桃源郷
世界の最東端に位置する島国。
戦前まで海外との交易をほとんどとらなかったため、独自の文化発達し、また島国固有の遺伝子をもつ者が多い倭国。
その首都、中央都は高層ビルが立ち並び、政治、経済の中心地として倭国を動かしている。
その中心の片隅に菊花区という、倭国の法が通じない区が存在する。法が全く通用しない訳ではないが、生き死に以外の悪事には国としても目を閉じている。
倭国は今から20年ほど前に海外からの旅行客を取り込もうとこの菊花区を作った。
菊花区の周りは全て細い鉄製の高さ3メートルほどの柵がぐるりと囲んでいる。
菊花区は国が定めた花街、色を売る地区である。
倭国は昔から性に奔放な国だった。
それを国内のみならず、海外の旅行客にも提供し、傾きかけた国家財政を立て直そうとした。
もちろん、周りに住む住民たちは反対した。
だが菊花区が周りの地域に及ぼす経済効果はあまりに大きく、今では住民も不承不承ではあるが受け入れざるを得なくなっている。
ありとあらゆる色を詰め込んだのがこの菊花区である。
色恋や性に関してないものはないというこの国1番の快楽街。
ビルに日本家屋、古い時代と近代が入り混じった建物がひしめきあう、この菊花区はまるで異世界に迷い込んだような錯覚を起こす。
電気の光に蝋燭の光。
この街を訪れた者はその光景に心が躍り、日常を忘れひとときの快楽を貪るのだ。
真っ直ぐに伸びた大通りの終わりに、『桃源郷』という店がある。
瓦屋根に木造建築の『桃源郷』は菊花区の中でも値が張る店として有名だ。
今日も朱色の格子を前に人だかりができ、一夜の相手を品定めしている。
着物に髷、ドレスに巻いた髪。
遊女たちは格子の内側で色目を使いながらも、他愛のない会話をしていた
「あら、人身事故で電車が止まってるんですって」
「ならその余った時間でウチに来ないかしら?最近ご新規さん増えないのよねー」
「電車に乗るような方がウチで遊ぶお金、持ってると思う?」
「わからないわよーお金があるからって電車に乗らないわけないでしょ?」
遊女達の会話は客には聞こえない。
それ以上に街全体が騒がしいのだ。
客引きに、酔っ払い、毎日が祭のような賑わいを見せている。
橋本光雄はふらりと立ち寄った『桃源郷』の格子の前でぼんやりと遊女を眺めていた。
グレーのツースはややくたびれており、茶色に染めた髪を後ろに撫で付けていたが、今はやや乱れている。
別に今夜過ごす相手を求めているわけではない。
ただ仕事帰りにぼんやりと歩いていたら、菊花区の檻を潜っていたので、話のネタにと眺めていた。
すると見世の奥に黒髪を肩まで伸ばし、女物の着物を一枚羽織っただけで帯も閉めず、ボクサーパンツ姿という姿の少年が目に止まった。
少年とパチリと目が合う。
口の端を片方だけあげてニヤリと笑った少年は気だるそうに橋本の前にやって来た。
まだ10代であろう少年から発せられる独特の雰囲気に橋本は息を止めた。
視線を外すことができないままでいた橋本に少年はこう告げた。
「オレを買いたいなら、裏口回って白いドアを開けな」
橋本は何かに取り憑かれたかのように店の裏に回るとすぐ、白いドアを見つけた。
木製の扉に雑にペンキで白を塗った様なドアのドアノブを回す。
ガタリと開いた扉の目の前には幅の狭い階段があり、橋本はほぼ這う様にその階段を登ると6畳ほどの和室に先ほどの少年が片膝を立てて待ち構えていた。
「オレは体は売らねぇんだ。俺ができるのは占いだけだ。1時間3000円、安いもんだろ?」
橋本は初めから少年と肌を合わせたいとは思っていなかったので、すんなりと頷いた。
しかし、占いとは。
この街で、この店で、必要とされるものなのだろうか。
「で?何を占って欲しいんだ?」
橋本は狼狽えた。そもそもただ目が合った少年に導かれる様にしてこの部屋まで来ただけで、少年が占いをするからといっても特に占って欲しい事もない。
どうしようかと視線を彷徨わせる。
「なんだい、兄さん、何も考えずに来ちまったのかい?」
「その、ここに来るのも初めてで見学して帰るだけのつもりだったから…」
「そりゃ悪かったな。オレはてっきり…」
「いや、いいんだ。そうだな…せっかくだから、何か占ってもらおうかな」
「よしきた」
占いには興味がなかったが、この少年には興味がある。
金を払う以上、菊花区の空気を味わって帰ろうと思った。
何も考えずに部屋に入ってしまったが、安い代金が橋本の強張った心を緩めた。
偶然にせよ、軽率だったなと思いつつ、少年の気やすさに自分でも驚くほど素直に、誰にも言えなかった悩みを打ち明ける。
そしてそれは、この街でなら、許される気がした。
「俺には…その…、体だけの関係の人がいるんだけど、その人と今後どうなるか気になって」
「恋人じゃないのかい?」
「中学からの腐れ縁でね、気がついたら体の関係になったんだ」
