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第五話『丑の刻参りの願い事』

相田和人がオカルト研究会に入部してから、約一ヶ月が経過した。


彼の求めてやまなかった「平穏」という言葉は、もはや辞書の片隅に追いやられ、代わりに「混沌」と「喧騒」が、彼の日常の新たなキーワードとして定着しつつあった。


その元凶である部室は、メンバーの増殖に伴い、そのカオスぶりにも磨きがかかっていた。


「よし、今日の霊的筋力トレーニング、ノルマ達成!これで悪霊のプレッシャーにも耐えられるはずッス!押忍!」


武藤猛は、汗を光らせながら、分厚い『日本妖怪大百科』をバーベルのように上げ下げしている。


その隣では、一条蓮が、部室に飾られていた用途不明の水晶玉やアフリカの仮面、カラスの羽根などを机の上に並べ、「うーん、この非対称な配置が、僕の内なる宇宙のコズミック・バランスを表現していて、実に美しい…」などと、真顔で呟きながら、前衛的なインスタレーションアートを創作していた。


「蓮君、その配置、地政学的観点から見るとエネルギーの流れが滞留するから、風水的には最悪よ。あと猛君、霊的耐性と物理的筋力に直接的な因果関係は今のところ確認されていないわ」


部長の西園寺麗奈は、白衣のポケットに手を突っ込みながら、それぞれの活動に的確(?)なツッコミを入れる。


彼女の背後にあるホワイトボードは、今や、複雑怪奇な数式と、事件の相関図、そして各メンバーの長所・短所を分析したチャートで、隙間なく埋め尽くされていた。


まるで、秘密組織の作戦司令室のようだ。


その喧騒の片隅で、中野亜里沙は、ノートパソコンの画面に静かに没頭していた。


彼女の指がキーボードの上を滑るたびに、日本各地の忘れ去られた民間伝承や、マイナーな神社の縁起が、巨大なデータベースへと着々と蓄積されていく。


時折、麗奈の立てる壮大な仮説に対し、「部長、その説、鳥取県の山間部に伝わる『一つ目蜘蛛』の伝承と矛盾します」と、小さな声で、しかし致命的な事実を指摘する。


そして相田和人は。


彼は、この四者四様のエネルギーが渦巻く、奇妙な生態系の中心で、ソファに深く身を沈め、ただ静かに本を読んでいた。


まるで、猛烈な台風の目の中にいるかのように。


もはや、抵抗は無意味だと悟っていた。彼は、このカオスな部室と、一癖も二癖もある仲間たちを、遠い銀河の出来事を観測する天文学者のような、不思議な諦観をもって眺めていた。


ここは、彼の知る日常ではない。


しかし、紛れもなく、彼の新しい「居場所」になりつつあった。


その日、事件の知らせは、これまでとは違う形で舞い込んできた。


きっかけは、亜里沙の呟きだった。


「…変だな」


彼女は、地域のローカルな話題が集まるネット掲示板を閲覧していた。


「どうしたの、亜里沙ちゃん?」


麗奈が尋ねると、亜里沙は眼鏡の位置を直しながら、画面を指さした。


「学校の裏手にある、あの古い八幡神社の話題なんですけど…。一ヶ月くらい前から、『夜中に、何かを打ち付けるような音が聞こえる』とか、『境内に入ると、冬でもないのに、肌を刺すような寒気がする』っていう書き込みが、急に増えてて…」


「ほう、丑の刻参り、かね」


蓮が、創作活動の手を休め、興味深そうに口をはさんだ。


「丑の刻参り?」


猛が、きょとんとした顔で聞き返す。


「ああ。日本古来の呪詛の儀式さ。白装束を身に纏い、顔に白粉を塗り、頭には三本の蝋燭を立てた鉄輪を被る。そして、丑の刻…つまり、午前一時から三時の間に、神社の御神木に、憎い相手に見立てた藁人形を、五寸釘で打ち付けるんだ。七日間、誰にも見られずに続ければ、呪いは成就する、と言われている」


