第ニ話 死者が見える少女
人間も、獣も、草木も、
この世に生まれたすべての者の身体は、魂を宿すための「器」にすぎない。
器が壊れれば、魂はまた別の形を求め、終わりなき循環を繰り返す。
しかしその輪廻から、外れたもの達がいる。それが“亡者”である。
綾乃が“それ”に気づいたのは、五歳の初夏。
静かに雨の降る、どこか寂しげな午後だった。
ポツ、ポツ……と、空から落ちる雨粒が大地を叩くたび、
青々と伸びた稲が、まるで呼吸するように揺れていた。
田んぼのあぜ道を、母親は赤子を背に負い、
濡れるのも構わずに家路を急いでいた。
裾には泥がはね、草の匂いが雨とともに立ちのぼる。
そのすぐ横を、小さな足で歩いていた綾乃は、ふと、足を止めた。
目を凝らし、あぜの向こうをじっと見つめる。
綾乃「……お母さん、あのおじさん、どうしたの?
あんなところで、ずっと、うずくまってる……」
母親は振り返り、眉をひそめる。
綾乃の指す方を見ても、そこには誰の姿もなかった。
あるのは、濁った水がゆっくりと流れる用水路と、
雨にけぶる田園の風景だけ。
母親「……え? どこ? ……誰もいないじゃないの。」
彼女の視線には、濁った水が流れる用水路と、雨に煙る田園風景しか映っていない。
だが綾乃には、見えていた。
用水路の脇で、影をまとった男が腰をかがめ、虚ろな眼で水面を覗き込んでいる姿が。
「……ぼがぁつぅ……ぼ……」
その肩は小刻みに震え、口元は意味をなさぬ言葉を吐き続けていた。
綾乃「お母さん、あそこだよ。あそこで用水路を覗きこんでるおじさんがいるでしょ!」
母親「……もう、またごっこ遊びかい?雨が降ってるんだから、つまらないこと言わないの!早く帰るよ!」
母親の声は、心配よりも苛立ちが強かった。
背に負った赤子の泣き声が雨音に混じり、彼女の心をさらに追い詰めていたからだ。
しかし綾乃は、抑えきれぬ好奇心に突き動かされるように、黒い男の方へ駆けていった。
綾乃「この人だよ!ねえ、おじさん何してるの?何を見てるの?何処を見てるの?」
男は、白く濁った目を綾乃の方に向ける。
そのひび割れた青黒い唇が震え、湿った声がしぼり出した。
男「……ぼぁ……ぼぁとぅ……」
綾乃「え?なに?何か落としたの?」
男は答える代わりに、痩せ細った指で、じっと濁流の渦を指さした。
母親には、もちろんそのやりとりは見えず、聞こえもしない。
ただ、自分の子が誰もいない空間に話しかけている姿が異様に思えた。
母親「こら!いい加減にごっこ遊びはやめなさい!
お姉ちゃんになったんだから、お母さんを困らせないで!」
母親の声は鋭く、雨音をも切り裂いた。
綾乃は胸が痛んだが、それでも男から目を離せなかった。
次の瞬間だった。
「ボチャン!!!」
ぬかるんだあぜ道に足を取られた綾乃の体が、バランスを崩して傾いた。
その小さな体は、そのまま雨で増水し、濁流と化した用水路へと滑り落ちた。
水しぶきが激しく跳ね、彼女の声が飲み込まれる。
母親「ぎゃーーーー!!! 綾乃!!!!」
母親の絶叫は、雨雲の下に響き渡った。
赤子の泣き声と、濁流の轟きと、母の悲鳴が、田んぼのあぜ道に重なり合って溶けていく。
ごうごうと濁流が流れる用水路。
小さな綾乃の身体はあっという間に流されそうになったが、奇跡的に、着物の袖が岸辺の木の根っこに引っ掛かった。
もがく綾乃の目に、必死の形相で駆け寄る母親の姿が映る。
母親「綾乃!しっかり掴まって!!!」
背中の赤子が泣き叫び、母親の動きを妨げていた。
それでも母親は腕を伸ばし、渾身の力で綾乃を水面から引き上げた。
雨に濡れながら、母親は娘を胸に抱きしめる。
だがその腕は愛おしさと同じくらい、強い怒りに震えていた。
母親の頬を、雨と涙が混じって流れ落ちる。
その顔は、綾乃がこれまで一度も見たことのないほど険しく、そして苦しげだった。
母親「だから!ごっこ遊びはやめなさいって言ったでしょう!!
次にやったら……もう絶対に許さないからね!!!」
母の声は怒号でありながら、深い恐怖の裏返しでもあった。
背に負った赤子も、まるで母の心の動揺を感じ取るように、火がついたように泣きわめいた。
綾乃「ちがう!!ごっこ遊びじゃないの!!……うわぁぁーーん!!!」
堰を切ったように泣き叫ぶ綾乃の手には、小さな木彫りの菩薩像が握られていた。
綾乃「これ!おじさんが……ずっと指さしてたんだもん!!」
母親はその像を見た瞬間、息を呑み、我に返った。
母親「……これは……先月亡くなった颯太さんが、大切にしていたものじゃないか?」
記憶が鮮やかに蘇る。
颯太が生前、田んぼの畦で「この菩薩さまが私を守ってくれる」と語っていた姿。
亡くなったときに行方が分からなくなり、家族も探していた品だった。
母親の背筋に、冷たいものが走る。
母親はこれまで、綾乃の「空想遊び」をただのごっこと思い込んでいた。
誰もいない方を向いて、笑ったり、問いかけたり、頷いたりする娘の姿に、不安を覚えながらも、気のせいだと自分に言い聞かせてきた。
だが今、目の前の事実は、その言い訳を許さなかった。
泥水の中から現れた、亡き颯太の形見。
それを娘が「おじさんが指していた」と言う。
母親「……お前……まさか……亡き者が、見えているのかい?」
母親の声は震えていた。
娘を抱く腕が、恐怖と同時に守りたいという本能で、さらに強く締め付けられた。
⸻
翌日。
雨は止み、空気は澄んでいた。
母親と綾乃は、濡れたまま乾ききらぬ小さな木の菩薩像を持って、颯太の墓を訪れた。
墓前にそれを供え、手を合わせる。
綾乃「……おじさんが、『ありがとう』って言ってるよ!」
その声は澄んでいて、嘘や幼い想像の気配は一切なかった。
綾乃は確かに、誰かの言葉をそのまま伝えているようだった。
母親の胸に、重く深い確信が落ちた。
母親「……綾乃、ごめんね。今まで気づいてあげられなくて……」
母の瞳から、昨日とは違う涙が零れた。
それは恐怖ではなく、娘を受け入れようとする決意の涙だった。
墓前の風が、そっと二人の頬を撫でていった。
「今後はどうなるの」
と、もし思って頂けたら、
下にあるタグの⭐︎︎︎︎︎︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎から、作品への応援を、どうかお願い致します。
面白いと思って頂ければ⭐︎5つ、つまらなければ⭐︎1つで構いません。
どうかお気持ちをお聞かせ下さい。
そして、ブックマークして頂けると最高に嬉しいです!
何卒、よろしくお願い致します。




