第九話『届かない言葉』
七月に入り、空は、分厚く、湿った、鉛色の雲に覆われる日が多くなった。
梅雨特有の、まとわりつくような湿気が、アスファルトの匂いや、生い茂る草木の青臭い匂いを、より一層、濃密にしている。オカルト研究会の部室にも、その、どこか鬱々とした季節の空気が、開け放たれた窓から、澱のように流れ込んできていた。
しかし、その気怠い空気とは裏腹に、部室の中は、奇妙な活気と、これまでにはなかった、安定した一体感に満ちていた。彼らは、数々の事件を経て、いつしか、一つの、有機的なチームとして機能し始めていたのだ。
「――というわけで、この『響泉ホール』の噂、信憑性はかなり高いと見ていいわ」
麗奈が、ホワイトボードに、町の地図を貼り付けながら、真剣な表情で言った。
事件の噂は、これまでのように、怯えた生徒が部室に駆け込んでくる、という牧歌的な形では、もたらされなかった。それは、亜里沙が、町の歴史を調査する過程で、偶然発見した、インターネットの、さらに奥深く、忘れ去られたようなローカルな怪談フォーラムのスレッドが、発端だった。
タイトルは、ただ、『丘の上の、あのホールには、近づくな』。
最初の書き込みは、ありふれた肝試しの体験談だった。しかし、スレッドを遡るにつれて、その内容は、明らかに、様相を変えていく。
『友人が、三人で肝試しに行った。一人が、帰ってきてから、おかしくなった。夜中に、突然、バイオリンを弾く真似をしながら、泣き叫ぶらしい。今は、精神科に入院している』
『ホールの前を、深夜、車で通りかかった。一瞬、中に、燃え盛る炎と、ドレスを着た女の人影が見えた。気のせいだと思いたい』
『聞くだけで、呪われる。あの場所から聞こえるバイオリンの音は、ただの音じゃない。あれは、絶望そのものだ』
匿名で、無責任な書き込みの数々。しかし、その一つ一つからは、誇張や、作り話では片付けられない、本物の、皮膚を粟立たせるような、恐怖の質感が、滲み出ていた。
麗奈が、警察関係者にコネを持つという、謎の知人に確認したところ、噂は、事実だった。警察が、すでに、青少年保護育成条例を名目に、ホール周辺への夜間の立ち入りを、非公式に、しかし、厳しく制限し始めているという。
「相手は、ただの地縛霊や、残留思念じゃない。もっと、能動的で、攻撃的で、そして、広範囲に、悪意ある影響を及ぼす、強力な霊障そのものよ。これは、私たちが、これまで相手にしてきたものとは、次元が違うわ」
麗奈の言葉に、部室の空気が、シン、と張り詰めた。
「面白そうじゃないか」
最初に沈黙を破ったのは、蓮だった。彼は、窓の外の、問題のホールがあるであろう、緑豊かな丘の方角を、うっとりとした瞳で見つめていた。
「それほどまでに、世界を歪める、凝縮された情念。愛か、憎しみか、あるいは、その両方が、複雑に絡み合った、究極の悲劇か…。一度、この目で、見てみたいものだね。その、滅びの芸術を」
「冗談じゃねえ! 人が、病院送りにされてんだぞ!」
猛が、蓮の、あまりにも不謹慎な発言に、声を荒げた。
「でも、だからこそ、放っておけねえだろ! 困ってる奴がいる、つーか、もう、町全体が、そいつのせいで、ヤバいことになってんだ! それを、なんとかするのが、俺たち、オカルト研究会の役目じゃねえのか!?」
彼の言葉は、単純で、どこまでも、まっすぐだった。彼の正義感は、常に、弱き者の側に立つ。
「…危険、です」
それまで、黙って、パソコンの画面に表示された、膨大な資料を読み込んでいた亜里沙が、小さな、しかし、芯のある声で、警告した。
「そのホール、『響泉ホール』は、五十年前の、七月七日の夜に起きた火災で、閉鎖されています。その火事で、一人の、若き天才ヴァイオリニストが、ステージの上で、亡くなっている。彼女の名前は、如月小夜子。当時、十八歳。その日は、彼女の、輝かしい未来を約束するはずだった、デビュー・リサイタルの、当日でした」
