第十七話 旅立ち 膳槽との別れ(前編)
綾乃は子供たちを家へ送り届け、泣き疲れたような顔で膳槽のもとに戻った。
彼に一部始終を語り終えると、堰を切ったように涙があふれ出した。
膳槽は、深く息を吐いた。
「……そうか。甚平が……死んだか」
刻まれた皺の奥に、言葉では言い尽くせぬ悲しみが滲む。
綾乃は嗚咽をこらえきれず、ただ泣いた。
肩が震え、声にならない嗚咽が畳に落ちていく。
あの日、悪霊に襲われた幼い自分を救ってくれたのは、甚平だった。
兄のように傍にいて、厳しくも優しく導いてくれた。
ともに修行し、ともに笑った日々。
そのすべてが胸に蘇るたび、心の奥がきしむ。
けれどもう、あの姿はどこにもいない。
地に転がる首の光景が、まぶたの裏から離れない。
綾乃は、涙を流しながら呟いた。
「……どうして……どうしてなの……!」
その声は夜に溶け、誰にも届かぬまま消えていった。
⸻
翌朝。
白晨狐神社の境内には、冷たい朝靄が漂っていた。
ふらつく足で本殿へ向かうと、膳槽が仏壇の前に正座していた。
その背中は、いつになく大きく、そして重く見える。
やがて膳槽は、ゆっくりと振り返った。
「……待っておったぞ、綾乃」
その声には、これまで聞いたことのないほどの厳粛さが宿っていた。
綾乃は思わず息を呑み、正座する。
「そこに、座りなさい」
促されるまま、膳壇の前に並んで座る。
沈黙。
蝋燭の炎だけが小さく揺れた。
やがて膳槽は脇に置かれていた黒檀の木箱を両手で持ち上げ、綾乃の前に置いた。
年月を経て艶を失ったその箱は、ただならぬ気配を放っている。
「開けてみなさい」
膳槽の言葉に、綾乃は息を詰めた。
震える手で蓋を開けた瞬間
中から、白銀の霊気をまとう一本の短剣が現れた。
刃は濁りなく澄み、月光のように冷たい。
柄には古代の文様が刻まれ、狐の尾を思わせる意匠が輝いている。
「……こ、これは……!」
綾乃の心臓が大きく跳ねた。
見間違えるはずがない。
それは神社に仕える者なら誰もが知る、白晨狐神社の御神体。
決して人の手に渡されることのない、禁断の神具だった。
⸻
「……この短剣を、お主に託す」
膳槽の声は低く、だが揺るぎない。
「な……なぜ、私に……?」
綾乃は震える声で問う。
その問いに、膳槽は微かに笑みを浮かべた。
「綾乃。ここは、もう危険じゃ。奴らの襲撃は時間の問題よ。
お前はこの御神体を持って、一刻も早く京都へ発て。
《清蓮神社へ、この巻物と共にな」
懐から取り出された古びた巻物。
封蝋が施され、重々しい気配を放っている。
「これを渡せば、清蓮神社の宮司がすべてを引き受けてくれる」
京都へ。
逃げろということか。
綾乃の胸がざわついた。
昨日の戦いが蘇る。鬼たちの力。甚平の最期。
あの化け物たちが、神社を突き止めるのも時間の問題。
勝てない。わかっている。けれど...,,。
「膳槽様は……どうなさるおつもりですか!? 一緒に逃げましょう!」
「……ワシは残る」
膳槽は、静かに首を振った。
「御神体はお主に託した。じゃが、ワシはこの地の住職じゃ。
神社を見捨てて逃げるわけにはいかん」
「そんな……! それじゃ、膳槽様まで……!」
綾乃の声が震える。涙が頬を伝った。
だが膳槽は、その涙をやさしく受け止めるように目を細めた。
「甚平。そして、この度の騒ぎで命を落とした子供たち……
彼らを弔うのは、この老いぼれの務めじゃ。
わしの命など惜しくはない」
そこで言葉を切り、膳槽はまっすぐ綾乃を見つめた。
その瞳には、父のような深い愛情が宿っていた。
「だが、お前は違う。
お前には未来がある。この御神体を守り、生きて伝えねばならん宿命がある」
綾乃は、言葉を失った。
そして、震える手で短剣を胸に抱きしめる。
「……膳槽様……」