橋本は少年の目を見据えると、ため息をひとつついた
「だけどそいつさ、先週結婚したんだよ。きっちり俺も結婚式に呼ばれてさ。
嫁さんの横でずっと笑ってるそいつを見てたら、この関係も終わりなんだなと思ってたんだよ」
部屋には燭台の灯りしかなく、程よい暗さが橋本の羞恥心を消した
「でもさ、結婚式の二次会の終わりに、あいつ俺の耳元で言ったんだ
『これからもよろしく』ってさ…」
「兄さんはその時どう思ったんだい?」
「俺も信じられないんだけど…体だけでも関係が続くのが、嬉しいと思ったんだ…でも、あいつを拒めない自分が情けなくてさ。嫁さんがいる様なやつといつまでも関係が続くわけない…」
外は相変わらず賑やかしい。
夜だというのに、誰も体を休めようとは思わないのだろうか。
「だけど…それでもいいと思うくらい…俺はあいつが好きなんだ…くそっ!あぁ…自分が情けないよ」
「惚れた方が負けってやつか?」
「そう、そうだね…その通りだ。でもやっぱり罪悪感がさ…あいつは俺のこと好きでもなんでもないってわかってるのに…でも俺は…どうしても…」
「オレは誰かに惚れた事ないからわかんねぇけどさ。兄さんの想いはすげぇよ」
「何が凄いんだよ…」
「悩んで苦しんで、それでも離れられないから、自分の存在を消そうとしたんだろ?」
「…は?何言って…」
「今夜会えないか?って電話があって、悩みに悩んだ兄さんは、走ってくる電車に飛び込んだ」
燭台の蝋燭の炎が大きく揺れた
「オレを見つけて話に来たんだ。最後に兄さんの想いを誰かに聞いて欲しかったんじゃねぇの?」
「俺が…。何を言って…」
その時橋本は頭から生暖かい液体が流れてくるのを感じた。やがてスーツはボロボロになり、手足が紫色へと変色していく。
「さぁ、占いの話だけどな。兄さんの死を知ったその相手はそりゃーもう病む。仕事も辞めて、離婚もして酒に逃げる日々を過ごすことになる」
橋本は身体の感覚が無くなるのを感じながら、それはありえないと笑いをこぼした。
だってあいつは…。
「そいつぁ酒に逃げるのも飽きて来た時に兄さんのことを好きだったことに、気づくんだ」
「そんな…ありえない」
「いや、占いだからもちろん必ず当たるとはかぎらねぇよ?まぁひとつの可能性の話だと思って聞いてくれよ。んで、兄さんに恥じない生き方をしようと思ったそいつは何を始めると思う?」
「…まったく想像がつかないな」
「オレも…くくっ…笑っちまって悪いんだけどさ…ふっ…田舎の遊園地で働きだすんだよ。清掃員として」
「は?何それ…」
「兄さんと観覧車に乗りたかったんだってさ。一日遊んで過ごして、笑い合うだけの日を、夢見たんだよ」
「…中学生かよ」
「いや、まじそれ!でもあれだな、普通の幸せって難しいのな。兄さんがいなくなるまで、自分の気持ちに気づけないなんて、バカな男だね」
「…そうだね…普通って…本当に難しいよ。あー俺もなんてバカなことしたんだろう」
「ほんと、もったいねーよ。だからさ、来世があるかオレにはわかんねぇけどさ、その時は…間違えねぇようにな」
「ふふっ…あーくっそ!でももう、死んじゃったしなぁーあーほんと、…ふふ、口があるのに、伝えれば良かったんだよなぁーあー…26年の人生かー」
「どうだい?オレの占い、信じる?」
「信じたい。じゃなきゃ俺は成仏できないよ」
「恋で身を滅ぼすたぁねー」
「仕方ないよ、惚れた方が負けだろ?」
紫色に変色し血まみれだった橋本の全身から金色の粒子が溢れ出す
やがて橋本は店に来た時の姿に戻り、泣きそうな笑顔を浮かべた。
26歳の穏やかな青年の姿は少年の目の中で小さく揺れた。
「兄さん、次は幸せになりなよ」
橋本は少年の言葉に小さく頷くと、光の粒子となり、天へと昇って行った。細く長い光の粒子は小さく蛇行しながら、上へ上へと昇って行き、最後の一粒が部屋から消えると、少年は小さく息を吐いた。
「恋に心を狂わせるのは籠の中も外も一緒ってことか」
菊花区は細い鉄製の檻に囲まれていることから、籠とも言われている。
少年は頭をかくと、店に通じる階段を降りてまた見世に足を運ぶ。
「ハク、あんたまた金にならない客をとったね」
手前で声をかけてきたのはこの店の店主である椿だった。
47歳になる彼女はボブカットの髪を緩やかにセットし、胸元が大きく開いた黒いロングドレスを纏い、熟した女の色気を最大限に引き立たせていた
「わりぃわりぃ、オレ区別つかなくてさ」
「まぁいいわ。タダ働きしたのは私じゃないしね。明日は先生がいらっしゃるから大目にみとくわ」
「あざーっす」
ハクと呼ばれた少年は羽織っただけの着物を翻すと見世の畳に足をかけまた隅に座った
ここは菊花区
欲望と色恋の街
格子から見上げる小さな夜空にうっすらと見える星を見つけて、ハクは小さく微笑んだ
拙いですし、まだまだ推敲しなければと思いますが、読んで下さり誠にありがとうございます!