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第四話『鏡の中にいる親友』

 オカルト研究会の部室は、もはや相田和人が愛した「静寂」の対義語でしかなかった。



 部屋の主である西園寺麗奈は、巨大なホワイトボードに、これまでの事件の相関図を複雑な数式と共に描き出し、「情念エネルギーと物理空間の相互干渉における、相田くんの触媒的役割についての仮説…」などと、熱っぽく一人で講義を繰り広げている。


 新入部員の武藤猛は、「精神集中!押忍!」と叫びながら、部室の隅で分厚い民俗学の辞典をダンベル代わりに上げ下げし、霊的耐性を高めるという独自のトレーニングに励んでいた。


 もう一人の新入部員、中野亜里沙は、猛の立てる騒音にも動じず、ノートパソコンの画面に集中している。


 彼女は、日本全国の神社の縁起や、地方のマイナーな民間伝承をデータベース化するという、地道だが膨大な作業を、驚異的な集中力で黙々とこなしていた。 


 熱意、筋肉、探究心。


 三者三様のエネルギーが、狭い部室の中で渦を巻き、さながらカオスの嵐だ。


 その嵐の中心で、和人はソファに座り、文庫本を開いていた。


『ストア派哲学入門――不動心に至る道』。


 今の彼にとって、最も切実なテーマだった。


 しかし、ページをめくる指は何度も止まり、彼の視線は宙を彷徨う。


 不動心への道は、あまりにも遠く、険しい。


 部員が一人増えるごとに、彼の心の平穏は、比例して遠ざかっていくようだった。


 彼は、この騒がしくも奇妙に居心地のいい空間に、諦めにも似た感情を抱き始めていた。


 その時、部室の引き戸が、コンコン、と品の良いノック音を響かせた。


 これまでの訪問者とは明らかに違う、丁寧で、自信に満ちた音。


「はーい、どうぞー!」


 麗奈が、ペンを置いて明るく返事をする。


 猛はトレーニングを中断し、亜里沙はパソコンから顔を上げた。


 和人も、本のページから視線を外す。


 ゆっくりと開かれた扉の向こうに立っていた人物を見て、麗奈と猛が、わずかに息をのんだ。


 そこにいたのは、一条蓮いちじょうれんだった。


 さらりとした、蜂蜜色の髪。


 少女漫画から抜け出してきたかのような、甘いマスク。


 長い手足は、着古された制服さえも、高級ブランドのそれであるかのように見せている。


 常にクラスの中心にいて、その優雅な物腰と、時折見せる天然な言動で、男女問わず絶大な人気を誇る、学園の王子様。


 彼が、なぜ、学校の最果てにある、この怪しげな部室に?


