第二話『投げられなかった最後の一球』
翌日の放課後、相田和人は、義務感という名の重い鎖を引きずるようにして、その扉の前に立っていた。
旧校舎三階、西日の当たる一番奥の突き当り。埃っぽい廊下の行き止まりに、その部室はあった。
プレートには、達筆だがどこか間の抜けた文字で『オカルト研究会』と書かれている。
昨日、半ば強制的に、いや、ほぼ百パーセント強制的に入部させられた、彼の新しい所属場所だ。
深呼吸を一つ。
吸い込んだ空気は、古い建材とワックスの匂いがした。意を決して、がらがらと音を立てる引き戸を開ける。
途端に、混沌とした情報の奔流が彼を出迎えた。
古い紙とインク、微かなカビ、そして、誰かが持ち込んだのであろう、外国の線香のような甘くスパイシーな香りが混じり合った、独特の匂い。
部屋は、昨日感じた以上に、圧倒的なモノで満たされていた。
壁一面には、天井まで届きそうなスチール製の本棚が軍艦のように鎮座し、古今東西の歴史書や民俗学の専門書がその背を窮屈そうに並べている。
その隣には、なぜか天文学の分厚い図鑑や、難解な量子力学の入門書までが見えた。
『月刊ムー』が年代順にファイリングされた棚もある。
机の上には、用途不明の水晶のクラスターが鈍い光を放ち、黄ばんだ羊皮紙の古地図のレプリカが広げられ、カラスの濡れ羽色の羽根が一本、ペン立てに無造作に突き刺さっている。
部屋の隅で、虚ろな目をしたアフリカの木彫りの仮面が、こちらを静かに見つめていた。
秩序と平穏を愛する和人にとって、この空間は視覚的なノイズの洪水であり、彼の精神をじわじわと摩耗させる、呪いの部屋そのものだった。
「あ、和人君、こんにちは! 来てくれたんだね、嬉しいな!」
その混沌の中心で、唯一、輝くような生命力を放っている存在が、西園寺麗奈だった。
彼女は、昨日と同じように白衣を羽織り、大きな机に向かって何やら熱心に作業をしていた。
和人の姿を認めると、ぱっと顔を輝かせ、満面の笑みで椅子から立ち上がる。
その笑顔は、この雑然とした部屋の空気を一瞬で浄化するような、不思議な力を持っていた。
「ちょうど良かった! 昨日の件、レポートにまとめてみたんだ。ちょっと見てみてよ!」
麗奈は、手招きをして和人を机へと誘う。彼女が差し出したノートには、びっしりと文字や数式、そして精緻な図が描き込まれていた。
【ケースファイルNo.001: コードネーム『月夜の独奏会』】
【被験霊体(以下、S霊体)の情念的特徴の分析:承認欲求と芸術的昇華欲求の乖離】
【西園寺式アプローチ(高周波音による精神干渉)の失敗原因の考察:物理的干渉に対する情念エネルギーの反発係数について】
【相田和人による『対話的アプローチ』の有効性:共感性同調による自己矛盾の弛緩と、それに伴う残留思念の霧散プロセス】
「…どうかな? S霊体が執着していたのは『コンクールでの成功』という結果だったけど、和人君の対話によって、その根源にある『ピアノ演奏そのものへの愛情』という初期動機に意識がシフトした。それによって、執着のエネルギー構造が崩壊して、自己解消に至った…っていう仮説を立ててみたんだけど」
麗奈は、目をキラキラさせながら、自身の考察を熱っぽく語る。
その姿は、新発見をした科学者のようであり、難解な謎を解き明かした探偵のようでもあった。
和人には、その内容の半分も理解できなかったが、彼女がこの不可思議な現象を、本気で理解し、解き明かそうとしていることだけは伝わってきた。
彼は曖昧に頷くと、「すごいな」とだけ呟き、部屋の隅にある、唯一彼の安息の地となりえそうな、革の剥げた古いソファに深く腰を下ろした。
そして、鞄から読みかけの文庫本を取り出す。
海外の、有名な哲学者のエッセイ集だ。『いかにして心の平穏を保つか』というタイトルの章を、彼は昨日からずっと読み進めている。皮肉な話だった。
「もう、和人君は相変わらずマイペースなんだから」
麗奈は、そんな和人の態度を特に気にするでもなく、楽しそうに肩をすくめた。
「まあ、いいや。何か新しい『お客様』が来るまで、私も研究の続きをしてるね。あ、そこの棚にあるクッキー、イギリスの魔女が焼いたっていう触れ込みだけど、味は普通だから、自由に食べていいからね!」
そう言って、彼女はまた机に向き直った。
カリカリとペンを走らせる、心地よい音だけが部屋に響く。
和人は本のページをめくりながら、この奇妙な空間と、風変わりな少女との間に生まれた、不思議な沈黙に身を委ねた。
この距離感なら、あるいは、平穏とまではいかなくとも、それに近いものは手に入るかもしれない。
彼の淡い期待は、しかし、活動開始からわずか三十分で、けたたましい音と共に打ち砕かれた。
「――たのもーっ!」
準備室の引き戸が、まるで道場破りのように、凄まじい勢いで開け放たれた。
そこに立っていたのは、日に焼けた精悍な顔つきと、Tシャツの上からでもわかる、がっしりとした筋肉に覆われた体躯。
野球部のユニフォームを着た、一人の男子生徒だった。
武藤猛。
野球部の不動のエースにして四番バッター。
その豪快なピッチングと、裏表のない快活な性格で、クラスの人気者でもある。
常に仲間と笑い声の中心にいる、太陽のような男。
和人とは、学校という同じ空間にいながら、決して交わることのない軌道を歩んでいる、正反対の存在だ。
その彼が、なぜ、こんな胡散臭い部活に?
