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第十五話(最終話)『波風の立つ、この日常を』

あの、長かった黄昏の夜が明けてから、一ヶ月が過ぎた。

世界は、まるで、何事もなかったかのように、そのありふれた、しかし、奇跡のように美しい日常を取り戻していた。空はどこまでも高く、深く、突き抜けるような夏の色をしていた。巨大な白い入道雲が、まるで天上のクジラのように、ゆっくりと、そして壮大に、青い大洋を泳いでいく。グラウンドからは、猛が所属する野球部の快活な掛け声と、乾いた打球音が聞こえ、蝉時雨と共に風に乗って、教室の開け放たれた窓を優しく揺らしている。

全てが、元通りになった。

いや、一つだけ、相田和人にとって、決定的に、そして、永遠に変わってしまったことがあった。

彼は、もう、「見る」ことがなくなっていた。

あれほど彼の日常を、灰色のインクで塗りつぶし、その心を悩ませ続けた世界のバグが、静さんの魂が大地へと還っていったあの日を境に、まるで長い、長い夢から覚めたかのように、ぴたりと消え失せたのだ。

人の肩に纏わりつく黒い情念の染みも、廊下の隅に揺らめいていた陽炎も、もう見えない。世界は、彼がかつてあれほどまでに渇望していた、クリアでノイズのない、完璧に美しい姿を取り戻していた。

その、あまりにも静かすぎる世界の中で、和人は一人、学校へと向かう道を歩いていた。

太陽の光が、肌の上で温かい。木々の深い緑が、目に鮮やかだ。生徒たちの他愛もない楽しげな笑い声が、まるで心地よい音楽のように聞こえる。

全てが、美しい。

全てが、輝いている。

彼は、かつて自分が、これほどまでに生命力に満ち溢れた、美しい世界に生きていたのだという、当たり前の、そして、かけがえのない事実に、今更ながら気づかされていた。

心の底から、安堵していた。これで、ようやく、あの平穏な日常へと戻れるのだ、と。

しかし、同時に、彼の胸には、ぽっかりと大きな、そして、どこか愛おしい穴が空いたかのような、どうしようもない寂しさがあった。

かつて、あれほど忌み嫌っていた世界の歪みとノイズ。

そのノイズが消え失せた時、彼は初めて知ったのだ。

自分の世界が、いかに多くの、声なき声と、見えない存在たちの悲しみと喜びに、満ち溢れていたかということを。

そして、そのノイズだらけの世界の中で、共に耳を澄ませてくれる、かけがえのない仲間たちが、そばにいたということを。

彼が望んだ平穏は、今、確かにある。

しかし、彼が本当に帰りたかった場所は、もう、この完璧すぎる世界には、ないのかもしれない。

そんな、漠然とした、そして、とても贅沢な喪失感を抱えながら、彼は、懐かしい校舎の昇降口の扉を開けた。

その日の放課後。

オカルト研究会の部室の扉を、一人の意外な人物がノックした。

九条だった。

彼は、いつもの黒いスーツではなく、洗いざらしの白いシャツに、ラフなパンツという、簡素な服装をしていた。その鋭利なナイフのようだった顔からは、以前の氷のような傲慢さは消え失せ、代わりに、深い深い疲労と、そして、答えを求める哲学者のような、苦悩の色が浮かんでいた。

部室に、一瞬だけ緊張が走る。

しかし、もう誰も、彼を敵だとは思っていなかった。

「…単刀直入に聞こう」

九条は言った。

「あの日、あの場所で、君たちは、一体、何をした? 私の力が全く通用しなかった、あの、神にも等しい存在を、君たちは、どうやって鎮めたのだ? 君たちのやり方は、私の知るいかなる霊的力学の法則にも当てはまらない。説明してくれ」

彼の声には、純粋な知的な疑問と、そして、自分の信じてきた世界の全てが根底から覆されてしまった人間の、途方に暮れたような響きがあった。

誰も、すぐには答えられなかった。

やがて、麗奈が静かに口を開いた。

「私たちは、何も、鎮めてなどいません。ましてや、祓っても、消してもいません」

「…では、どうしたのだ」

「ただ、聞いた、だけです」

答えたのは、和人だった。

部室にいる全員が、驚いて彼を見た。

「俺たちは、ただ、彼女の話を聞いた。彼女の数百年の孤独と悲しみと、そして、この土地への深い愛を、ただ、そこに座って、聞いていただけです。特別なことなんて、本当に、何もしていません」

その、あまりにもシンプルで、あまりにも誠実な答えに、九条は言葉を失った。

彼は、しばらく呆然と和人の顔を見つめていた。そして、やみくもに力を追い求め、魂の声に耳を傾けることを忘れていた自分自身の愚かさに気づいたかのように、ふっ、と自嘲するような笑みを漏らした。

