第三話『開かずの部室の住人』
オカルト研究会の部室は、混沌に新たな秩序(あるいは、さらなる混沌)がもたらされていた。
その中心にいるのは、新入部員の武藤猛である。
「なるほどな、部長! つまり、悪霊っていうのは、相手チームの強力なクローザーみたいなもんで、そいつの『気』…プレッシャーに負けたら、こっちの打線も沈黙するってわけか! わかりやすいぜ!」
「うーん、まあ、エネルギー体としての干渉力っていう点では、あながち間違いじゃないかもしれないけど…」
麗奈は、猛のあまりにも体育会系な解釈に、若干戸惑いながらも、どこか楽しそうに解説を続けている。
彼女の机の上には、猛のために作られたのであろう『初心者でもわかる!怪異現象の基礎物理学』と題された手作り感満載のテキストが置かれていた。
その熱心な講義をBGMに、和人はソファの定位置で、静かにページをめくっていた。
彼の周囲だけ、時間の流れが違うかのように穏やかだ。
昨日、猛が入部したことで、彼の求める平穏は原子レベルで粉砕された。
もはや、この騒がしさを受け入れるしかない。
彼はそう結論付け、心を無にして読書に没頭する、という新たなスキルを習得しつつあった。
猛の存在は、部室の空気感を一変させた。
これまで、麗奈の知的な探究心と、和人の静かな傍観によって保たれていた均衡は崩れ、そこに「筋肉」と「根性」という、あまりにもオカルトからかけ離れた要素が加わったのだ。
「でよ、相田先輩! 先輩のあの技はなんなんですか? カウンセリングみてえだけど、気合というか、オーラみてえなもんも感じるんスよね。あれか? 秘孔を突くみてえな? 言葉で相手の心の秘孔を突く、みたいな!」
「…ただ、話してるだけだよ」
「またまたー! 謙遜しちゃって! 今度、俺にも教えてくださいよ! 精神統一の秘訣とか!」
猛の太陽のような明るさは、影を嫌う。
和人が作り出した、心地よい日陰にまで、容赦なくその光を差し込ませてくる。
和人は、深いため息を本の中に落とし込んだ。
その時だった。
部室の引き戸が、ことり、と控えめな音を立てた。
開けるのをためらうかのような、小さな音。
「…どうぞ」
麗奈が声をかけると、扉がそろりと、五センチほど開いた。
隙間から、不安げな瞳がこちらを窺っている。
「あ、あの…オカルト研究会、こちらで合ってますか…?」
か細い、鈴の音のような声。やがて、意を決したように、一人の女生徒が姿を現した。
小柄な身体。
少し癖のある髪を、両サイドで結んでいる。
大きな黒縁の眼鏡の奥で、長い睫毛が不安げに揺れていた。
その手には、使い込まれたクロッキー帳が、まるで盾のように、胸の前で固く抱きしめられている。
中野亜里沙。
和人と同じクラスだが、ほとんど話したことはない。
いつも教室の隅で、一人静かに絵を描いているか、本を読んでいる物静かな生徒だ。
彼女が、このカオスな部室に何の用だろうか。
「はい、ここがオカルト研究会だよ! どうぞ入って! 私が部長の西園寺麗奈!」
麗奈は、人懐っこい笑顔で彼女を迎え入れる。
猛も、「お、おう! 俺は野球部の武藤だ! よろしくな!」と元気よく挨拶する。
その勢いに、亜里沙はびくりと肩を震わせ、さらに小さくなったように見えた。
「あ、あの…ご相談したいことがあって…。変な噂だって、わかってるんですけど…」
亜里沙は、俯きながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
彼女は、イラストや漫画を描くのが好きで、同好の士を集めて、新しく『創作イラスト研究会』を立ち上げようとしていた。
顧問の先生も見つかり、同好会として活動の許可も下りた。
そして、活動場所として割り当てられたのが、旧校舎の別館にある、今は使われていない化学準備室だった。