亜里沙の指が、キーボードの上を滑る。画面には、古い、モノクロの、しかし、鮮明な、一枚のポートレートが表示された。そこに写っているのは、ガラス細工のように、儚げで、しかし、その瞳の奥に、剃刀のような、鋭い意志の光を宿した、息をのむほどに、美しい少女だった。
「彼女は、神童と呼ばれていました。五歳でバイオリンを始め、あらゆるコンクールで、審査員が言葉を失うほどの、完璧な演奏を披露した、と。しかし、その内面は、記録を調べる限り、かなり、不安定だったようです。音楽一家に生まれたことによる、家族からの、過剰な期待。同世代の、ライバルたちへの、激しい嫉妬。そして、何よりも、自分自身の、完璧ではない才能に対する、極度の、自己嫌悪…。当時の、ゴシップ週刊誌の記事によると、火災の原因も、本当に、ただの事故だったのか、いくつか、不審な点があった、と、書かれています…」
「…なるほどな」
和人は、その、白黒の少女の写真から、目を離すことが、できなかった。
美しい。しかし、その美しさは、まるで、極限まで薄く削り出された、ガラスの刃物のようだった。触れれば、こちらが、血を流す。そんな、危うさに満ちている。
彼女の瞳の奥に、渦巻いている。喝采を求める、純粋な喜びと、他者を許さない、ドス黒い苦しみ。絶対的な自信と、それと同じくらい、巨大な、自己否定。愛と、憎しみ。その、あまりにも、矛盾した、激しく、そして、不安定な感情の嵐が、五十年という、気の遠くなるような時を超えて、こちらにまで、ヒリヒリと、伝わってくるようだった。
(これは、駄目だ)
和人の、魂が、これまで感じたことのない、本能的な、拒絶反応を示していた。
(こいつには、関わってはいけない。俺たちの、誰も、幸せにならない)
「…今回は、やめておこう」
和人が、静かに言った。その声は、自分でも驚くほど、冷たく、乾いていた。全員の視線が、彼に集まる。
「相手が、強すぎる。俺たちが、どうこうできるレベルじゃない。これは、俺たちの手には、余る」
それは、彼の、偽らざる、正直な気持ちだった。しかし、その言葉は、猛の、まっすぐな正義感に、火をつけてしまった。
「なんでだよ、相田先輩! あんたなら、何とかできるだろ! 今までだって、そうだったじゃねえか! あんたの言葉は、どんな幽霊にだって、届いたじゃねえか!」
「今回は、違うんだ…」
「違わねえ! やってみなきゃ、わかんねえだろ!」
議論は、平行線を辿った。そして、最終的に、麗奈が、重い、重い、決断を下した。
「…わかったわ。今回は、正式な調査依頼じゃない。だから、強制はしない。でも、私は、行ってみる。このまま、危険な存在だとわかっていながら、見て見ぬふりなんて、私には、できないから。ただ、約束する。絶対に、無理はしない。今日は、昼間の、予備調査だけ。相手のエネルギーの性質を、遠くから、観測するだけよ。それで、少しでも、私たちの手に負えないと判断したら、潔く、撤退する。それで、どう?」
その、リーダーとしての、苦渋に満ちた妥協案に、もはや、誰も、反論することは、できなかった。
響泉ホールは、町の外れの、小高い丘の上に、まるで、時間に忘れ去られた、巨大な、灰色の、鯨の死骸のように、静かに、横たわっていた。
かつては、白亜の壁が、市民の芸術への誇りの象徴だったというその建物も、今では、五十年前の火災の煤と、壁を覆い尽くす、生命力の強い蔦に、その姿を、ほとんど飲み込まれかけている。窓ガラスは、そのほとんどが割れ落ち、黒々とした、空虚な眼窩のように、内部の、底知れない闇を、覗かせていた。正面玄関の、壮麗だったはずのガラスの扉は、板で厳重に打ち付けられ、その上から、錆びて、赤茶けた鎖が、ぐるぐると、何重にも、巻き付けられていた。色褪せて、半分ちぎれた『立入禁止』の看板が、風に吹かれて、カラカラと、乾いた、虚しい音を立てている。