蓮は、うっとりとした表情で語る。


「憎しみのあまり、己が鬼となることも厭わない。人間の情念とは、なんて激しく、美しいんだろうね…」


「いや、全然美しくないから!」


麗奈が、すかさずツッコミを入れた。


「でも、本当だとしたら、これは看過できない事態よ。丑の刻参りが行われる場所は、強い怨念のエネルギーが渦巻く、極めて危険な霊的スポットになる。しかも、呪詛は、術者本人にも跳ね返る、危険な諸刃の剣。もし、術者がその怨念に耐えきれずに命を落としていたとしたら…」


麗奈の顔から、いつもの快活な笑みが消え、研究者としての厳しい表情に変わる。


「その場所は、今頃、怨念そのものが地縛霊となった、最悪の心霊スポットになっている可能性があるわ」


部室の空気が、一瞬にして緊張に包まれた。


和人は、本のページから目を上げ、窓の外に広がる、穏やかな昼下がりの景色を眺めた。


その平和な光景のすぐそばで、今もなお、深く、暗い憎しみが渦巻いている。


その事実に、彼は、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。


その日の昼休み、オカケン一行は、問題の八幡神社を訪れていた。


昼間の神社は、夜の噂が嘘のように、穏やかで、静謐な空気に満ちていた。


鬱蒼と茂る木々の葉が、夏の強い日差しを遮り、境内には涼しげな影を落としている。


蝉の声が、まるで降り注ぐシャワーのように、辺り一面に響き渡っていた。


「…特に、おかしな感じはしないな」


猛が、きょろきょろと辺りを見回しながら言う。


「昼間はね。こういう場所は、太陽の光が、霊的な活動を抑制するの。問題は、夜よ」


麗奈は、屈みこんで、地面の土を指でつまみ、その匂いを嗅いでいる。


まるで、事件現場を捜査する刑事のようだ。


「この神社、かなり古いみたいですね」


亜里沙が、苔むした石灯籠を指さした。


「社伝によれば、創建は室町時代まで遡るそうです。江戸時代には、この辺りの領主の祈願所として、かなり栄えていたみたいですけど…」


彼女の指が、スマートフォンの画面を滑る。


その小さな脳内には、膨大なデータベースが構築されているのだ。


「…あった。この神社の御神木、樹齢五百年を超える大楠だそうです。そして、古い言い伝えでは、縁結びの木として信仰される一方で、縁切りの呪いをかける場所としても、古くから知られていた、と…」


和人は、その御神木を見上げた。


天を突くようにそびえ立つ、巨大な楠。


その幹は、大人が数人がかりで手を回しても届かないほど太く、表面の樹皮は、まるで長い年月の記憶を刻み込んだ、老人の深い皺のようだった。


和人の目には、他のメンバーには見えないものが、見えていた。


幹の、ちょうど人間の胸の高さくらいの場所に、無数の、黒い染みのようなものが、べったりとこびりついている。


それは、物理的な汚れではない。


長い年月の間に、人々の憎しみや、嫉妬や、悲しみといった、負の感情が染み込んで、こびりついた、情念の痕跡だった。


そして、その中でもひときわ濃く、新しく、そして禍々しい気を放っている場所が、一箇所だけあった。


(…今夜、ここに来ることになるのか)


和人は、蝉の声を聞きながら、静かに覚悟を決めた。


その夜、午後十一時半。五人は、再び神社の前に集まっていた。


昼間の穏やかな雰囲気は、そこにはもうない。


月明かりに照らされた鳥居は、まるで、この世とあの世を隔てる門のように、不気味にそびえ立っている。


一歩、境内へ足を踏み入れると、ひやり、と空気が変わった。気温が下がったのではない。


もっと、精神的な、肌にまとわりつくような、重く、冷たい空気が、彼らを包み込んだ。


「…よし、作戦を確認するわ」


麗奈が、懐中電灯の明かりで、手元のメモを照らしながら、小さな声で言った。


「相手は、これまでの霊とは比較にならないくらい、強い負のエネルギーを持っている可能性がある。だから、チームで動くわ。まず、猛君と蓮君が前衛。あなたたちは、身体的にも、霊的にも感受性が高いから、霊の注意を引きつける『盾』になってもらう。でも、決して深追いはしないで」