日当たりも良く、広いその部屋は、創作活動にはうってつけの場所のはずだった。
ただ、一つだけ、問題があった。
「扉が、開かないんです…」
鍵はかかっていない。
それどころか、鍵穴そのものが潰れていて、鍵はもう何十年も使われた形跡がないのだという。
なのに、何人かの先生や、屈強な運動部員が束になって押しても、引いても、びくともしない。
まるで、内側からコンクリートで固められているかのように。
いつしか、その部屋は『開かずの部室』と呼ばれるようになり、教師たちも関わるのを諦めてしまったのだという。
「でも、どうしても、あの部屋がいいんです。窓から見える桜の木が、すごく綺麗で…。私の描きたい物語の、舞台にぴったりで…」
亜里沙の言葉は、消え入りそうだったが、その瞳には、確かな意志の光が宿っていた。
旧校舎の別館は、本校舎とは渡り廊下で繋がっていたが、まるで時代の流れから取り残されたかのように、ひっそりと佇んでいた。
床を軋ませながら進むと、ひんやりとした、湿った空気が肌を撫でる。
メインの校舎が放つ、生徒たちの熱気や活気といったものが、ここには一切存在しない。
ただ、深い静寂と、壁に染み付いた古い時間の匂いだけが、空間を支配していた。
「ここです…」
亜里沙が、ある扉の前で立ち止まり、指をさした。
何の変哲もない、木製の扉。
ペンキは所々剥がれ、くすんだ緑色が、時の流れを物語っている。『化学準備室』と書かれたプレートも、錆びついていた。
「ふむ…確かに、見た目は普通の扉ね」
麗奈は、白衣のポケットから取り出したルーペで、扉の隙間や鍵穴を念入りに観察し始めた。
「よし、まずは物理的アプローチだ! 俺に任せろ!」
猛が、自信満々に腕をまくった。
彼は数歩助走をつけると、アメフト選手のような低い姿勢で、扉に全体重を乗せたショルータックルを敢行した。
ドンッ!!!
鈍く、重い衝撃音が、静かな廊下に響き渡る。
しかし、扉は、ミリ単位も動かなかった。
揺れもしなければ、軋みもしない。
まるで、一枚岩の壁にぶつかったかのように、衝撃を完全に吸収してしまっている。
「なっ…!?」
猛は、信じられないという顔で、じりじりと後ずさった。
彼の自慢のパワーが、全く通用しなかったのだ。
「物理的干渉は効果なしか…。やっぱり、特殊なフィールドで保護されてるみたいね」
麗奈は、今度はカバンから水晶でできたペンデュラム(振り子)を取り出し、扉の前でそっと垂らした。
水晶は、最初小さく揺れていたが、やがて、まるで強力な磁石に引かれたかのように、扉の一点に向かって、激しく、狂ったように回転し始めた。
「間違いない。これは、強い意志の力による、空間の固着化現象よ。誰かが、『絶対にここを開けさせない』って、強く、強く、願い続けてる…」
和人は、そんな二人を少し離れた場所から見ていた。
彼は、扉に触れようとはしない。
ただ、じっと、その空間に意識を集中させる。
彼が感じ取っていたのは、麗奈の言うような強い意志や、猛が跳ね返されたような硬い力ではなかった。
それは、もっと、ずっと悲しいものだった。
ひたすらに、孤独なものだった。
まるで、自分だけの宝物を、誰にも見つからないように、小さな箱に入れて、固く固く抱きしめているような。
そんな、切実で、頑なで、そして、どうしようもないほどの、深い寂しさ。
(これは、戦っても勝てないな…)
和人は、直感的にそう感じた。
この扉を開けるには、もっと別の鍵が必要だ。
「…ダメだ。情報が少なすぎる。相手が誰で、何を望んでいるのかがわからないと、対策の立てようがないわ」
麗奈が、悔しそうにペンデュラムを仕舞った。
「一旦、部室に戻って、過去の資料を洗い出しましょう。この部屋が、いつから『開かずの部室』になったのか、何か記録が残っているはずよ」
部室に戻った四人は、手分けして調査を開始した。