「やあ、ここが噂に聞く、オカルト研究会かい? 少し、相談に乗ってもらいたいことがあるんだけれど」


 蓮は、部室の混沌とした様子にも全く動じることなく、優雅な微笑みを浮かべて言った。


 その笑顔は、まるで後光が差しているかのように眩しい。


「一条君!? どうしたの、こんなところまで!」


 麗奈が、少し上擦った声で尋ねる。


 彼女ですら、この学園のスターの突然の来訪には、驚きを隠せないようだった。


 蓮は、その完璧な笑顔をほんの少しだけ曇らせ、ふう、と憂いを帯びたため息をついた。


 その仕草さえ、一枚の絵画のように美しい。


「信じてもらえないかもしれないけれど、困っているんだ。もう一人の、僕に」


「もう一人の…君?」


「そう。僕そっくりの、もう一人の僕が、最近、学校のあちこちに出没して、とんでもないことをしでかしているんだよ」


 蓮は、心底うんざりした、という顔で語り始めた。


 例えば、昨日の現代文の授業中。


 先生に指名された彼は、立ち上がって、教科書とは全く関係のない、自作のポエムを朗々と読み上げたらしい。


「おお、窓辺に射す西日は、君の頬を染めるケチャップのようだ…」などという、謎の詩を。


 当然、教室は静まり返り、先生は絶句した。


 しかし、その記憶は、蓮自身には全くない。


 彼は友人に指摘されるまで、自分がそんな奇行に及んだことすら知らなかったのだ。


 また、ある時は、生徒会の会議を無断で欠席し、中庭のベンチで、口を開けて熟睡しているところを発見された。


 学園で最も人気のある女生徒から告白された際には、「すまない、僕の心は今、マリモを育てることで精一杯なんだ」と言って、丁重に断ったという。


「僕が、必死で築き上げてきた『完璧な一条蓮』のイメージが、そいつのせいで、音を立てて崩れていくんだ…! お願いだ、僕の偽物を、どうにかして捕まえてくれないか?」


 王子様の、切実なSOSだった。


 その瞳には、疲労と、得体の知れない自分自身への恐怖が、深く宿っていた。


 これは、これまでとは質の違う、厄介な事件だった。


 地縛霊のように特定の場所にいるわけではない。


 蓮本人に紐づいているため、神出鬼没なのだ。


 オカ研のメンバーは、ひとまず「一条蓮・監視作戦」を決行することにした。


 猛は、部活のネットワークを駆使し、各運動部に「一条蓮の目撃情報」を収集するよう依頼した。


 亜里沙は、図書館とデジタルアーカイブで、「ドッペルゲンガー」や「生き霊」に関する古今東西の伝承を徹底的に洗い始めた。


 麗奈は、蓮から採取した毛髪(本人は少し引いていた)を触媒に、霊的な追跡を試みた。


 そして和人は、ただ、蓮のそばにいることにした。


「相田君、だっけ。君は、何も調べなくていいのかい?」


 昼休み、屋上で弁当を広げながら、蓮が不思議そうに尋ねてきた。


 和人は、ただ彼の隣に座り、静かに空を眺めているだけだったからだ。


「俺は、そういうの、専門外だから」


「そうかい? でも、君を見ていると、なんだか不思議と、心が落ち着くな。まるで、凪いだ湖のほとりにいるみたいだ」


 蓮は、そう言って、ふわりと微笑んだ。


 その時だった。


「おーい、蓮! 探したぞ! 午後の体育、サッカーだってよ!」


 猛が、屋上の扉を開けて顔を出した。


「ああ、わかった。すぐ行くよ」


 蓮が立ち上がって、猛の方へ歩き出す。


 和人は、その蓮の背後に、一瞬、空間が陽炎のように揺らぐのを見た。


 次の瞬間、猛の隣を通り過ぎたはずの蓮が、なぜか、まだ和人の隣に座っていた。


 彼は、のんびりとした様子で、空に浮かぶ雲を眺めている。


「…え?」


 和人が、猛の方へ視線を戻す。


 猛は、和人の隣にいる「蓮」には気づかず、階段を下りていく「蓮」の背中に、陽気に声をかけていた。


 二人の蓮。


 猛と一緒にいる、きびきびと歩く、完璧な蓮。


 和人の隣にいる、どこか気の抜けた、のんびりとした蓮。


 和人の隣にいた蓮は、彼にだけ聞こえるような声で、ふふっ、と笑った。


「あーあ、体育、面倒だな。このまま、ここで昼寝でもしていたいよ」


 そう言うと、彼の姿は、すうっと、陽炎のように掻き消えた。


(…なるほどな)