「おう、任せとけ!」


「ふふ、僕の美しさが、鬼女の嫉妬をさらに掻き立てるかもしれないね」


猛と蓮が、それぞれのやり方で応える。


「亜里沙ちゃんは、私と一緒に後方支援。あなたは、その場で状況を分析し、データベースから有効な情報を引き出して。私は、万が一の時のために、ここに結界を張る」


「…はい」


亜里沙が、緊張した面持ちで頷く。


「そして、和人君」


麗奈は、和人の方を向いた。


「あなたは、私たちの『切り札』。私たちが時間を稼ぐから、あなたは相手の本質を、じっくりと見極めて。お願い」


「…ああ」


和人は、短く答えた。


五人の間に、緊張と、そして不思議な一体感が流れる。


彼らは、もう、ただの寄せ集めではない。


一つの目的のために集った、一つのチームだった。


彼らは、息を殺して、御神木へと続く参道を進んでいく。


そして、丑三つ時。午前二時を少し回った頃だった。


カン…


静寂を切り裂くように、甲高い音が響いた。


金属を、硬い木に打ち付けるような音。


五人の身体が、びくりと震える。


カン… カン…


音は、一定のリズムで、執拗に繰り返される。


まるで、誰かの心臓の鼓動に合わせるかのように。


彼らは、音のする方へ、ゆっくりと近づいていく。


そして、御神木の前にたどり着いた時、その光景に息をのんだ。


そこに、いた。


月明かりの下、白装束を身に纏った、半透明の女の霊が、一心不乱に、何かを木に打ち付けていた。


長い髪は乱れ、その顔は、深い憎悪と苦悶によって、見る影もなく歪んでいる。


その手には、金槌と、五寸釘。そして、幹に打ち付けられているのは、紛れもない、藁人形だった。


カン… カン… カン…


憎しみを込めて、怨念を込めて、彼女は、ただひたすらに、釘を打ち続けている。


その姿は、悲しいというよりも、あまりにも、おぞましかった。


彼女の周囲の空間だけが、黒く、淀んで見える。


「…行くぞ、蓮!」


「ああ!」


猛と蓮が、作戦通り、前に出た。


しかし、彼らが数歩、踏み出した瞬間。


女の霊が、ぴたり、と動きを止めた。


そして、ぎぎぎ、と、錆びついたブリキ人形のように、首をこちらへ向けた。


その瞳は、暗く、何も映してはいなかった。


ただ、底なしの憎悪だけが、どろりとしたマグマのように、燃えている。


「「ッ…!!」」


猛と蓮が、同時に足を止めた。


物理的な力ではない。


純粋な、凝縮された悪意が、見えない壁となって、二人を阻む。


空気が、まるで鉛のように重くのしかかり、呼吸さえままならない。


「くそっ…!身体が、動かねえ…!」


猛が、悔しそうに呻く。


「これは…参ったな。僕のチャームも、嫉妬の前では無力らしい…」


蓮の顔から、いつもの余裕が消えていた。


「ダメだわ、怨念が強すぎる…!」


後方で、麗奈が叫んだ。


彼女が足元に撒いていた清めの塩の線が、じゅう、と音を立てて黒く変色していく。


彼女の張った、簡易的な結界が、悲鳴を上げているのだ。


女の霊は、もう、和人たちに興味を示さなかった。


再び御神木の方へ向き直ると、カン…カン…と、呪いの儀式を再開する。


このままでは、埒が明かない。


和人は、覚悟を決めた。


彼は、重圧に耐えながら、一歩、前に出た。


「…和人君!?」


麗奈の制止の声が聞こえる。


だが、彼は止まらない。


憎悪の嵐が吹き荒れる、その中心へと、彼は、静かに歩みを進めていく。


一歩進むごとに、全身に、突き刺すような悪意が突き刺さる。