その名を呼ぶ声は、涙に濡れ、かすかに震えていた。
朝の霧がうっすらと神社の境内を覆い、白い光が鳥居の間から差し込んでいた。
綾乃は身支度を整え、背に旅装束を背負い、御神体の短剣を懐に忍ばせていた。
鳥居の前に立つと、そこには膳槽がすでに待っていた。
彼は僧衣の裾を正し、仏頂面のようでいて、その目には優しい光が宿っている。
膳槽「お前と出会ったのは……あの日から六年になるか。
怯えきって、口もきけんほど震えておった娘が……」
膳槽は懐かしむように目を細める。
膳槽「それがどうじゃ。こんなに立派になって、御神体を託せるまでに頼れる存在になりおった」
綾乃は胸が熱くなり、思わず下唇を噛んだ。
その言葉は、父に褒められた子供のように心を揺さぶった。
膳槽「じゃが心配なのは……お前の正義感の強さよ。
後先考えず、無鉄砲に走りすぎる癖がある。
時には、慎重に歩むことを心がけよ」
その声音は、厳しさを帯びながらも、紛れもなく父親のような愛情がにじんでいた。
綾乃の目からは、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
綾乃「膳槽様……やっぱり、私と共に……!」
必死にすがる声。だが膳槽は首を横に振り、きっぱりと言い放った。
膳槽「なにを言っておる。ワシが考えを曲げぬ男だということは、お前が一番よく知っておろう」
綾乃「しかし……!」
膳槽「もう良い!」
その一喝に、綾乃ははっと息を呑み、言葉を失った。
膳槽の揺るがぬ意志を前に、どんな願いも虚しくなるのを悟ったからだった。
綾乃は、震える声で深々と頭を下げる。
綾乃「膳槽様……今まで育てていただき、本当にありがとうございました……」
膳槽はその姿をしっかと見つめ、静かに頷いた。
膳槽「……綾乃。くれぐれも、お狐様をお守りするのじゃぞ。
達者でな!」
綾乃は涙を拭い、鳥居をくぐる。
振り返れば、境内の霧の中に佇む膳槽の姿。
その背筋は真っすぐに伸び、まるで神社そのものを背負っているかのように大きく見えた。
胸に痛みを抱えながらも、綾乃は一歩、また一歩と旅立ちの道を歩み始めた――。
その夜.....。
月は薄雲に覆われ、森は不気味な沈黙に包まれていた。
白晨狐神社の鳥居、その前に二つの影が立つ。
ひとりは、額に片方だけ角を生やした大鬼。
背丈は二メートル半、腕は丸太のように太く、金棒を軽々と肩に担いでいる。
その名は 厳顔
その隣に佇むのは、背丈こそ成人の人間ほどだが、ぎょろりと光る双眸を持つ小鬼。
俊敏な動きを得意とし、鋭い爪が闇の中でかすかに光っていた。
名を 隼蠋
厳顔「隼蠋の兄者! 此処で間違いないよな!」
低く響く声が森を震わせる。
隼蠋は鼻をひくつかせ、にやりと笑った。
隼蠋「ああ、厳顔。此処には間違いなく、あの狐の匂いが漂っておる……。血と光の混じった、忌々しい匂いだ!」
厳顔の口角が歪み、牙が月明かりにぎらつく。
厳顔「それならば……! あらよっと!!」
次の瞬間、巨体が唸りをあげて動いた。
厳顔は金棒を両手で握り、腰を落として大きく振りかぶる。
空気が重く圧し潰されるような圧力。
「ガゴォォォォーーーンッ!!!」
凄まじい音と共に、金棒が鳥居の片脚を水平に薙ぎ払った。
石を削り、木を裂く轟音が境内に木霊する。
高さ五メートルを超える鳥居の脚柱は、一撃で粉砕され、破片が四方へと弾け飛んだ。
折れた巨木のように、鳥居がゆっくりと傾き、やがて大地を揺らして崩れ落ちる。
隼蠋「ククッ! なんと見事な腕っぷしよ!」
厳顔「へっ……! これで、この地を守る加護は失われた……!」
二体の鬼の笑い声が、不吉に夜空へ響いた。
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