 和人は、この怪異の正体を、おぼろげに掴んだ気がした。


 これは、外から来た「何か」ではない。


 内側から生まれた、「彼自身」なのだ。


 その日の放課後、ついに決定的な事件が起こる。


 蓮の偽物が、ダンス部の練習スタジオに現れ、練習中の女子生徒たちを前に、突然、奇妙なコンテンポラリーダンスを踊り始めたというのだ。


 その前衛的すぎる動きに、部員たちはドン引きし、練習は中断。


 すぐに本物の蓮が駆けつけ、平謝りする事態となった。


「もう限界だ…! あいつさえいなければ!」


 蓮は、頭を抱えて、誰もいなくなったダンススタジオで呻いた。


 スタジオは、壁の一面が巨大な鏡張りになっている。


 そこに、疲れ果てた表情の蓮が、何人も、何人も、映り込んでいた。


「西園寺さん、何か方法は…」


「ええ、一つ、試してみたいことがあるわ」


 麗奈は、真剣な顔で頷いた。


 彼女の結論は、「鏡を媒介として現れる、独立した思念体」というものだった。


「この鏡が、彼とこちらの世界を繋ぐゲートになっているのなら、その繋がりを断ち切ればいい。一条君、少し離れていて」


 麗奈は、カバンから数枚の、梵字が書かれたお札を取り出すと、鏡の中央に素早く貼り付けた。


「悪しき影よ、その繋がりを断ち、本来あるべき虚無へと還りなさい! 破!」


 麗奈が、印を結んで叫ぶ。


 その瞬間、鏡が、ぐにゃり、と歪んだ。


 鏡の中に映る蓮の姿が、ニヤリ、と意地悪く笑う。


 そして、その姿が、次々と、隣の鏡、そのまた隣の鏡へと、伝染していく。


 あっという間に、壁一面の鏡、すべてに、怠惰で、不敵な笑みを浮かべた「もう一人の蓮」が、ずらりと映し出された。


「なっ…!?」


「うわあああ! 俺がいっぱいいる!」


 本物の蓮が、短い悲鳴を上げる。


 それは、完璧な王子様にはあるまじき、素っ頓狂な声だった。


 麗奈の儀式は、繋がりを断ち切るどころか、逆に、彼の隠された側面を増殖させ、可視化させてしまったのだ。


 蓮は、自分が最も見たくなかった「不完全な自分」の群れに、完全に包囲されていた。


「…相田先輩! どうすりゃいいんスか!?」


 猛が、焦ったように叫ぶ。


「…和人君…」


 麗奈も、自分の失敗に、青ざめた顔で和人を見つめた。


 和人は、ため息を一つついて、ゆっくりと、鏡の前に立つ蓮の隣へと歩み寄った。


 彼は、鏡に映る無数の偽物には目もくれず、ただ、震えている本物の蓮の肩に、そっと手を置いた。


「なあ、一条」


 和人の声は、不思議なほど穏やかだった。


「そいつは、本当に、お前の敵なのかな」


「敵に決まってるだろ! 僕の邪魔ばかりする…!」


「そうか? 俺には、お前がやりたくてもできないことを、代わりにやってくれてるように見えるけどな」


 和人は、静かに語りかける。


「授業中に、突拍子もないことを言ってみたり。会議をサボって、昼寝したり。女の子に、変な理由で断ったり。それって、全部、お前が心のどこかで、『本当は、そうしてみたい』って思ってたことなんじゃないのか?」


「そ、そんなことは…!」


 蓮の言葉が、詰まる。


 図星だったのだ。


「みんなが、お前に『完璧な一条蓮』を期待する。そして、お前も、必死でその期待に応えようとしてきた。でもさ、本当は、面倒くさがりで、時々変なことを言いたくて、ただ、ぼーっと何もしたくない自分も、いるんじゃないのか?」


 和人の言葉が、蓮の心の、固く閉ざされた扉を、優しくノックする。


「そいつは、お前がずっと、ダメな自分だって、心の奥底に押し込めて、蓋をしてきた、もう一人の、本当のお前なんだよ。苦しくて、息ができなくて、鏡の中から、必死で『ここにいるよ』って、合図を送ってたんだ」


 蓮は、はっとした顔で、目の前の鏡を見つめた。


 そこに映る、不敵な笑みを浮かべた自分。


 それは、敵の顔ではなかった。


 長い間、無視され続け、拗ねて、少しだけひねくれてしまった、親友の顔に見えた。


「そっか…」


 蓮の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「お前も、俺だったんだな…。今まで、一人にして、きつい思いさせて、ごめんな…」


 彼が、初めて、鏡の中の自分に、謝罪の言葉を口にした、その時。


 鏡に映る無数の蓮が、一斉に、ふわりと、満足げに微笑んだ。


 それは、意地悪な笑みではない。


 ようやく、自分を認めてもらえた、子供のような、嬉しそうな笑顔だった。


 そして、中央の鏡に映っていた一人の「彼」が、すっと、鏡の奥へと歩いていく。


 すると、鏡の表面が、水面のように揺らぎ、そこから、もう一人の蓮が、静かに歩み出てきた。


 そして、二人の蓮は、光の粒子を散らしながら、吸い込まれるように、一つに重なった。


 気がつくと、鏡は、ただ、疲れ果てて、でも、どこか晴れやかな顔をした、一人の一条蓮を映しているだけだった。


 あれほど満ちていた、歪んだプレッシャーは、完全に消え去っていた。


「…君たちは、一体、何なんだい?」


 蓮は、呆然と、オカルト研究会のメンバーを見つめた。


「私たちは、オカルト研究会だよ!」


 麗奈が、胸を張って答える。


 蓮は、ふっ、と息を吐くように笑った。


 その笑顔は、これまでの完璧なアイドルのような笑顔とは違う、少し肩の力が抜けた、自然なものだった。


「そっか…。僕の、こんな格好悪いところ、全部見られちゃったな」


 彼は、少し照れたように言った。


「でも、不思議と、嫌な気はしない。むしろ…楽になった。君たちだけなんだ。もう一人の僕を見て、気味悪がったり、避けたりしなかったのは」


 彼は、和人、麗奈、猛、亜里沙、一人一人の顔を、ゆっくりと見つめた。


「この部活…なんだか、居心地が良さそうだな。僕も、仲間に入れてくれないかい? ここなら、『完璧な一条蓮』じゃなくても、いられそうな気がするんだ」


 こうして、学園の王子様であり、この上なく面倒な体質の持ち主が、オカルト研究会の五人目の部員となった。


 和人は、夕暮れの光が差し込むダンススタジオの床に、大の字になって寝転がりたかった。


 部員、四人目。


 しかも、超絶美形で、超絶変人。


 彼の求める『不動心』への道は、もはや、完全に、視界の彼方へと消え去ってしまったようだった。


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