頭の中に、自分のものではない、どす黒い感情が流れ込んでくる。


「許さない」「死ね」「不幸になれ」。そんな、呪いの言葉の洪水。


それでも、和人は歩みを止めなかった。


女の霊の、すぐ背後まで来たところで、彼は立ち止まった。


彼は、何も言わなかった。


ただ、静かに、彼女の背中を見つめていた。


カン…カン…カン…


憎しみの音だけが、響き渡る。


やがて、和人は、静かに口を開いた。


「…そんなに、憎いのか」


その声に、女の動きが、一瞬だけ、止まった。


「毎晩、毎晩、ここで釘を打ち続けて。自分の魂を削って、相手を呪い続けて。それほどまでに、憎いんだな」


和人は、彼女の憎悪を、否定しなかった。


ただ、事実として、受け止めた。


女は、答えない。


しかし、彼女の背中が、わずかに震えているように見えた。


「でも、見てみなよ」


和人は、静かに続けた。


「君が、これだけ憎んでも、君の呪いたい相手は、今頃、暖かい布団の中で、幸せな夢を見ているかもしれない。君が、ここで、たった一人で、凍えながら、苦しんでいるとも知らずに」


「君が打ち付けているのは、藁人形じゃない。君自身の心だ。君が蒔き続けている憎しみの種は、相手の心じゃなく、君自身の心の中でだけ、毒の芽を育てている。この呪いは、君自身を、この場所に、永遠に縛り付けるための、鎖でしかないんだよ」


カン、と、金槌が、力なく地面に落ちる音がした。


女の霊が、ゆっくりと、こちらを振り向いた。


その顔は、先程までのおぞましい形相ではなく、ただ、深い悲しみにくれる、一人の女性の顔だった。


その瞳からは、どす黒い憎悪ではなく、透明な涙が、とめどなく溢れ落ちていた。


「…憎みたかったわけじゃ、なかった…」


絞り出すような声が、夜の静寂に溶けていく。


「ただ…ただ、愛してほしかっただけだった…。私だけを、見てほしかっただけだったのに…」


彼女の足元から、怨念の黒い靄が、すうっと消えていく。


後に残されたのは、ただ、恋に破れ、心を砕かれた、か弱く、哀れな、一人の人間の魂だけだった。


和人は、何も言わなかった。


ただ、その魂が、己の悲しみをすべて吐き出すまで、静かに、そこに佇んでいた。


やがて、女の霊は、涙で濡れた顔を上げて、和人を見つめた。


そして、深く、深く、頭を下げた。


それは、感謝のようでもあり、謝罪のようでもあった。


そして、その姿は、夜明け前の、最も深い闇の中へと、静かに、吸い込まれるように消えていった。


後に残されたのは、幹に突き刺さったままの、数本の古い釘と、そして、夜明けの冷たい空気だけだった。


五人は、誰一人、言葉を発することができなかった。


ただ、東の空が、少しずつ、白んでいくのを、呆然と眺めていた。


彼らは、それぞれの無力さを痛感した。


しかし、同時に、五人だからこそ、ここまで来ることができたという、確かな手応えも感じていた。


猛と蓮が盾となり、麗奈と亜里沙が道筋を示し、そして、和人が最後の扉を開ける。


歪で、不格好で、しかし、確かに機能する、一つのチーム。


和人は、白み始めた空を見上げ、静かに息を吐いた。


彼の求める平穏は、今日も、訪れなかった。


だが、この、どうしようもなく騒がしくて、頼りになる仲間たちと迎える、この夜明けを、彼は、悪くない、と思ってしまっている自分に、気づいていた。



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