「…そうか。ただ、聞く、か…。私には、生涯、たどり着けない境地だな…」

彼はそれだけを言うと、深く、そして、どこか晴れやかな表情で頭を下げ、静かに部室を去っていった。

彼の背中は、来た時よりも少しだけ小さく、そして、人間らしく見えた。

その夜。

部室には、いつものように、五人が集まっていた。

もう、調査すべき事件はない。解決すべき怪異もない。

彼らは、ただ、そこに集まっているだけだった。目的もなく、理由もなく。ただ、そこにいたいから、そこにいる。

猛が買ってきた、コンビニの特大の肉まんを、幸せそうに頬張りながら、次の野球の秋季大会の必勝戦略を、熱っぽく語っている。

蓮は、その隣で、新しく手に入れたという、美しい孔雀の羽根でできたペンで、詩をノートに書きつけている。「ああ、猛君の、その尽きることのない食欲は、まるで、ビッグバン以前の宇宙のエネルギーのメタファーのようだね…」

亜里沙は、最近ハマっているという、対戦型のオンラインゲームの攻略情報を、麗奈に熱心に説明している。「このボスは、物理攻撃が全く効かないので、魔法防御を下げてから、属性攻撃で地道にHPを削るのが定石なんです」

麗奈は、亜里草の話を楽しそうに聞きながら、「なるほど、それは強力なポルターガイスト現象に対する、結界戦術と似たロジックね!」と深く感心している。

それは、どこにでもある、ありふれた、他愛もない、高校の部室の、放課後の光景だった。

しかし、和人にとって、それは、この世界の何よりもかけがえのない、守りたかった、宝物のような時間だった。

やがて、一人、また一人と仲間たちは帰っていき、最後に、部室には、和人と麗奈の二人だけが残された。

夏の陽は長い。夕日が大きな窓からたっぷりと差し込み、部屋の中の全てのものを、温かい、ノスタルジックなオレンジ色に染め上げていた。

「…もう、本当に、見えなくなったの?」

麗奈が、静かに尋ねた。

「ああ。すっかり、な」

和人は頷いた。

「正直、ほっとしてる。ずっと、静かで平穏な日常に戻りたかったから。でも…」

彼は言葉を切り、少し照れくさそうに続けた。

「でも、少しだけ、寂しいんだ。皮肉な話だけどな。あれほど嫌だった世界のノイズが消えてみたら、今度は、この静かすぎる世界に戸惑ってる。お前たちの、この騒がしい声が聞こえないと、なんだか、不安になるんだ」

その素直な言葉に、麗奈は、ふふっ、と花が咲くように優しく笑った。

彼女は立ち上がると、和人の隣にそっと座った。二人の肩が、触れ合うか、触れ合わないか、くらいの、心地よい距離。

「ねえ、和人君」

彼女は、夕日に照らされた美しい横顔で、言った。

「私ね、このオカルト研究会を作った時、ずっと探していたの。理奈を私から奪っていった、あの祓い屋たちの力が全てじゃないって、証明してくれる何かを。特別な力や、画期的な方法を、ずっと、ずっと探してた」

「でも、違ったんだ。私が本当に探していたのは、そんなものじゃなかった」

彼女は、和人の方をまっすぐに見つめた。その瞳は、夕日を反射して、キラキラと宝石のように輝いている。

「私が本当に探していたのは、ただ、私の、誰にも理解されなかった、声なき悲しみを、黙って静かに聞いてくれる、誰かだったんだ。私は、きっと、あなたを探していたんだよ、和人君」

その告白は、あまりにも自然で、あまりにも温かかった。

和人の心に空いていた、最後の、そして最大の穴が、その言葉によって、完全に、そして永遠に塞がれていくのがわかった。

「…なあ、麗奈」

「なあに?」

「最初の質問、覚えてるか?」

「最初…?」

「音楽室で、初めて会った時のことだよ」

麗奈は少し考えると、ああ、と思い出して、悪戯っぽく、そして、この上なく幸せそうに笑った。

彼女は、あの夜と全く同じ問いを、しかし、全く違う、深い、深い愛情を込めて、繰り返した。

「ねえ、相田君。あなた、一体、何者なの?」

その問いに、和人は、もう迷わなかった。

彼は、この、自分を変えてくれた、全ての始まりの場所である、この混沌として、しかし、どうしようもなく愛おしい部室を、見渡した。

猛がいつも座っていたパイプ椅子。蓮が花を生けた窓辺。亜里沙が世界を解析した机。そして、麗奈がいつも立っていたホワイトボード。

そこにはもう誰もいない。

しかし、確かに、彼らの温かい笑い声と気配が、満ちている。

和人は、心の底から満足して、そして、この上なく幸せに、微笑んだ。

「―――オカルト研究会の、ただの一員だよ。それ以上でも、それ以下でもない」

彼が、かつてあれほどまでに望んでいた、平穏な、凪いだ水面のような日常は、もうどこにもない。

でも、それでいいのだ。

仲間たちという、優しく、そして、時に騒がしい風が起こしてくれる、心地よい波風。

その、ささやかで、混沌としていて、そして、かけがえのない、波風の立つ、この日常こそが、彼が本当に手に入れたかった、たった一つの、宝物なのだから。

夕日が沈み、世界に、優しい夜の帳が下りる。

二人は、もう何も話さなかった。

ただ、そこに座り、同じ窓の外の一番星を、眺めていた。

彼らの、新しい、そして、本当の日常は、今、まさに、始まったばかりだった。


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