昼間の、明るい光の下でさえ、その建物は、周囲の、生命力に満ちた夏の自然から、完全に、切り離されたかのように、異質な、冷たく、重い、死の空気を放っていた。
「…ひどいな」
猛が、呻く。
「ああ。まるで、壮大な、悲劇の舞台装置そのものだね」
蓮が、物憂げに呟いた。
彼らは、中には入らず、ただ、遠巻きに、建物を観察する。亜里沙の調査通りだった。ここは、ただの廃墟ではない。五十年前の、あの、七月七日の夜から、時間が、完全に、止まってしまった、巨大な、悲しみの、結晶体だった。
彼らは、建物の裏手にある、通用口の、鉄の扉が、わずかに開いているのを発見した。おそらく、過去に、肝試しに訪れた若者たちが、こじ開けたのだろう。
「…中から、ものすごい、霊的な圧力を感じるわ」
麗奈が、扉の隙間に、特殊な計測器を差し込みながら、顔を顰めた。
「でも、昼間のせいか、今は、嵐の前の静けさ、って感じね。まるで、眠っているみたい…」
「先輩方、これ…」
亜里沙が、扉のすぐ下の、地面を指さした。そこには、何本もの、枯れた、黒ずんだ花が、手向けられていた。おそらく、今でも、亡くなった如月小夜子の、熱心なファンか、あるいは、遺族が、供えに来ているのだろう。その、健気な行為が、逆に、この場所の悲劇性を、より一層、際立たせていた。
その夜。
結局、彼らは、再び、丘の上へと、足を運んでしまっていた。
昼間の調査の後、一度は、解散した。麗奈も、「やはり、危険すぎる。私たちの手に負える相手じゃない。今回は、正式に、撤退しましょう」と、はっきりと、宣言していた。
しかし、夜になり、細い、鎌のような月が、薄雲の間から、地上に、青白い光を落とし始めると、彼らは、皆、聞いてしまったのだ。
丘の上から、湿った夜風に乗って、微かに、しかし、はっきりと、聞こえてくる、その音を。
それは、あまりにも、美しく、そして、あまりにも、悲痛な、バイオリンの旋律だった。
それは、助けを求める、 Sirenの歌声のようでもあり、同時に、テリトリーに近づく者すべてを、威嚇する、獣の唸り声のようでもあった。
それは、彼らの、恐怖心と、好奇心、そして、義侠心を、抗い難く、惹きつけていた。
夜の響泉ホールは、昼間とは、比較にならないほどの、圧倒的な、凝縮された、絶望のオーラを、その身から、放っていた。
一歩、その古びた敷地内へ、足を踏み入れると、ぶわり、と、全身の肌が、総毛立った。真夏だというのに、まるで、巨大な冷凍庫の中に、裸で、放り込まれたかのような、骨の髄まで、凍てつかせる、霊的な冷気。空気は、ただ、重いだけではない。五十年前の、焦げた木の匂い、湿ったコンクリートと、カビの匂い、そして、言葉にできない、魂が腐敗したかのような、深い、深い、悲しみの匂いが、濃密に、混じり合って、鼻腔を、そして、肺を、侵食してくる。
彼らは、懐中電灯の、心細い、一本の光だけを頼りに、昼間、見つけた、通用口から、ホールの中へと、滑り込んだ。
ロビーには、当時のポスターが、焼け焦げたまま、亡霊のように、壁に張り付いている。『如月小夜子 デビュー・リサイタル』という、華やかだったはずの文字が、黒い煤の中で、不気味に、そして、悲しげに、浮かび上がっていた。
そして、メインホールへと続く、重厚な、二重扉。
その、わずかな隙間から、漏れ聞こえてくる。
バイオリンの、聴く者の、正気と、狂気の、境界線を、掻き乱すような、凄絶な、旋律。
そして、それに、混じって、確かに、聞こえるのだ。
若い、女の、長く、尾を引く、嗚咽。
誰かを、心の底から、呪うような、低い、低い、呻き声。
そして、パチ、パチ、パチ、と、すぐ、耳元で、何かが、燃え盛っているかのような、生々しい、幻の音が。
麗奈が、意を決して、扉を、押した。
軋むような、重い音を立てて、開かれた、その先の光景。
五人は、その、あまりにも、地獄のような、そして、あまりにも、悲しく、美しい光景に、呼吸さえ、忘れて、立ち尽くした。