麗奈は、学校の書庫から借りてきた、分厚い卒業アルバムや、過去数十年分の職員会議の議事録をめくり始めた。
猛は、麗奈に言われるがまま、力仕事の必要な古い資料の束を運んでいる。
和人は、ソファに座って、その様子を静かに眺めていた。
自分にできることは、今は何もない。
その時、亜里沙が、おずおずと口を開いた。
「あ、あの…図書館の、デジタルアーカイブにアクセスしてもいいですか…?」
「デジタルアーカイブ?」
「はい。古い学校新聞とか、文化祭のパンフレットとかが、データ化されてて…」
「もちろんよ! いいわね、その視点! お願い、中野さん!」
麗奈が快く許可すると、亜里沙は部室の隅にある古いパソコンに向かい、慣れた手つきでキーボードを叩き始めた。
彼女の指は、まるで絵筆を走らせるように、滑らかに、そして正確に動く。
カタカタカタ、という軽快なタイピング音だけが、部屋に響く。
十分ほど経っただろうか。
「…あった」
亜里沙が、小さな声で呟いた。
全員の視線が、彼女の元へ集まる。
彼女は、画面に表示された、古い白黒の記事を指さしていた。
それは、今からちょうど三十年前の、学校新聞の記事だった。
【隅のヒーローたち!『漫画研究同好会』の挑戦】
記事には、文化祭で手作りの同人誌を配布している、小さな同好会の様子が写っていた。
その中心にいるのは、はにかみながらも、嬉しそうに笑う、一人の女生徒。
大きな眼鏡と、少し自信なさげな佇まいは、どこか今の亜里沙に似ていた。
記事には、こう書かれていた。
『部長の鈴木幸子さんは語る。「私たちは、絵を描くのが好きだけど、少し内気なメンバーばかり。でも、この部室だけが、私たちが本当の自分でいられる、大切な『城』なんです。この仲間と、この場所が、私の全てです」』
そして、記事の最後は、こう締めくくられていた。
『彼らの活動場所は、旧校舎別館の化学準備室。彼らの熱意が、古い部屋を、かけがえのない宝箱に変えていた』
「…鈴木幸子…この人だわ」
麗奈が呟く。
彼女は、別の資料と照らし合わせ、その名前の生徒が、卒業を待たずに病気で亡くなっていることを突き止めた。
三十年前。
この部屋で、初めて仲間を見つけ、自分の「城」を手に入れた少女。
しかし、その幸せは、病によって突然奪われた。
彼女の想いが、今も、この部屋を「城」として守り続けているのだ。
再び、四人は『開かずの部室』の前に立っていた。
今度は、もう誰も、扉を力ずくで開けようとはしない。
和人は、ゆっくりと扉に近づくと、その冷たい木肌に、そっと手のひらを当てた。
そして、語りかけるように、静かに言った。
「――鈴木先輩、聞こえますか」
廊下に、彼の声が穏やかに響く。
扉の向こうから、冷たい空気が、まるで拒絶するかのように、じわりと滲み出てきた。
「私たちは、この部屋を奪いに来たわけじゃないんです。ただ、あなたのお話が聞きたくて」
和人は続けた。
「この記事、読みました。この場所が、あなたにとって、どれだけ大切だったか、少しだけ、わかった気がします。あなたの『城』だったんですね」
その言葉に、扉の向こうの冷気が、さらに強まる。
ビリビリとした、明確な敵意。
「ここは、私の場所。誰にも渡さない…」
直接的ではないが、そんな強い意志が、空間を満たして伝わってくる。
「先輩、一つだけ、聞いてもいいですか」
和人は、少し間を置いてから、問いかけた。
「あなたが本当に守りたいものは、この、木の扉や、コンクリートの壁なんですか?」
「……」
「あなたが宝物だと思ったのは、この部屋そのものじゃない。ここで、大切な仲間たちと笑いあった時間。夢中になって原稿を描いた時の、胸の高鳴り。完成した本を、みんなで喜び合った時の、あの気持ち。あなたが本当に守りたくて、失うのが怖かったのは、そういう、目に見えないものなんじゃないですか?」
