第七話『図書館の検閲官』
あの河原での一件から、数日が過ぎていた。
季節は、梅雨入りを間近に控えた、湿り気を帯びた空気が支配する時期へと移り変わっていた。
空は、まるで気の抜けたサイダーのように、白っぽく、ぼんやりと霞んでいる。
オカルト研究会の部室にも、その気怠い空気が、澱のように溜まっていた。
いや、空気そのものよりも、そこにいるメンバーたちの間に、これまでとは質の違う、静かな時間が流れていた、と言うべきか。
猛の、空気を揺るがすような大声は、鳴りを潜めていた。
彼は、部室の隅で、ただ黙々と、しかし、どこか思い詰めたように、ストレッチを繰り返している。
蓮の、現実離れしたポエティックな呟きも、最近はあまり聞こえてこない。
彼は、窓の外の灰色の空を、ただ、じっと見つめている。
亜里沙は、いつも通りパソコンに向かっているが、その指の動きは、以前よりも少しだけ、緩慢に見えた。
そして、麗奈。
彼女は、ホワイトボードの前で腕を組んで、何かを考えてはいたが、その視線は、頻繁に、部屋の隅にあるソファへと向けられていた。
ソファには、相田和人が、深く沈み込むようにして座っていた。
彼の膝の上には、いつも読んでいる文庫本が開かれていたが、そのページは、もうずいぶん長いこと、めくられてはいなかった。
彼の目は、ただ、虚空の、一点だけを見つめている。
あの日以来、和人は、明らかに変わってしまった。
口数が減ったわけではない。
元々、彼はお喋りな方ではなかった。
しかし、彼の周りを常に覆っていた、あの、静かで、凪いだ湖のような、独特の穏やかな気配が、今は、すっかりと消え失せていた。
今の彼は、まるで、薄い氷の膜が張った、冬の湖のようだった。
静かではあるが、その下には、冷たく、重い水が、沈黙している。
時折、他のメンバーには見えない「何か」に、びくりと肩を震わせることもあった。
河原で、あの小さな男の子の、十年分の孤独と悲しみを、その身に真正面から受け止めた後遺症。
それは、和人の魂に、深く、そして、冷たい傷跡を残していた。
「…ねえ、相田君」
沈黙を破ったのは、麗奈だった。
彼女は、できるだけ明るい声を作って、和人に話しかけた。
「昨日、亜里沙ちゃんが見つけてくれたんだけど、面白い話があるの。聞かない?」
「…別に、いい」
和人の返事は、短く、そして、どこか他人事のようだった。
麗奈は、一瞬、悲しそうな顔をしたが、すぐに気を取り直して、話を続けた。
彼女は、この淀んだ空気を、どうにかして変えようと、必死なのだ。
「うちの学校の図書館の、七不思議の一つなんだけどね。『姿なき検閲官』って、知ってる?」
話は、亜里沙が切り出した。
「私、今、創作の参考にしたくて、少し古い漫画とか、海外の少し過激な思想の本とかを、探してるんですけど…」
彼女は、おずおずと、自分のノートパソコンの画面をみんなに見せた。
そこには、図書館の蔵書検索システムのページが表示されている。
「システム上は、全部『貸出可』で、書架にあるはずなんです。なのに、実際に行ってみると、その本だけが、いつも、ないんです。何度、探しに行っても…」
「それ、私も聞いたことある!」
猛が、ストレッチを中断して、会話に入ってきた。
「野球部の先輩が言ってたぜ。『深夜の図書館で、誰もいないはずなのに、本が棚に戻る音がする』って。
あと、『不良っぽい漫画を読もうとすると、いつの間にか、道徳の教科書にすり替わってる』とか…」
「ふむ。それは、本の秩序を愛する、潔癖な司書の魂が、死後も図書館に留まっている、ということかな。自らの信じる『正しさ』で、書架の宇宙を再編しようとしているんだね。なんとも、いじらしいじゃないか」
蓮が、物憂げに呟く。
「亜里沙ちゃんの調べによると、その現象が起きるのは、決まって、別館三階の、第二書庫の特定の棚だけ。そして、消える本には、共通点があるわ」