広大なホールの、その、中央。
月明かりが、天窓から、まるで、一本のスポットライトのように、降り注ぐ、その、ステージの上で、一人の、少女の霊が、バイオリンを弾いていた。
彼女の姿は、恐ろしいほどに、不安定だった。
純白の、シルクでできた、美しいコンサートドレスを身に纏い、月光を浴びて、神々しく輝く、可憐な天才少女の姿が、次の瞬間には、まるで、悪夢の残像のように、紅蓮の炎に焼かれ、皮膚が、醜く爛れた、おぞましい、怨霊の姿へと、ノイズの走る映像のように、激しく、明滅を、繰り返している。
彼女の周りには、幻の炎が、音もなく、しかし、確かに、燃え盛っていた。
ステージの床は、焼け落ち、かつて、赤いベルベットが張られていた客席の椅子は、無残に引き裂かれ、中のスプリングを、まるで、肋骨のように、剥き出しにしている。
彼女は、観客のいない、廃墟と化したホールで、ただ一人、自分の、栄光と、絶望と、そして、死の瞬間を、永遠に、永遠に、繰り返し、再演し続けているのだ。
そのバイオリンの音色は、もはや、音楽ではなかった。
それは、彼女の、引き裂かれた、魂そのものが、発する、壮絶で、そして、救いのない、悲鳴だった。
「…くそっ!」
猛が、恐怖を、怒りで、振り払うように、一歩前に出た。
「俺が、盾になる! みんな、絶対に、俺の後ろから、下がるなよ!」
しかし、彼が、ステージに、近づこうとした、まさに、その瞬間。
バイオリンを弾いていた、少女の霊の、憎悪に満ちた、虚ろな視線が、彼を、確かに、捉えた。
ドンッ!!!
見えない、しかし、疑いようもなく、巨大な、衝撃波。猛の、鍛え上げられた、岩のような身体が、まるで、巨大な鉄球で、真正面から殴られたかのように、いとも、簡単に、客席の後方まで、吹き飛ばされた。壁に、叩きつけられ、呻き声を上げて、彼は、動かなくなった。
「猛君!」
麗奈が、悲鳴を上げる。
「ダメだ、近づけない…! 彼女の、悲しみと、憎しみ、そして、プライドが、混じり合った、あまりにも、強力な、拒絶のフィールドが、ステージ全体を、覆っている…!」
蓮が、苦しげに、顔を歪める。
「これは、美しくない…。あまりにも、醜く、自己完結し、他者の介入を、一切、許さない、救いのない、痛みだ…! 我々の、美学とは、相容れない…!」
その時、ステージ上の、少女の霊が、バイオリンを弾くのを、ぴたり、とやめた。
そして、その、焼け爛れた、虚ろな瞳で、和人たちを、一人、一人、値踏みするように、見つめた。
頭の中に、直接、声が、響き渡った。
それは、一人の、クリアな声ではなかった。何人もの、嘲笑うような、囁き声、罵るような、怒声、そして、絶望した、泣き声が、不協和音となって、混じり合った、恐ろしい、合唱だった。
『ナニ…? アナタタチモ、ワタシノ音楽ヲ、キキニキタノ…?』
『デモ、ムダヨ。ワタシノ音楽ハ、ダレニモ、ワカラナイ。ダレニモ、ワカッテホシクナイ』
『オマエタチナンカニ、ワカッテタマルカ…! キエロ、ワタシノ世界カラ、キエウセロ…!』
声と同時に、ホール全体が、まるで、大地震に襲われたかのように、激しく、揺れ動いた。天井から、コンクリートの破片が、降り注ぐ。客席の、残骸が、意志を持ったかのように、引き裂かれ、鋭い、槍となって、彼らに襲いかかってくる。
「きゃあっ!」
亜里沙が、悲鳴を上げて、その場に、蹲った。
「…和人君、お願い…! あなたしか、いない…!」
麗奈が、もはや、懇願するように、叫んだ。
和人は、唇を、血が滲むほど、強く、噛み締めた。
(ダメだ。こいつには、俺の言葉は、絶対に、届かない)
魂が、その、全霊で、拒絶している。本能が、逃げろ、と、最大級の、警鐘を鳴らしていた。
しかし、目の前で、仲間たちが、傷つき、怯え、危険に晒されている。
もう、迷っている、時間も、選択肢も、残されてはいなかった。