「おお、ここが噂のオカルト研究会か! 部長の西園寺さん、いるかい?」
猛は、部屋の中の怪しげな品々を物珍しそうに眺めながら、大股で入ってきた。
「はい、私が西園寺だけど…どうかしたの、武藤君? こんなところまで」
麗奈が驚いて立ち上がる。
ソファで気配を消していた和人も、思わず本から顔を上げた。
猛は、その大きな図体に見合わず、少しバツが悪そうに、ガシガシと坊主頭を掻いた。
「いや、その…ちょっと、マジでヤバいことになってて…。誰に相談していいか、わかんなくてよ…。変な話だって、笑わないで聞いてくれるか?」
彼の表情は真剣そのものだった。普段の自信に満ち溢れた彼からは、想像もつかないような、焦燥と、そしてほんの少しの恐怖の色が浮かんでいた。
猛の話は、にわかには信じがたいものだった。
一週間ほど前から、夜、部活の自主練を終えて一人で帰ろうとすると、グラウンドで奇妙な現象が起きるのだという。
誰もいないはずのマウンドに、うっすらと人影が現れ、延々とピッチング練習をしている。
「最初は、目の錯覚か、誰かの自主練かと思ったんだ。でも、何度見てもいる。ボールの音も、ミットの音も聞こえねえ。ただ、ヒュッ、て風を切る腕の音と、完璧すぎるフォームだけが、暗闇の中にぼんやり浮かんでるんだ…」
そして、その姿を見るようになってから、猛は原因不明の極度のスランプに陥っていた。
自慢の剛速球は、まるで鉛の玉のように重く、キャッチャーミットに届く頃には勢いを失っている。
得意のスライダーは曲がらず、コントロールも定まらない。
まるで、見えない誰かから、強烈な圧力をかけられているかのように、身体が言うことを聞かないのだという。
「俺、このままだと、マジで投げられなくなるかもしれねえ…。夏の大会も、もうすぐなのに…。頼む、何とかしてくれ!」
太陽のような男が、すがるような目で見つめてくる。
その瞳には、エースとしての責任感と、得体の知れない現象への純粋な恐怖が、痛々しいほどに滲んでいた。
「――なるほどね。それは、特定の場所に強い想いを残した、いわゆる地縛霊の一種と考えられるわ。しかも、その想いが強すぎて、周囲の感受性の高い人間に、精神的な影響…サイキック・プレッシャーを与えている状態ね。了解したわ。任せて、武藤君。私たち、オカルト研究会の出番よ!」
麗奈は、白衣の袖を勢いよくまくり、完全に調査モードに入っていた。
その目は、難解な事件を前にした名探偵のように、爛々と輝いている。
「和人君、行くよ!」
「…俺は、ここで心の平穏について考察を深めている」
「だーめ! あなたのその、対象の心の核心にスッと入っていく能力が必要なの! ほら、グズグズしないで行こ行こ!」
麗奈は、全く聞く耳を持たず、和人の腕を掴んでぐいぐいとソファから引きずり出した。
その小さな身体のどこに、こんな馬鹿力があるのか。
結局、和人は、重い哲学書を机に置き、本日何度目かわからない深い溜息と共に、立ち上がるしかなかった。
その日の夜八時。
三人は、静まり返ったグラウンドに立っていた。
昼間の、生徒たちの汗と熱気、砂埃、そして笑い声に満ちた喧騒が嘘のように、そこは広大な静寂に支配されていた。
湿った土の匂いと、夕方に刈られたばかりの芝の青臭い香りが、ひんやりとした夜気と混じり合って、肺腑を満たす。
遠くで、街の喧騒が海の鳴りのように微かに聞こえるが、それもまるで別世界の音のようだ。虫の声だけが、やけにクリアに耳に届く。
煌々と照らされたカクテル光線の下、白く浮かび上がるマウンドだけが、夜の闇にぽつんと取り残された舞台のように、神秘的な雰囲気を醸し出していた。
「…来た」
麗奈が、息を殺して呟いた。彼女の声が、静寂の中でやけに大きく響く。
和人と猛が、息をのんでマウンドを見つめる。
すると、マウンドのプレートの上に、ゆらめく陽炎のように、ふっと半透明の人影が姿を現した。