麗奈は、ホワイトボードに、マジックで書き出した。
『反権威主義』『先鋭的な芸術表現』『既成概念への挑戦』
「つまり、その『検閲官』は、自分の価値観に合わない、生徒に『相応しくない』と判断した本を、意図的に隠している可能性が高い。これは、調査の価値、大アリよ!」
麗奈は、無理やりにでも、いつもの調子で、事件の始まりを宣言した。
その目は、しかし、心配そうに、ソファに座る和人の反応を窺っていた。
和人は、何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと、読んでいなかった本のページを、一枚、めくっただけだった。
その日の放課後、五人は、閉館時間を過ぎた図書館に、特別に許可を得て、足を踏み入れていた。
昼間の、生徒たちの活気と、ページのめくれる乾いた音、微かな話し声に満ちた空間とは、まるで違う場所だった。
しんと静まり返った館内には、古い紙と、本の装丁に使われる糊の、甘く、懐かしいような匂いが満ちている。
非常灯の、青白い光だけが、巨大な書架の列を、ぼんやりと照らし出し、床に、長く、黒い影の迷路を作り出していた。
「すごい…」
亜里沙が、小さな声で、感嘆の息を漏らした。
静寂の中、自分たちの足音と、呼吸の音だけが、やけに大きく響く。
まるで、数百万の物語が、息を潜めて、こちらを見つめているかのような、荘厳で、そして、少しだけ不気味な感覚。
「よし、作戦を確認するわ」
麗奈は、声を潜めて言った。
彼女の表情は、いつになく真剣だった。
「今回は、和人君には、極力、負担をかけさせない。私たちが、先に相手の正体と目的を突き止める。だから、和人君は、何か起きるまで、あそこの閲覧席で待機していて」
彼女は、和人の体調を、明らかに気遣っていた。
「…わかった」
和人は、素直に頷いた。
正直、ありがたかった。
今の彼は、自ら、積極的に怪異と向き合うだけの気力が、残っていなかった。
調査は、麗奈と亜里沙が中心となって進められた。
「問題の棚は、請求記号302.1。社会科学系の、少し古い専門書が並んでいるエリアね」
麗奈が、懐中電灯で棚を照らし出す。
「でも、亜里沙ちゃんが探している本は、漫画や思想書。本来なら、この分類じゃないはず…」
「はい。図書館の司書の先生に、こっそり聞いてみたんです。そしたら、十年くらい前から、この棚の周辺だけ、蔵書のデータと、実際の配置が、頻繁にズレるようになったそうです。何度、修正しても、いつの間にか、また、違う本が紛れ込んだり、あるはずの本がなくなったり…」
亜里沙の言葉に、麗奈は頷く。
「なるほど。霊が、自分の意志で、書架の分類を『編集』している、というわけね…」
一方、猛と蓮は、周囲の警戒にあたっていた。
「…なあ、蓮。なんか、この辺だけ、空気がひんやりしねえか?」
猛が、自分の腕をさすりながら言う。
「ああ。感じるよ、猛君。これは、ただの冷気じゃない。厳格で、潔癖で、そして、一分の隙もない、まるで、完璧に管理された庭園のような、そんな気配だ。美しいけれど、少しも、息が休まらない…」
蓮は、目を閉じて、その場の空気を味わうように、深く息を吸った。
その時だった。
カタッ。
一番奥の書架の陰から、小さな音がした。
本が、一冊、棚から滑り落ちたような音。
四人の間に、緊張が走る。
彼らは、息を殺して、音のした方へと、ゆっくりと近づいていった。
そして、書架の角を曲がった瞬間、その姿を、目にした。
そこにいたのは、一人の老婆の霊だった。
背筋を、まっすぐに伸ばし、銀色の髪を、きっちりと夜会巻きに結い上げている。
縁の細い眼鏡をかけ、古風な、しかし、シミ一つない、司書の制服を身に着けていた。
彼女は、床に落ちた本を、そっと拾い上げると、その表紙についた、見えない埃を、指先で丁寧に払った。
そして、まるで、迷子の子を、元の場所へ帰してあげるかのように、優しく、棚の定位置へと戻した。