彼は、覚悟を、決めた。
仲間たちが、必死で、彼を守るように、小さな、しかし、決死の、壁になる。その、わずかな隙間を縫って、和人は、嵐のような、負のエネルギーが渦巻く、その中心へと、駆け上がった。
彼は、少女の霊の、目の前に立った。
そして、いつものように、語りかけた。彼の、持てる、全ての、最後の、一滴までの、共感を込めて。
「辛かったんだな」
彼は、言った。
「あなたの音楽は、こんなものじゃないはずだ。本当は、もっと、ずっと、世界中の、誰の心をも、震わせるほどに、美しくて、優しい音色だったはずだ。でも、それが、こんなに、悲しい音になってしまった。苦しかったよな…」
その、和人の、魂からの、共感の言葉。
それが、最悪の、そして、最後の、引き金となった。
少女の霊の、虚ろだった瞳に、初めて、明確な、そして、燃え盛る、地獄の業火のような、凄まじい、憎悪の光が、たたえられた。
『―――オマエニ、ナニガワカルッ!!!!』
それは、声ではなかった。
彼女の、五十年分の、孤独と、絶望と、プライドと、自己嫌悪、その、全てが、凝縮された、魂そのものが、発する、純粋な、拒絶の、絶叫だった。
彼女の、あまりにも、歪んでしまった心は、他者からの、いかなる、共感も、理解も、優しささえも、「安っぽい、偽善」であり、「自らの、聖なる苦しみを、汚す、最大の侮辱」であると、断じたのだ。
次の瞬間、和人の身体を、見えない、しかし、あまりにも、鋭利な、無数の、ガラスの破片のようなものが、内側から、貫いた。
それは、物理的な痛みではない。
もっと、ずっと、根源的な、魂の、痛み。
和人の、共感能力、そのものが、完全に、逆流させられたのだ。
少女の、最後の瞬間の、絶望と、苦痛が、一切の、フィルターも、慈悲もなく、彼の魂へと、直接、奔流となって、流れ込んできた。
皮膚が、じりじりと、焼ける、熱。
肺が、濃密な、黒い煙で、満たされる、窒息の、苦しみ。
愛用の、バイオリンが、炎の中で、メキメキと、音を立てて、崩れていく、絶望。
そして、何よりも、強い、強い、自分自身の、才能の限界と、不完全さを、呪う、殺意にも似た、自己嫌悪。
「あ…がっ…あ……っ!」
和人は、声にならない悲鳴を上げ、その場に、崩れ落ちた。頭を抱え、赤子のように、蹲る。まるで、魂が、内側から、ズタズタに、引き裂かれていくようだった。彼の、共感能力が、彼の、最大の武器が、今、彼自身を、容赦なく、破壊する、最悪の凶器へと、変貌していた。
「和人君っ!!」
「相田先輩っ!!」
仲間たちの、悲痛な叫び声が、まるで、水の中から聞いているかのように、遠くで、聞こえる。
猛と蓮が、狂乱する霊の、凄まじい、攻撃を、その身を、挺して受け止めながら、ステージへと駆け上がり、意識が、白く、朦朧としている和人の身体を、両側から、力ずくで、抱え上げた。
「退くわよ! 全員、撤退!! ここにいたら、皆、死ぬわ!!」
麗奈の、悲痛な、しかし、的確な、リーダーとしての、最後の指示が、飛ぶ。
彼らは、文字通り、命からがら、地獄と化したホールから、転がり出るようにして、脱出した。
外の、静かな、生ぬるい夜の空気が、やけに、現実離れして感じられた。
彼らは、全員、ボロボロに、傷つき、疲れ果てていた。
そして、丘の上の、ホールの中では、今もなお、一人の、美しい、天才少女が、救われることなく、永遠の苦しみの中を、たった一人で、叫び、泣き、そして、バイオリンを、弾き続けている。
彼らは、初めて、完全に、そして、決定的に、敗北したのだ。
和人は、仲間たちの腕の中で、浅く、荒い息を繰り返しながら、遠ざかっていく、ホールの、巨大な、黒いシルエットを、見つめていた。
その瞳からは、光が、完全に、消えていた。
届かない、言葉。
救えない、魂。
彼の心は、その、あまりにも、重く、そして、冷たい、絶望の事実によって、粉々に、砕かれていた。