扉の向こうの、頑なだった空気が、ほんの少しだけ、揺らいだ。
和人は、確信していた。
彼女の執着の核は、物理的な「場所」ではない。
彼女が初めて手に入れた「繋がり」と「自己肯定感」の記憶そのものなのだ、と。
「でもね、先輩。その宝物は、もう、この部屋の中にはないんですよ」
和人は、諭すように、優しく語りかける。
「その思い出は、全部、あなたが持っていった。あなたの心の中に、ちゃんと仕舞われている。仲間と笑った記憶も、絵を描いた時の喜びも、全部、あなた自身の一部になったんだ。だから、もう、この空っぽの箱に、しがみついている必要はないんですよ」
「あなたが本当に守りたかった宝物は、もう、あなたの内側で、ちゃんと輝いているんだから」
長い、長い、沈黙が落ちた。
扉の向こうから伝わってきていた、氷のような冷気と、頑なな意志が、春の陽光に溶ける雪のように、すうっと、穏やかに消えていく。
代わりに、温かく、そして少しだけ切ない、感謝の気持ちのようなものが、ふわりと廊下を満たした。
カチャリ。
まるで、何十年も張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたかのような。
そんな、ごくごく小さな音が、扉の奥から聞こえた。
麗奈が、息をのみ、おそるおそる扉に手をかける。
さっきまで、猛の全力のタックルさえ跳ね返していた扉が、今は、何の抵抗もなく、キィ…という優しい軋み音を立てて、ゆっくりと開いていった。
開かれた部屋の中は、三十年という時間を封じ込めたかのように、埃っぽく、薄暗かった。
机や椅子が、当時のままの配置で並んでいる。
その部屋の中央に、一瞬だけ、半透明の女生徒の姿が見えた気がした。
彼女は、もう悲しんではいなかった。
大きな眼鏡の奥の瞳を潤ませ、満たされたような、穏やかな笑みを浮かべていた。
彼女は、和人たち、というよりも、その後ろにいた亜里沙に、未来の自分を重ねるように、優しい視線を送った。
そして、深く、深く、お辞儀をすると、淡い光の粒子となって、静かに空気の中へ溶けていった。
四人は、しばらく、その部屋の入り口に立ち尽くしていた。
「…すごい。物理的に固着化された空間を、純粋な対話だけで解放するなんて…。相田君、あなたの能力は、本当に規格外だわ…」
麗奈は、興奮気味に、しかし声を潜めて、ノートに何やら書き込んでいる。
「先輩、すげえっス…」
猛は、ただただ、感嘆の声を漏らした。
亜里沙は、言葉もなかった。
彼女は、和人の横顔を、尊敬と、畏敬と、そして感謝に満ちた瞳で見つめていた。
「中野さん、あなたの調査能力、本当に素晴らしいわ。私じゃ、卒業アルバムから個人を特定するくらいしか思いつかなかった。あなたが見つけてくれた、あの小さな記事が、今回の解決の最大の鍵よ」
麗奈が、亜里沙に向き直って言った。
「私たちの部には、その、物事の裏側を見通すような、鋭い分析力が必要なの。どうかしら? もしよかったら、この部屋と一緒に、私たちオカルト研究会にも、籍を置いてみない?」
亜里沙は、驚いて目を見開いた。
自分が、誰かに必要とされる。
自分の好きなこと、得意なことが、誰かの役に立つ。
それは、ずっと教室の隅で、一人で絵を描いてきた彼女にとって、初めての経験だった。
彼女は、開かれたばかりの、自分の新しい「城」になるであろう部屋を見つめ、それから、目の前にいる、三人の、全く個性の違う仲間たちを見つめた。
そして、はにかみながらも、はっきりと、こくりと頷いた。
和人は、その様子を眺めながら、また、静かにため息をついた。
部員、三人目。
部室は、確実に、彼の心の平穏が許容するキャパシティを超えつつあった。
彼は、鞄の中にしまったままの哲学書に、心の中でそっと語りかけた。
どうやら、『孤独の効用』の章を読むのは、まだ当分、先のことになりそうだ、と。