ! 綾乃は足手まといになるだけですし、留守番でも....」
その言葉を遮るように、清正の声が鋭く響いた。
清正「なりません!」
静かにして強い一喝に、斬黒の背筋が凍りつく。
清正は、綾乃の方を見やり、穏やかに続けた。
清正「これは、綾乃の初仕事でもあります。必ず、彼女と共に任務を遂行して下さい。」
斬黒は慌てて頭を下げ、口調を改める。
斬黒「……は、はい! 清正様! 必ずや、ご期待に応えてみせます!」
その背後で、綾乃は小さくため息をつき、心の中で毒づいた。
綾乃(やっぱりこの男……すごく嫌な奴!)
その夜、
綾乃、斬黒、蛇楽の三人は森を抜け、戻り橋へとたどり着いた。
夜霧に包まれた川面は静まり返り、欄干に吊るされた提灯の灯りだけが、ぼんやりと橋を照らしている。
斬黒が鼻を鳴らし、得意げに言った。
斬黒「なんでも、人が行方不明になるのは、いつも夜中から明け方だそうだ! いいかお前ら、何かあっても全部おいらが片付けてやる! お前らは安全なとこで拝んでおけ!」
その大言壮語を無視して、三人は橋の中央を見つめた。
そこには、二つの人影があった。
男と女。提灯の揺れる光に照らされ、若い夫婦のようにも見える。
だが、綾乃はすぐに気づいた。
あの女、どこか、おかしい。
だがあえて口にせず、ただ目を細めて見守った。
斬黒は、二人を置いて橋の中央へと踏み出す。
斬黒「おう! お前たち! こんな真夜中にここで何を……」
そこで声が途切れ、目を剥いた。
斬黒は震える指で女を指差していった!
斬黒「……っ!? お、おい、この女……死んでるじゃないか!!」
斬黒「まさか、お前が!」
男は慌てて首を振り、必死に言葉を紡ぐ。
男「ち、違います! この橋には……死者を蘇らせる御利益があると聞きました。私は……私は死んだ女房を背負ってここへ来たのです!」
駆けつけた綾乃と蛇楽も、その言葉に息を呑む。
斬黒「死んだ者が蘇るだと……?」
男の眼は血走り、涙で濡れていた。
男「女房のお菊は、流行り病で昨日、命を落としました……。でも……どうしても諦めきれなかった。だから噂を信じて、ここで祈り続けていたのです!」
斬黒は眉をひそめ、しかし一瞬だけ表情を和らげた。
斬黒「……気持ちはわからんでもねえがな、それは流石に無理が....」
その時だった。
動かぬはずのお菊の身体がびくりと痙攣し、雷に打たれたかのように震え出したのだ。
そして、その青白い唇が、かすかに開き、呼吸をし始めた!