その一連の動作には、何の敵意も、悪意も感じられない。
ただ、この図書館と、ここにある本に対する、深い、深い、愛情だけが、滲み出ていた。
しかし、彼女の周りに漂う空気は、蓮が言ったように、厳格で、冷たく、他者の介入を一切許さない、という、強い意志に満ちていた。
「…間違いないわ。彼女が、この図書館の『検閲官』…」
麗奈が、囁く。
その時、蓮が、ふらふらと、何かに引き寄せられるように、一歩、前に出た。彼の視線は、老婆の霊がいた棚の一冊の本に、釘付けになっている。
それは、海外の、少し過激な恋愛詩集だった。
「ああ、この詩集、ずっと探していたんだ。こんなところに、隠されていたなんて…」
彼が、その本に、手を伸ばそうとした、瞬間。
ヒュッ、と、空気が凍るような、鋭い気配が走った。
本が、まるで、見えない手に弾かれたかのように、蓮の手をすり抜け、棚の、さらに奥へと、滑り込んでいった。
そして、頭の中に、直接、響いてきた。
しわがれた、しかし、凛とした、老婆の声が。
『――それは、若人が、読むべきものでは、ありません』
声と同時に、強烈な、プレッシャーが、彼らを襲った。
それは、憎悪や恐怖とは違う。「これは、いけないことです」と、頭ごなしに叱りつけられるような、息の詰まる、道徳的な圧力だった。
「なっ…!?」
麗奈は、怯むことなく、一歩前に出た。
「私たちは、あなたに害をなすつもりはありません! しかし、その本は、この図書館の正式な蔵書です! 生徒が、自由に読む権利を、あなたが奪う権限はないはずです!」
彼女は、論理で、正しさで、相手に立ち向かおうとした。
しかし、老婆の霊からは、さらに冷たい、侮蔑にも似た気配が返ってきた。
『権限は、規則から生まれるのでは、ありません。正しさから、生まれるのです。私は、ただ、子供たちの心を、不健全な思想から、守っているだけ…』
議論は、平行線だった。
麗奈の言う「規則の正しさ」と、老婆の言う「道徳の正しさ」。
どちらも、一歩も譲る気はない。状況は、完全に、膠着していた。
その、張り詰めた沈黙を、破ったのは、和人だった。
彼は、いつの間にか、閲覧席から立ち上がり、静かに、仲間たちの隣に立っていた。
その顔には、河原で見せたような、深い疲労の色が、まだ、残っている。
それでも、彼は、老婆の霊の前に、ゆっくりと歩み出た。
仲間たちが、心配そうに彼を見守る。無理をさせてはいけない。
しかし、この状況を打開できるのは、彼しかいないことも、皆、わかっていた。
和人は、老婆の霊に、静かに語りかけた。
「あなたの言うこと、わかる気がします」
その第一声は、意外なものだった。
「あなたは、心配なんですよね。ここにいる、俺たちみたいな若いのが、間違った本を読んで、心を汚したり、道を誤ったりしないか。だから、守ってくれている」
彼は、まず、相手の善意を、肯定した。
老婆の霊の、厳格な気配が、ほんの少しだけ、和らいだ。
和人は、近くの棚から、誰もが知っている、健全な偉人の伝記を、一冊、抜き取った。
「例えば、この本。これは、正しい本ですか?」
『…ええ。努力と誠実さの尊さを教える、素晴らしい本です』
「でも、もし、これを読んだ誰かが、『自分は、こんなに立派にはなれない』って、絶望してしまったら? この本が、その子を、逆に苦しめてしまうとしたら?」
『それは…その子の、捉え方が、未熟なのです』
「そうかもしれない。じゃあ」
和人は、今度は、蓮が読もうとしていた、恋愛詩集を、棚から取り出した。不思議と、今度は、何の抵抗もなかった。
「この本は、あなたに言わせれば、不健全で、間違った本なのかもしれない。でも、もし、これを読んだ誰かが、『自分と同じように、恋に悩んでいる人がいたんだ』って、救われるとしたら? この一冊が、その子の、孤独な夜を、たった一人で支えてくれるとしたら?」
『…………』
老婆の霊は、答えなかった。
