第8話:現状把握~明日のために~
「ただいま」
仮名頭リンは静かに玄関のドアを開けて帰宅した。
とうに夜中になっていたので誰も出迎えに来ないことはわかっていたが、彼女の律義さが帰宅の挨拶を発させる。
「!?」
すると、突然明かりが点いたので焦るリン。
「おかえり」
そこに立っていたのは母親のレンだった。
「お母さん?いつ出張から帰ってきたの?」
レンは夫のジンと共に東京へ仕事へ行っていて、帰ってくるのはまだ先のはず。
思いがけない母親の在宅にも驚いたリンだが、それよりも母が娘の帰りを待っていたことの方が意外だった。
「お父さんの仕事が予定より早く終わったからよ。それよりもアナタこんな遅くまでどこへ行ってたの?仕事も休んだんだってね」
娘を気遣っているようでありながら有無を言わさぬ冷たさを含んだ語気でレンが応える。
「ドライブ…考え事があって…」
リンは俯いたまま話す。
双のことを言えるはずもなく、しかしながら親の前で嘘を吐くのも躊躇われるので応えられる範囲内で真実を伝えたのだった。
「そう。仕事が辛いのはわかるけど、根を詰め過ぎないようにね」
「うん、ごめんなさい」
リンが謝意を伝えたのを確認せずにレンは踵を返すと暗闇へ消えて行く。
「フーッ…」
大きい溜息を吐きながらリンは靴を脱いで自室へと向かった。
「リンさん」
リンが部屋の照明スイッチに指をかけた瞬間、双が話しかけてきた。
「はい」
一瞬驚いたリンだが、もう左肩の人面瘡を化け物だとは思わなくなっている。
彼女は着ていたトレーナーのクルーネック部をずらして双の顔を見た。
(優し気な表情をしてる)
改めて双の整った顔をしげしげと見つめるリン。
「明日の準備などで大変だと思いますが、少しだけ私に時間をください」
「いいよ。どうしたの?」
「これから一緒に暮らしていくために私のことをもう少し話したいのです」
「そういえば私、双さんを拒絶していたから知らないことが多いわ。うん、わかった。時間がかかってもいいから話して」
双はリンの穏やかな口調と態度に安堵した。
「ありがとうございます。とはいえ、自己紹介は先日させていただきました。正直申し上げて、私は自分自身のことを詳細に話せるほどの情報を持たされていません」
「それは貴方が受けているという刑罰の問題なの?」
「仰る通りです。私に『人面瘡無限ループの刑』を課した悪魔王は、必要最低限の記憶と情報しか与えていないのです。私の記憶が戻ると何か不都合があるのでしょう」
「ひどい…」
リンは双の境遇に同情せずにはいられなかった。
自分の身体が人面瘡の取り憑き先になったこと自体は不条理極まりないことであり、そのことについては今でも考えは変わらない。
けれども、双が受けている罰はあまりにも過酷である。
リンはこの時初めて双の役に立ちたいと思った。
「今から話すことは私の身の上ではなく、私がリンさんの身体に憑いていることでどのようなことが起るかなどをお知らせします」
「うん…」
見つめ合うリンと双。
「まず、私はいつでも姿を現すことができます。しかし逆に私が沈黙しなければならないと思った時は、沈黙し続けます。何を言いたいのかというと、女性の身体に存在していることで貴女に気持ち悪さや煩わしさを持ってほしくないのです。ですから、基本的に私はリンさんが私を呼び出した時、そして貴女の身に危機が起きた時以外は姿を見せないように努めます」
リンは驚いた。
しかしながら、これまでの双の様子を見てきて、彼が言った通りの行動をしていることがわかった。
「それは私からすれば願ったり叶ったりだけど、双さんはそれで辛くないの?」
「全く辛くないと言えば嘘になります。でも、リンさんの心と身体の安定が最優先事項です」
「そうなんだ。なんか申し訳ないな」
「大丈夫です。これまで私が憑いた女性に行ってきたことと一緒です。ただ、リンさんは刑事という職業上、危険な目に遭うことが多いと思われるので、貴女を守るために私がこれまで培ってきた経験やスキルを総動員して尽力します」
「ウフフフ…」
突然リンが屈託のない笑みを浮かべた。
「どうしました?」
心配の表情を浮かべる双。
「いや、大丈夫。ごめんね、双さんの言い方がとても律義だから、何かの所信表明演説のように思えて。笑っちゃいけないと思うのに笑っちゃった」
「そうですか、それは良かった」
「えっ…?」
「私は初めてリンさんの笑顔を見ました。とても素敵ですよ。守りたいと思わせる笑顔です!」
「ちょっ、ちょっとぉ!」
ストレートな感情表現をする双の台詞にリンは思わず顔を赤らめた。
「すみませんでした。もう少し話を続けますね。人面瘡は睡眠の必要がないのですが、生命維持のために養分は必要です。それはリンさんが食事をして摂取した栄養分の不要なものからいただくのであまり考えないでください」
「うん」
「あと、先程リンさんを守ると言いましたが、私には取り憑き先の女性を援助するために肉体的な特殊能力を有しています」
そう言うと双は上半身の姿になった。
当然服など着ていないので、男性の半裸の肉体が露わになる。
リンは再び顔を赤らめ、無言になってしまった。
「特殊能力といっても、両腕を用いた物理的な攻撃ですけどね。けれども、一般の成人男性よりもかなり強いと思っていただいて結構です」
「わかった。でも、私は捜査一課のお荷物だから危ない目には遭わないと思うよ」
「今はそうかもしれませんが、リンさんは貴女自身が思っている以上に隠れた才能があります。私にはわかります。その才能を開花させるお手伝いもさせてください」
双が自分を認めてくれたことは素直に嬉しいと思ったリンだが、それでも発揮できるほどの才能が自分にあるのかについては懐疑的だった。
「うん、ありがとう。その時が来たら助けてね」
表向きは快諾したものの、この点についてだけは素直になれないリンだった。
同じ頃、ジンの部屋にレンがやって来た。
「あなた…」
「うん?」
「リンが無事に帰って来たわ」
「そうか。それは良かった」
「あの子、ちょっと様子が変だったの」
「どういうことだ?」
「具体的に説明できないけど、子供の頃に戻ったような気がするの」
「ふむ」
「このままあの頃のようになられては困るのよ」
レンは娘のことをよく思っていないようだ。
レンの瞳の奥にリンに対する憎悪の炎のようなものが浮かび上がった。
ジンはそのことに気づいているが、自分には関係のないこととやり過ごす様子を見せた。
「レン、アナタには出来損ないのままでいてもらうわ!」




