第二十話 人を喰らう者達(中編)
綾乃が箸に手を伸ばさぬまま、そっと席を立とうとしたとき、老婆が首をかしげて声を投げかけた。
「どうしたね! せっかくのご馳走、手をつけんかったのかねえ」
綾乃は微笑を作って咄嗟に答えた。
「すみません。今日は体調がすぐれなかったもので……」
声は震えを必死に隠していた。腹の虫は鳴っているが、それよりまし胸の奥に沈む妙な嫌悪感の方が勝っていた。
綾乃は、老婆が寝静まるのを待ち、明け方前に宿を抜け出そうと決める。
だが、用意された寝室に足を踏み入れたとたん、急激な睡魔が襲った。頭がぼうっと重くなり、まぶたが閉じる。体は熱に包まれるようにだるく、思考は途切れがちになる。綾乃は慌てて立ち上がろうとしたが、足がふらつき、そのままベッドの縁に崩れ落ちた。
「まさか……温泉に……」
最後にそう思った瞬間、意識は深い闇に吞み込まれた。
夢の中、どこかで狐が呻いた。
「綾乃! 起きなさい、今すぐ起きなさい!」
その声にぱちりと目が覚めると、すぐ隣ではなく、見知らぬ狭い空間の床に倒れていた。
気づけば綾乃は、宿屋の厨房の隅、灰色の敷き物の上で仰向けに転がっている。しかも、手首と足首がきつく縛られており、身動きはままならない。口の中には乾いた味が広がり、苦く冷たい汗が背中をつたう。光は薄く、薪の残り火がかすかに揺れているだけだった。
厨房の方から二人の人間の低い囁き声が聞こえる。声は遠く、しかし耳に刺さるほどはっきりしていた。綾乃の呼吸は浅く速くなる。気配を押し殺して聞き耳を立てると、聞き覚えのある老婆の声と、もう一人、やや若い男の声だった。
「なんとも勘の良い娘でねえ。痺れ薬入りの御前に、箸一つ付けなかったよ」
老婆の声には誇らしげな響きが含まれている。綾乃の心臓が小さく跳ねた。
「お婆婆の作った『人肉御前』かい。痺れ薬さえ入ってなかったら最高に美味い料理なんだけどなぁ」
男は軽薄に笑う。言葉は下卑ているが、抑えられた熱意がある。
綾乃の耳は一層研ぎ澄まされる。湯気の匂い、焦げた薪の匂い、そして何か金属的な、嫌な匂いが混ざる。全身が凍りつくような感覚が押し寄せた。
老婆は胸を張るように言う。
「当たり前じゃろうが! わしの家に代々伝わる秘伝の料理じゃからのう、こんどお前も食いにこい!」
男は目を輝かせて食いつくように返す。
「本当かい!? そしたらそれまでに新鮮な肉を準備しといてやるよ。」
老婆は一瞬ためらうように笑い、そして指先で綾乃を指した。
「肉の準備は無用じゃ! そこに若くて新鮮な肉があるからのう」
その指差しで、綾乃は全身が固まるのを感じた。血の気が一気に引いたように、鼓動だけが耳鳴りのように響く。
「まてまて、百瀬婆! コイツは鬼共が探している大事な人質じゃ。この美しい短剣が何よりの証拠じゃ! この女子は明日の朝、鬼に渡すまでは、むやみに傷付けてはならん!」
老婆は目を細め、残酷な笑みを浮かべる。
「何を言っておる。ワシは五体満足な状態で、渡せとは聞いておらぬ。手足の一本ずつくらいはもらっても構わんじゃろうが!」
男はそれに賛同するようにうなずく。
「なるほど、とりあえず食材は確保せねばな。いい考えじゃ!」
厨房の薄暗がりで、その会話は冷たく、計算づくの共謀を露わにしていた。綾乃は、彼らが単なる村人ではなく、鬼に加勢する「人」の味方であることを、今さらながらはっきりと悟った。
綾乃の全身が震える。縛られた手首の縄が食い込み、食材の匂いが鼻をつく。足元では、先ほどの男の霊がまだ恐怖に歪んだ瞳でこちらを見上げている。そして、よく聞くと、綾乃の右肩のあたりを指さして「あで!あで!」と呟いている。
綾乃は、床の冷たさと縄の締めつけに全身を震わせながらも、男の霊が指さす先へ目をやった。暗がりに寝転んでいた石は、意外にも先端が鋭く尖っていた。灰と煤にまみれたそれは、夜光の下でかすかに銀を帯びている。
「そうか……お主もこれで脱出を図ったんだな……。」
綾乃は唇を噛み、歯を立てるようにして石に手を伸ばした。縛られた手首が痛む。だが、絶望の淵で人の魂が差し伸べた一片の助けは、何よりも頼もしい。彼女は石の先端を縄の端に当て、ぎりぎりとこすり始める。麻縄は硬く、何度も指を切りそうになるが、綾乃は呼吸を整え、集中した。
厨房の向こうで会話が続く。男の声には不安と興奮が混じる。
「手足を切断するとなると、出血はなんとかせんとなぁ。あまり出血が酷いとすぐに死んでしまうでのお」
百瀬婆の声は軽やかで、残酷さが混じる。
「権兵衛よ、今すぐ火を起こせ。切断した所を焼けば良いのじゃ!」
権兵衛が火打石を打つ音が小気味よく鳴り、火がほつほつと燃え上がる気配が聞こえる。
綾乃は時間がないことを悟った。石が縄に食い込み、繊維が一本ずつ切れていく。小さな「サッ」という音が続き、やがて指先にふっと軽さが返った。綾乃は片手で縄をはじき飛ばし、血の気のない手をこすりながら立ち上がる。
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