第ニ十三話 獅子丸(弐)
意識が遠のく中、彼女を抱き上げたのは、鋭い眼光と優しさを併せ持つ一人の青年――獅子丸だった。
彼との出会いが、綾乃の運命を大きく変えていくことになる。
綾乃が口を開きかけたその瞬間、獅子丸の美しく屈託のない笑顔が彼女の心を揺らした。
太陽のように眩しく、疑念や恐怖を押しのけるような明るさがあった。
その笑みに釣られて、綾乃は危うく真実を語り出しそうになった。
しかし、咄嗟に唇を噛み、言葉を飲み込む。
──信じてはいけない。
お狐様の御神体を胸に抱きしめながら、綾乃は必死に心を抑え込んだ。
小屋の中に一瞬の沈黙が落ちる。
獅子丸は首をかしげ、笑顔のまま彼女を待っていた。
綾乃は胸の奥の鼓動を必死に抑えながら、か細い声で言葉を紡ぐ。
「……私は、幸……。お主のおかげで命拾いした。あ、ありがとう」
獅子丸は、ぱっと顔を綻ばせた。
「幸か!いい名だ。礼はいらん!」
腕をぶんと振り上げ、朗らかに言葉を続ける。
「それよりも──お前、この二、三日まともに食べて、おらんのだろ?
倒れた原因は、傷や疲れよりも腹が減ったせいに違いない!」
そう言いながら、獅子丸は背負っていた袋を小屋の隅に置き、ごそごそと中を探る。
そして、手にしたのは白い殻の鶏卵と、小さな木桶に入った山羊の乳だった。
「ほら! これでも食べろ! 滋養がつくぞ!」
その声は屈託なく、善意に満ちていた。
しかし──綾乃の胸に走ったのは、かすかな恐怖だった。
(……まさか、この中に……毒が……)
2日前の宿屋での出来事が脳裏に蘇る。
「疲れただろう」と出された痺れ薬の入った人肉。
そして、その後に待ち構えていた裏切りと、死地の記憶。
獅子丸は膝をつき、卵と乳を差し出す。
「ほら、力をつけねば立つこともできないぞ」
その笑顔は太陽のように明るい。
だが綾乃には、陽光の下に潜む影のような不安がどうしても拭えなかった。
胃は痛むほどに空っぽで、頭はめまいに揺れていた。
理性よりも身体が食を欲している。
喉は乾き、涎がわずかに込み上げる。
しかし、綾乃の両手は固く閉ざされたまま動かない。
「……っ……」
差し出された食べ物を前にしても、受け取ることはできなかった。
不信と飢餓の狭間で、綾乃は苦しげに目を伏せるしかなかった。
獅子丸は、綾乃が頑なに口を開こうとしないのを見て、大げさに眉をひそめた。
「なんだ? いらないのか? 嫌いなのか? 全く! こんな美味しいものを!
お前は何処ぞの姫様か?」
そう言うや否や、桶を掴み上げて口をつけた。
ぐいっ──。
ごく、ごく、ごく……!
勢いよく山羊の乳を飲み下す音が小屋に響く。
白濁の液が顎を伝い、鎖骨へと流れ落ちても気に留めず、獅子丸はまるで喉の渇きをぶつけるように飲み干していく。
「ぷはぁっ! やっぱり旨いな!」
その様子を見て、綾乃の胸に広がっていた疑念が、じわじわと溶けていく。
毒など入ってはいない──。
「ま、待て! ……本当は……お腹が……空いて……」
その声はかすれて震え、まるで幼子のように弱々しかった。
獅子丸は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに破顔して朗らかに笑った。
「はははっ! そうかそうか! よし、卵もあるぞ! ほら、好きなだけ食べろ!」
綾乃は頬を紅潮させながら、震える手を差し出した。
その手は細く、冷え切っていたが、差し出された卵と乳に触れた瞬間、心の奥からほんの少し、温もりが戻ってくるようであった。
温かい卵と乳を腹に収めた綾乃は、久しく感じたことのない安堵に包まれていた。
張り詰めていた神経がほどけ、身体は藁の上に沈み込むように重くなる。
御神体を胸に抱いたまま、まぶたが自然に閉じていく。
「……少しだけ……」
呟く声は幼子のようにか細く、次の瞬間には規則正しい寝息へと変わっていた。
久しぶりの深い眠りだった。
――そして翌朝。
耳に心地よい風の音と、小気味よい木の響きが届いた。
コンッ……シュッ……コンッ……。
規則的でありながらも鋭さを帯びた音。
綾乃はゆっくりと瞼を開き、寝ぼけ眼を擦った。
「……何の音……?」
戸口を押し開け、外に出た瞬間、目に飛び込んできた光景に息を呑んだ。
朝霧がまだ薄く漂う中、獅子丸が一振りの木刀を手に立っていた。
その姿はただ剣を振っているのではない。
まるで舞を舞うように、流れる水のごとき滑らかさで身体が動いている。
「……っ!」
剣が振り下ろされるたび、空気が裂ける音が響き、霧が風に吹かれるように散っていく。
足さばきは無駄なく、まるで大地と一体になったかのように安定していた。
踏み込む瞬間は雷鳴のごとく鋭く、次の呼吸では柳が揺れるように柔らかい。
力と静けさが絶妙に調和し、一連の動作がひとつの美しい曲線を描いていた。
綾乃の胸は高鳴った。
「……なんて……美しい……」
獅子丸の剣捌きは、ただ強さを誇示するものではなかった。
そこには研ぎ澄まされた精神と、自然と調和した気配が宿っていた。
剣の動きに合わせ、鳥が羽ばたき、朝日が刃筋に煌めきを与える。
夜明けの冷たい空気の中で、獅子丸は額の汗をぬぐいながら笑顔を見せた。
獅子丸「おう、幸!目が覚めたか!すこし元気になったようじゃな!」
軽く肩で息をしながら、振り下ろした木刀を地面に突き立てる。
綾乃は、しばらくその剣筋の余韻を見つめていた。月光の名残りのような凛とした気配がまだ空間に漂っている。やがて彼女は唇をきゅっと結び、静かに口を開いた。
綾乃「……手合わせ、願いたい」
「今後はどうなるの」
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