この学校の、一つ古いデザインの野球部のユニフォーム。
すらりとした長身。彼は、誰に命じられるでもなく、ゆっくりとワインドアップの姿勢をとった。
その動きには、一切の無駄がない。
水が流れるように、しなやかな身体が使われ、腕が鞭のようにしなり、見えないボールを投げ込む。
ヒュッ、と空気を切り裂く、鋭い音。
そして、何もないはずのキャッチャーミットの位置で、パァン、と乾いた残響音が、まるで心の耳に直接響くかのように鳴り渡った。
彼はその動作を、何度も、何度も、寸分違わぬ正確さで繰り返している。
その姿からは、昨日見たピアニストの少女のような、悲壮な雰囲気は感じられない。
むしろ、そこにあるのは、求道者のような、純粋なまでの野球への情熱と、そして、どうしようもないほどの、深く、重い心残りだった。
「すごい…完璧なフォームだ…」
ダグアウトの影から様子を窺っていた猛が、感嘆と畏怖の入り混じった声で呟いた。
「彼、二年前のエースだった田中先輩だ。俺が入学した時、入れ違いで卒業…いや、卒業じゃねえ。夏の大会の決勝戦、その前日に、交通事故で…。甲子園まで、あとたった一つだったのに…」
猛の声が、悔しそうに震える。彼が感じていたプレッシャーの正体は、この偉大な先輩の、届かなかった夢の重さそのものだったのだ。
「よし、作戦開始!」
麗奈は、昨日とは違うアプローチを試みた。
彼女は、亜里沙という友人から借りてきたのであろう、最新のデジタルビデオカメラを三脚にセットすると、マウンドへ向かって堂々と歩いていく。
「こんにちは、田中先輩! 私、オカルト研究会部長の西園寺麗奈と申します! あなたの想いを、調査、いえ、理解するために来ました!」
彼女は、まるでフィールドワークに来た研究者のように、ハキハキと名乗った。
そして、マウンドから少し離れたキャッチャーの位置に立つと、パン、と手を叩いて構えた。
「さあ、先輩! 私が受けますから、思いっきり投げてください! あなたのその素晴らしいピッチング、記録させてください!」
彼女なりに、彼の存在を肯定し、その情熱に寄り添おうとしているのだろう。
その試みは、どこかズレてはいるが、真摯なものだった。
だが。
その言葉が、静かな水面に投げ込まれた石のように、波紋を広げた。
幽霊の少年――田中先輩の動きが、ピタリと止まる。
そして、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その顔には、表情がない。
しかし、彼の周囲の空気が、急激に粘度を増していくのがわかった。
ずしり、と重い圧力が、グラウンド全体に霧のように広がる。
「う…っ!」
猛が、胸を押さえて呻いた。和人も、肺が圧迫されるような息苦しさを感じる。
麗奈の言葉は、彼の孤独な練習を中断させ、彼が永遠に失った「観客のいる試合」という現実を、無慈悲に突きつけてしまったのだ。
悲しみと無念が、純粋なサイキック・プレッシャーとなって、生きている者たちの精神に重くのしかかってくる。
「…和人君」
麗奈が、助けを求めるように、小さな声で和人の名前を呼んだ。
その顔には、焦りと後悔が浮かんでいた。
和人は、ため息を一つついて、ゆっくりとダグアウトから出た。
彼は、マウンドに近づいていく。
重く、厚くなった空気の中を、まるで深い水の中を歩くように、一歩一歩、進んでいく。
田中先輩は、和人を睨みつけていた。
彼の聖域に侵入する、異分子を警戒する目で。
和人は、少年のすぐそばまで来ると、マウンドの固い土を、スニーカーの先で軽く蹴った。
そして、静かに口を開いた。
「野球、好きなんだな」
問いかけではない。
ただ、目の前にある純粋な事実を、そのまま言葉にしただけだった。
少年は答えなかったが、彼の周りに渦巻いていたプレッシャーが、ほんのわずかに和らいだ。