和人は、その沈黙に向かって、静かに、そして、はっきりと、続けた。
「何が正しくて、何が間違っているかなんて、本当は、誰にも決められないんじゃないかな。あなたにとっての『正しさ』は、あなたにとって、すごく大切で、尊いものだと思う。でも、その正しさを、他の誰かに、押し付けることは、本当に、正しいことなのかな」
「あなたが、良かれと思ってやっているその行いが、もしかしたら、誰かが、自分にとっての『正しい一冊』に出会う、その、たった一度のチャンスを、奪ってしまっているとしたら」
「あなたは、子供たちを、守っているんじゃない。考えることから、選ぶことから、そして、間違うことから、遠ざけているだけだ。それは、成長する機会そのものを、奪っていることと、同じじゃないですか?」
和人の言葉が、静まり返った図書館に、深く、深く、染み渡っていく。
老婆の霊は、微動だにしなかった。
彼女が、何十年も、信じて、守り続けてきた、確固たる信念の城が、足元から、ガラガラと、音をてて崩れていく。
彼女は、ゆっくりと、自分の、半透明の手のひらを見つめた。
そして、書架に並ぶ、無数の、多種多様な本たちを、見渡した。
一つ一つの本に、違う人生が、違う考え方が、違う世界が、詰まっている。
その、多様な宇宙を、自分は、たった一つの、小さな物差しで、裁断しようとしていたのだ。
(私は…なんと、傲慢だったのでしょう…)
彼女の、厳格に引き結ばれていた口元が、ゆっくりと、緩んだ。その表情は、後悔のようでもあり、安堵のようでもあった。
『…あなたの、言う通り、なのかもしれませんね…』
か細い、しかし、憑き物が落ちたような、穏やかな声が、響いた。
『選ぶのは、私では、ない…。読む者の、自由なのですね…』
彼女は、和人に向かって、深く、深く、お辞儀をした。
その姿は、もう、厳格な検閲官ではなく、ただ、本を愛する、一人の、物静かな司書の姿だった。
そして、その身体は、光の粒子になるでもなく、まるで、古い本のページが、風に吹かれて、一文字、また一文字と、消えていくかのように、静かに、穏やかに、掻き消えていった。
後に残されたのは、ただ、古い紙の匂いと、完全な静寂だけだった。
図書館に満ちていた、あの、息の詰まるような、道徳的なプレッシャーは、跡形もなく消え去っていた。
仲間たちが、和人の元へ、駆け寄ってきた。
彼らは、見ていた。和人が、どれほどの、精神的な疲労と戦いながら、この対話に臨んでいたかを。
「…大丈夫か、和人君」
麗奈が、心底、心配そうな顔で、彼の顔を覗き込んだ。
「無理、しなくてよかったのに…。私たちで、もう少し、何か、方法を探せたかもしれない…」
「…いや」
和人は、首を横に振ると、ほんの少しだけ、笑ってみせた。それは、久しぶりに見る、彼の、穏やかな笑顔だった。
「大丈夫。それに、今回は、一人じゃなかったから」
彼は、仲間たちを見回した。
「お前たちが、相手がどんな奴か、先に、ちゃんと調べて、教えてくれた。だから、俺は、最後に、少しだけ、話ができただけだ」
その言葉に、麗奈も、猛も、蓮も、亜里沙も、顔を見合わせて、はにかんだ。
和人は、まだ、本調子ではない。彼の心に空いた穴は、まだ、塞がってはいない。
でも、その穴に、仲間たちの存在が、温かい、柔らかな光を、注いでくれている。
彼は、そのことに、気づき始めていた。
図書館からの帰り道。亜里沙は、例の詩集を、嬉しそうに胸に抱えていた。
五人を乗せた、終電間際の電車が、ガタン、と音を立てて走っていく。窓の外には、町の灯りが、まるで、地上に広がる天の川のように、流れていった。
和人は、窓ガラスに映る、自分たち五人の姿を、ぼんやりと眺めていた。
騒がしくて、手がかかって、全く、平穏とはほど遠い。
でも、その、バラバラで、不格
好な五人の姿が、今の彼には、なぜだか、とても、頼もしく、そして、かけがえのないもののように、思えた。