和人は、ダグアウトの方にいる猛を顎で示した。
「あいつ、今のエースなんだ。君がいた頃より、ずっと頼りないかもしれない。でも、必死でもがいてるよ。君が守りたかった、このマウンドで、たった一人で」
その言葉に、少年が初めて、猛の方へと明確に視線を向けた。
「君の時間は、あの事故の日で止まってるのかもしれないな。君の試合は、もう終わったんだ。それは、すごく悲しくて、悔しいことだ。でも、悪いことじゃない」
和人は続けた。
彼の声は、夜風のように穏やかだった。
「見てみなよ。世界は、ちゃんと進んでる。君のチームメイトは卒業して、新しい選手が入ってきて、チームの形は変わった。君が知っているチームは、もうここにはないんだ。すべては流れて、変わっていくものだから。川の流れと一緒で、誰もそれを止めることはできない」
その言葉は、残酷な真実を告げていた。
だが、和人の声には、それを乗り越えるための、不思議な温かみがあった。
「君の役割は、もう過去の栄光に縛られることじゃない。君が愛したこの場所で、今を生きている奴らに、未来を託すことじゃないのか? 君のその、投げたくても投げられなかった最後の一球は、もう、君が投げるものじゃないんだよ」
和人の言葉が、静かなグラウンドに染み込んでいく。
少年は、猛をじっと見つめていた。
その瞳から、敵意や焦りが、すうっと氷が溶けるように消えていく。
代わりに宿ったのは、先輩が後輩に向けるような、優しく、厳しく、そして少しだけ誇らしげな光だった。
彼は、和人の方へ向き直ると、深く、ゆっくりと頷いた。
そして、彼はもう一度、ゆっくりとワインドアップの姿勢をとった。
これまでの機械的な反復ではない。
彼の野球人生のすべてを込めた、正真正銘、最後の一球。
しなやかな腕の振りが、夜空を切り裂く。
見えないボールは、しかし、確かな意志と熱量を持ち、マウンドから猛のいるダグアウトへと、まっすぐに飛んでいった。
まるで、「あとは、お前に任せた」という、魂そのものを手渡すような、渾身のピッチだった。
「――託したぞ」
満足そうな、晴れやかな声が、確かに聞こえた。
その言葉を最後に、偉大なエースの姿は、夏の夜の幻のように、静かに闇へと溶けて、消えていった。
後に残されたのは、すっかり軽くなった夜の空気と、夜露に濡れた芝の匂いだけだった。
猛は、その場にへなへなと座り込んでいた。
彼の目からは、大粒の涙が、後から後からぼろぼろとこぼれ落ちていた。
プレッシャーから解放された安堵と、偉大な先輩から受け取った、あまりにも重く、温かい想いに、彼の心は激しく震えていた。
「…すげえ…」
やがて、ユニフォームの袖で乱暴に涙を拭い、立ち上がった猛は、和人と麗奈の元へやってきた。
その顔には、もう迷いも恐怖もない。
「俺、わかった。俺が背負ってたのは、プレッシャーなんかじゃなかった。田中先輩の、魂だったんだ」
彼は、まっすぐに和人を見つめた。
その瞳には、尊敬の色が浮かんでいる。
「相田…いや、相田先輩! 俺、強くなりたいです。腕の力だけじゃなくて…ここが」
彼は、自分の胸を、ユニフォームの上から硬い拳でとんとんと叩いた。
「心が、強くなりたい。あんたみたいな、本当の強さを、俺も知りたい。だから…!」
猛は、その大きな身体を直角に折り曲げ、深々と頭を下げた。
「俺を、オカルト研究会に入れてください! お願いします!」
「もちろん、大歓迎だよ、武藤君! これで部員も三人だね!」
麗奈が、満面の笑みで彼の肩をバンバンと叩く。
和人は、星の瞬く夜空を見上げて、今日何度目かわからない、宇宙の深さよりも深い溜息をついた。
部員、二人目。
しかも、学校で一、二を争うほど声が大きく、暑苦しい男。
彼の望んだ平穏無事な日常は、また一歩、光年単位で彼方へと遠ざかっていったのだった。